海へ出るつもりじゃなかった
彼が死んだのは一年も前のことだっただろうか。特に彼の寿命が短かったわけではない。ただ、生活の中に確かに死に場所というものが存在していて偶然彼がその場所にいたというだけだった。
彼との思い出を語るとするならばまずは出会いからだと思う。私たちは海沿いのバス停で出会った。その日はとても暑く、海へ来たはいいものを私はその暑さにやられてしまった。しばらく日陰で涼んでいたがそれでもまた砂浜に行くことがあまりに億劫になってしまい、その日私はまだ日が高いというのにバスで帰ることにしたのだ。
風が潮の匂いを連れて私の前を通りすぎ、蝉がよく鳴いていた。私は自販機が目についたのでソーダを買って、バス停のベンチに腰掛けた。キャップを開くとさわやかなにおいが鼻をくすぐる。
「夏って感じがする。」
潮のにおいに混じるサイダーの匂い、セミが鳴いていて、私は陰で涼んでいる。この季節はわたしには少し眩しすぎるがそれでもそんなことを許してしまうほどに美しかった。
立ち上がってバスの時刻表を見るとまだ一時間もあることに気が付いた。あと一時間もこうしているのは退屈だ。そう思った時、彼が話しかけてきた。
「突然すいません。写真撮らしてもらってもいいですか。」
声が聞こえたほうを見るとまだ若い彼がいた。その時の私はそんな彼の第一声に「不審者だ」と思ったが夏の暑さにやられたせいか、退屈な一時間にちょうどいいと思ったのか、彼に尋ねた。
「理由があったら別にいいよ。ここのバスあと一時間も来ないんだ。」
そう言うと彼は少し恥ずかしそうにしながら「サイダーを持つあなたがあまりに夏だったので。」と言った。私は思わず吹き出してしまった。私のことを夏だといった彼がとても気に入ったのだ。
「あはは、いいよ。撮っても。その代わりバスが来るまでの一時間、私の退屈をなくしてね。」
そのあと、彼は一枚の写真を撮って私に見せた。サイダーを持ったままベンチに座る私の写真だ。彼の写真の腕は大したもので構図も光量もすべてが完璧だった。サイダーの水面に反射した少しばかり私が写っている。なるほど、自分のことではあるが「確かにこれは夏だ。」とそう思った。
聞くと彼はまだ大学生で夏休みを使っていろんな場所を訪れては写真に収めていたそうだ。私が「友達を誘おうとは思わなかったの?」と聞くと「必要ないので。」と彼は答えた。その言葉が気になって見せてもらった彼の写真には二人以上で写っている写真がなかった。風景を撮ったものかたった一人をとったものばかりだったが友人がSNSにあげているどの写真よりも夏という言葉がぴったりだと私は思った。
「ねぇ君。夏が好きなの?あなたが撮った写真、全部夏のものでしょ。」
夏が好きかどうか。そんな質問に彼は静かに首を振った。
「夏が好きかどうかと聞かれるとわからないです。ただ、僕の思い出に夏以外のものがないからこうして夏ばかりを撮っている気がします。春の桜も秋の紅葉も冬の雪も僕は鮮明に思い出すことができません。ただ夏に見た風景だけは鮮明に思い出すことができます。木陰が光っていて、いやになるほど暑い。僕はその思い出をより鮮明にするために写真を撮っています。だから、夏の写真だけしか撮らないのかもしれません。」
そう答えた彼はまるで私の世界とは違う世界で生きているような気がした。その後、聞いてみると「あの時は思い出の中を生きていたからね。」と彼は言っていた。おそらくあの時の彼の世界は私が普段生きている世界とは少し違ったのだ。今思えば、私は思い出に生きている彼の雰囲気に惚れていたのだろう。なぜなら、それで終わるはずだった彼との関係をもう少しだけ長く望んだからだ。
「ねぇ、その写真私にくれない?住所教えるからさ。」
それから少しして彼から写真が送られてきた。写真の裏には青色のインクで「夏のバス停」と書かれている。彼の思い出の中にはバス停に関わるものがあるのだろうとそう思った。どんな記憶だったのか彼は教えてくれなかったが彼は「どれも大切なものだよ。」と私に教えてくれた。
