ボイジャー号

 幼いころからよく見る夢がある。そこはきれいな湖の浜辺で僕たちは海賊ごっこをしている。湖を海に見立て、母を原住民に見立てる。口笛を吹けば風が吹くような気がしたし、大砲の音が聞こえる。次第に僕はこの場所を海にいるものだと思い込む。ああ、あのハウスボートには海賊がいたはずだ。僕たちは海賊で彼らに戦いを挑もうとする。そうして、海に出ようとすると夢はいつもそこで終わる。


 僕が幽霊を見ていた時の話をしようと思う。その日は桜が咲き誇る春の日で僕は真夜中に夜桜を見るために外に出たんだ。川沿いの街を一人で歩いて、街灯と月が川に映るのを見ていた。川沿いには手ごろなベンチが並んでいて桜の前においてあるそのベンチに彼女はいた。幽霊に性別があるのかはわからないけど「死ぬ前は女だったよ。」と彼女は笑っていた。

 彼女がなぜ幽霊になったのか。僕はそれを不思議に思って聞いたことがあった。すると彼女は「死んだ後にやりたかったことがまだできていないからよ。」と言っていた。死ぬ前の後悔じゃなくて死んだ後にしたいことを話すなんて変な幽霊だと僕は思った。


「やぁ、こんばんは。」

「こんばんは。」

 僕は夜また抜け出して幽霊に会いに来た。まだ桜がちっとも散っていなくて花の隙間から眩しい光が抜けてきていたのをよく覚えている。僕はその日一冊の本を持ってきていた。ライ麦だ。

「お、いいもの持ってるね。ライ麦か。」

「はい、冬は過ぎたんですけど読みたくなって。」

「あはは、いいこと教えてあげる。小説ってのはその季節じゃなくて別の季節にその季節を思って読むこともいいんだよ。私もよくやってた。」

「幽霊さんも小説がお好きだったんですか?」

「夫の影響でね。夫は暇さえあれば本を読んでいる人間だった。ライ麦も読んでたかな。君はライ麦の主人公のことどう思う?」

「えーと、読んでると主人公は世界のすべてが気に入らないと思っているって気になるんですけど、もしかしたらそうじゃないのかなって思ってます。」

「ほう、というと?」

「だって、主人公が思ってることって誰しも口にはしないけど思ったことばかりだと思ったからです。口にするかしないかの違いなだけで主人公はほかの人間と同じだと僕は思います。」

「いいね、それ。私もおんなじ見解だ。」

「ライ麦、読まれたんですか?」

「読んだよ。ナインストーリーズもね。」

 幽霊はそう言って桜のほうを見た。風が少しばかり流れて、花を散らした。

「私の夫はさ、若いうちに命が終わっちゃったんだ。事故だから仕方のないことかもしれないけど、でも、ずっと受け入れられないまま生きていてね。」

 幽霊は昔の話を始めた。

「その時にライ麦を読んだんだ。夫がよく読んでいたのを思い出してね。私は主人公によく共感できた。同じようなことに不満を持っていたし、同じようなものが好きだった。例えば歌を歌ってる女の子とかね。で、気づいたんだ。私は口に出していなかっただけなんだって。」