そして、彼の影響か私も私の思い出を写真に収めることにした。初めて私が撮ったものは夜祭の屋台でラムネを買う女の子の写真だった。私は父に昔ラムネを買ってもらった思い出を鮮明にしたいと思ったのだ。
写真を撮った後、彼の真似をして写真の裏に青色のインクで「ビー玉」と書いて、その写真と「よかったらこれからもこうして文通しませんか?」と書いた手紙を送った。彼はすぐにベンチで涼む女性をとった写真と手紙を送ってくれた。写真の裏を見ると「子供」と書かれていた。
それから、彼との関係が進むには時間がかかった。歳が少し離れていることも理由の一つであったが彼と私には薄く、だが確かな隔たりがあったからだ。彼は私との関係が変わった時に夏以外の写真を撮り始めたのでそれは彼が思い出の中に生きていたからだと私は思った。
恋人になって、夫婦になって。写真一枚から変わった人生は少しずつ関係を変えて、だが確かに私の中の思い出になっていった。夜祭に行った。花火を見た。珈琲を飲んで、春が過ぎて、冬が来て、夏を待って、また夏が来た。ある日彼がアルバムを作ろうといった。アルバムには私と彼が二人で写っている写真を飾った。アルバムは少しずつ増えていって、私たちは思い出を増やしていった。映画を見た。花見をした。海に行った。雪で遊んだ。図書館に行った。彼が好きな小説はどんな名前だっただろうか。とてもきれいな話だったことはよく覚えている。
そんな彼が死んだと聞いたとき私は人生の中で初めて現実から目を背けた。20数年という短い人生の中で幾度も現実を見ることを迫られ、それに慣れてしまった私が初めて。彼がもういない。その事実がたまらなく悲しかった。アルバムを見返して、涙を流して、死なないためにものを口にして、息をした。悲しみに暮れて、怒りを吐き出した。なぜ彼だったのかと。なぜ私から彼を遠ざけたのだろうと。私は生きているのではなかった。生きるまねごとをしていたのだった。
そして、彼が死んで、二度目の夏が来た。相変わらず私は現実では生きる真似をしていて、せっかくの夏だというのにクーラーを緩くかけた部屋の中でじっとしていた。思い返すたび彼と過ごした時間は私がこうして一日を過ごす時間よりもはるかに短く感じる。一日に何度時計を見ても針は全く進んでいないのに、気が付くとまた夏が来たように感じてしまうのだ。
「あと何回、夏が来るんだろう。」
私はよくそう考えていた。二年もたつと母からは「前を向いていたらどう?」という心配の電話がたびたび来る。
「大丈夫?元気にしている?」
「まぁ、それなりに。ご飯も食べてるし、仕事はあまりできてないけどまだしばらくは大丈夫。」
母とそんなやり取りをするたびに私の中の彼が少しずつぼやけていくような気がした。彼の体温はどんな暖かさだっただろうか。声はどんなにやさしかっただろうか。思い出はどんどんと不鮮明になっていく。こんなにも悲しいことはないだろうと私は思った。
ある日、彼が私と出会う前の写真はどんなものだったのだろう。ふと、そう思ってずいぶんと開けてなかった彼の部屋を開けた。部屋は埃っぽく、カーテンが空いていたせいか本棚の本はすっかり日に焼けてしまっている。彼の机へと足を運んで、日焼けした紙の束を一冊ずつ確認するとその中に数行の文字だけが書かれているものを見つけた。罫線が書いてあるだけのノートに日付が書いてある。彼の日記だった。
私は彼の日記に少し違和感を覚えた。日付がページをめくるたびにどんどんと古いものになっていく。彼はノートを反対側から使っていたのだ。私は一番新しい日付を開けてそれを読みだした。
12月3日 晴れ
今日は寒かったので家で過ごすことにした。妻はこたつから出てこなかったがそれでもいいだろうと思った。
12月2日 曇り
昨日降った雪がまだ少しだけ積もっている。ベランダに置いた妻が昨日作っていた雪だるまはまだ残っていたけど、手が一つとれてしまっていた。僕は下に置ちている枝をつけなおした。
さらにページをめくる。
9月27日 晴れ
今日は紅葉を見に近くの公園へ出かけた。妻が銀杏を踏んで遊んでいて、公園からは子供の声が聞こえた。
9月26日 晴れ
今日は妻と柿を食べた。最後に食べたのは幼いころだったけど、とても甘いと思った。
ページをめくる
4月2日 晴れ
今日はいい日だった。桜はきれいだったし、妻ができた。初めて花見をした。
それから、次々とページをめくると私が送った写真が届いたであろう日付が書かれていた。
8月18日 雨
前に写真を撮った人から手紙が送られてきた。写真にはラムネを持った女の子が写っていて、昔父に同じようにラムネを買ってもらったことを思い出した。ちょうど近くで祭りをやっていたので僕は写真を撮りに行った。
そのページには一枚の写真が挟んであった。ラムネからビー玉を取りだそうとする男の子の写真だった。彼にも同じような思い出があったのだろう。
それからのページには日付の数だけ写真が挟んであった。彼と出会った夏に彼が撮っていたものだろうか。その中には私の写真もあった。
8月13日 晴れ
今日は海へ行った。というより電車で寝ていたら海へと来てしまった。そこでバス停と女の人の写真を撮った。サイダーを持った彼女はとても美しかった。
涙が落ちて、日記の文字がにじんだ。彼と出会ったあの日に私は帰ってきてしまった。そして、私は彼が使っていた青色のインクはいつも同じものだったことを思い出した。にじんだ青色が不規則に広がっている。彼は思い出を鮮明にするために写真を撮っているといっていた。私も同じことをすれば彼を鮮明に思い出せるかもしれないと私は思った。
ページをさらにめくっていき、気が付くと日記は一番古い日付になっていた。
7月29日 晴れ
本を読んだ。湖で遊ぶ少年たちの話だ。彼らには本当に湖が海に見えていた。僕も思い出を現実だと思うことができるかもしれないとそう思った。
ページには砂に埋まった海賊船の写真が挟まっている。彼と一度だけ行ったことのある公園だった。そのページを読んで私は彼が好きだった小説を思い出した。湖で海賊ごっこをしている少年たちの話だ。海外の児童文学だった気がする。「彼らは本当に妄想の世界に生きているんだよ」と彼が言っていたことを思い出す。そして私はその言葉である突飛な思い付きをした。誰が聞いても憐れんで笑ってしまうような思い付きだ。
「もしかしたら。」
そう思った私はすぐに行動に出た。
私は日記をもとにある場所に戻した。部屋を出て、カメラを取り出す。外からは子供たちの声がいつもよりも多く聞こえる。確か今日は近くで祭りがあったはずだ。
「祭りに行こう。写真を撮りに。」
私は浴衣を着て、下駄をはいて外に出た。手にはカメラを持って。足元から乾いた下駄の音が聞こえて、まだ生ぬるい夜風が吹いた。もしかしたら、私は彼とまだ生きることができるかもしれない。そう思った私はまた彼の真似をして、日記をつけて、写真を挟むことにしたのだ。
それから祭りで手をつないでいる男女の写真を撮った。女の子のほうはサイダーを持っていて青い浴衣を着ている。昔、彼と夜祭に行ったときに私が着た浴衣と同じ色だった。写真を現像して裏に青色のインクで「サイダー」と書いた。
まだ、彼との思い出は消えていない。少しずつでも鮮明にしようと私は思った。写真を撮って、日記を書いて。思い出の中では彼はまだ死んでいない。私が思えば、彼はずっと生きている。そうだ、書いた日記をどこか人目のつく場所に置いておこう。図書館なんかがいいかもしれない。そしたら、それを読んだ誰かの中で私たちは生き続けるかもしれないとそう思ったのだ。
今日も日記を書いて写真を撮った。もう何度も夏が来て、そして夏が過ぎた。今日も私は思い出の中を生きている。
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