 幽霊は月を見ながら話していた。幽霊の体は薄く、半透明だったけど月の光は彼女を照らしていた。ゆるりと肌寒い風が吹く。

「だから、きみとおんなじだね。」

 そういって、幽霊は笑っていた。


 それからしばらくして、また幽霊に会いに行くことにした。ライ麦が読み終わってしまって、何かおすすめを聞きたいとそう思ったのだ。

 ベンチにつくと幽霊はベンチに座って桜を見ていた。桜は半分ほど散ってしまっていて、見ごろな時期は過ぎてしまっている。

「こんばんは、今日は幽霊さんにおすすめの小説を聞きたくて来ました。」

「こんばんは。おすすめか。」

 幽霊は少しうつむいて考えるポーズをとった。ひんやりと少し冷たい雰囲気が彼女からはした。

「そうだね。私が好きだったのは銀河鉄道だったけど。君ぐらいの年齢には少し大人すぎるかもね。そう言えば、この前の朝は海底二万里をもっていたね。」

「持っていましたけど。その時幽霊さんのこと僕見てませんよ。」

「あはは、それは太陽が明るすぎるからだね。こんな薄い身体じゃ見えなくても不思議じゃないと思う。でも、見えててないからいないってことにはならないでしょ。」

 そう言われて、ぼくはうんとうなずいた。昼はそうでもないのに夜になると窓の光が街にあふれてこう思う。「たくさんの人がいたんだな」って。

「海底二万里が好きなら、アーサー・ランサムとかもおすすめかな。ツバメ号とアマゾン号の話。少し長いけど私はそれが大好きだったな。」

「どんな話ですか。」

「それは読んでからのお楽しみだね。」

 そのあと少しだけ、幽霊の昔の話を聞いて、僕は家に帰った。

  

 次の日、僕は図書館に足を運んで、幽霊が話していた本を借りに行った。本のある場所に行って、少しずつ読んでいく。日が落ちるころにはもうずいぶんと読んでしまっていて、次の話を読もうと本棚に向かうと本棚の奥に一冊のノートがあるのが見えた。何だろうと思って、手を伸ばしてそれを取り中身を見るとそれは日記だった。ページの間には写真が挟んである。閉館時間も近かったので残りの話とその日記をもって家に帰った。後になって気が付いたのだが僕が幼いころから見ていた夢はアーサー・ランサムの本にそっくりだった。


「で、どうだった。アーサー・ランサムは。」

「とてもいい本でした。それに、僕が幼いころから見ていた夢にそっくりで驚きました。」

「それはとても素敵だね。今日は何を持ってきたの。」

「日記帳です。誰のかはわからないんですけど、図書館の本棚に置かれていて。」

 幽霊は少しはっとした顔になる。

「それを見て何か思ったことはなかった?」

「え、そうですね。なぜかとても懐かしい感じがしました。日記帳を反対に使っていたのも、写真を挟んでいたのもなぜかその意味が分かるような気がして。」

 その瞬間、幽霊は誰かの名前を呼んだ。どこかで聞いたことのある気がした。幽霊の目から頬を伝って涙が流れた。

「そうか、あなただったのね。」

 いつもは「君」と呼んでいた幽霊が僕のことを「あなた」と呼んだ。風がびゅうと吹いて、口笛のような音がした。桜は見事に散ってしまってもう春が終わることを告げていた。僕は無意識に口を動かして、誰かの名前を呼ぶ。まるで、別のだれかが口を動かしているようだった。幽霊は名前を聞くと満足そうにうなずいた。

「また会えてうれしい。」

 幽霊はそう言って僕の手を握った。少しひんやりとしていて、風のようだと思った。

「ありがとう、これで死んだ後にやりたかったことが叶っちゃった。その日記は君にあげる。それ私のやつだから。」

 そう言って、幽霊は輪郭があやふやになった後、消えてしまった。

 それから、僕は日記を読み返した。日記には彼女の願いと思い出が綴られていた。その中に彼女がおすすめしていた本についての話も見つかった。アーサー・ランサムの書いたものの一つで海沿いのバス停を取った写真が挟んであるページだった。

 ページを最後までめくると日付が一番古いものになっていて、そこに彼女が死んだ後にやりたいことが書かれていた。「彼にもう一度会いたい」その一行だけが書かれていて、文字が少し滲んでいる。挟んである写真は一組の男女が祭りで遊んでいるものだった。少しだけ懐かしい匂いがした。

「生まれ変わりだったんだ」と僕はそう確信した。

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空を海に喩えたら 浅井夏乃 @asainatuno

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