水蓮

高校三年生の夏休みだった。私は透と受験期の夏休みという貴重な一日を使って旅に出た。旅に出ようと言い出したのは透だった。

「ねぇ、翠。この前の物理の授業おぼえてる?」

「覚えてるけど。何かわからないところでもあった?」

 終業式の日。学校が午前で終わり、同級生の会話する教室で透はわたしに話しかけてきた。

「そうじゃない。夏休みって暇?暇なら一日付き合ってほしいんだけど。」

「暇って私たち受験生じゃん。」

「塾ない日とかでいいからさ。お願い。」

「別にいいけど。で、何するの、その一日で。」

「旅に出たいと思ってさ。」

「は?」

 透の言いだしたことと物理の授業を覚えているかという言葉のどこに関係があるのか全く分からなかったが透はそう言いだした。

「この前の物理でさ、先生言ってたじゃん。色は光の波長によって決まってるって。私さ。みんなの見てる景色の色がどんななのか知りたくなった。」

 透はいわゆる色盲だった。生まれつき色を知らず、彼女の世界は白と黒が混ざり合ってできている。そんな彼女が色について自ら私に話しかけてきたことは幼稚園の頃、必要に絵の具の色を聞かれたことが最後だった。

 私は夏休みの一日くらい生き抜きにと透のたびについていくことにした。  


「で、どうやって調べるの?色の波長って。」

 電車に揺られながら私は透に聞いた。平日だからか車内には人がおらず、冷房が少し肌寒いくらいに効いている。

「ん?翠で調べる。」

「え?」

「翠がみて、スマホで調べる。それだけだよ。ネットって便利だね。」

「それちゃんと測れないけどいいの?」

「いいよ、それで。だって私はそれでわかった気になれるんでしょ。それって全部を理解することよりもずっと大事なことだと思うんだ。」

「で、これはどこに向かってるの?」

「どこにも向かってないよ。行きたい方向の電車に乗って気に入る景色があったらそこで降りる。で、気にならなくなったらまた電車に乗る。これはそういう旅だよ。」

「適当すぎでしょ。」

 そう言って私は透の見ているほうを目で追った。窓の外は青空に入道雲が浮かんでいる。夏になると現れるその雲が私は大嫌いだった。夏の日差しに当てられて、くっきりと黒い影を落とす雲。ほかのどの雲よりも輝いて見えるその雲を見ると私はいつも自分が嫌になってしまう。

「翠。降りよっか。ここで。」

「気に入ったの?」

「うん、気に入った。」

 車内に駅の名前が流れ、私たちは外に出た。夏の湿気が体を包む。

「ここ、私たちの街とあんまり変わらなくない?」

「そうかな。だって私たちの街にはあの花咲いてないよ。ツツジでしょあれ。」

 透が指をさすほうには赤い色のツツジが咲いていた。透は花を一つ摘み、逆さに向けると口に着けた。

「透汚い。」

「ツツジの花って甘いんだ。翠もやったら?」

「やらない。蜜って言葉知らないの?」

「知ってるよ。ねぇ、この花って何色?」

「赤。」

「色の名前じゃなくて波長。」

「ちょっと待ってて。」

 携帯で波長を調べる。出てきた表を使って全く正確ではない数値を透に伝えると透は満足したようにわらってリュックから付箋とペンを取り出した。

「それで何するの?」

 そう聞いた私にまるで見せたほうが早いといわんばかりに付箋にペンを滑らせ、その付箋を花の近くに貼り付けた。付箋には私の言った波長が書かれている。

「こうするの。」

「それでわかった気になれるの?」

「うん、なれる。」

 そう言って透はツツジから興味をなくした。私は少し駆けて透の横に並ぶ。

「なんで波長なんかにしたの?カラーコードとかほかにもっといいものあったでしょ。」

「カラーコードって情報で習ったやつ?それ私からしたら色の名前と同じだよ。色が見えてる人のために作られたもの。」

「じゃあなんでわざわざ波長。」

「物理ってさ、私たちが生まれてくる前も何も変わんないものでしょ。もちろん人間が生まれる前から。人のいるいないに関わらずその波長はずっと変わらない。それって私からしたら人が勝手につけた色の名前よりもずっと信頼できるものなんだよ。」

「なるほどね。それって私はどうなるの?」

「計測器よりは信頼してないよ。」

「……ひどくない?」

「でも、言葉は信頼してるよ。理由なんてそれで十分でしょ。」

「何の理由?」

「私がわがまま言う理由。」

「あはは、何それ。」

「翠の言葉はきれいだからね。それで十分なんだよ。」

 白と黒しか知らない彼女がきれいというのだから、それは本当にきれいなのだろう。

「じゃあ、どんどん行こう。」

 それから、私たちは透が気になったもの全てに付箋を張り付けた。自販機、夏野菜、ラムネの瓶、木の葉。夏という季節は何もかもがきらめいているように感じられた。冬のイルミネーションよりもずっと。

「ねぇ、透が少し傷つくこと聞いていい?」

「ん?いいよ。」

「色が見えないってどんな気持ちなの?ほかの人には見えてるのに自分には見えない。それってどんな気持ちなのかなって。」

 この疑問は私が透に対してずっと聞いてみたいことだった。透には色が見えていたら起こらなかった問題がたくさんあった。同級生とのいがみ合い、疎まれたり、いじめられたり。それらは色が見えていたら彼女の人生にはなかったものだ。人生が運命づけられているというのなら彼女の人生は生まれてから何一つ変わっていない。それは私も同じことで私たちは生まれてから何一つ変えることなく人生を終えるのではないか。そんな疑問が透を見るとふと湧いてきたのだ。

「何にも思ってないよ。いまは。」

「え?」

「小さいころはさ、いろいろ思ってたけどさ。色が見えたら、私がみんなと同じだったらって。それでちょっと前に気づいたんだ。色が見えてないと今の私はいない。こうして旅をしたいって思ったことも、いろいろ考えることも。だから、私は考えるのを辞めたの。今の私は色が見えないから生きている。それがわかったから。」

 透のその言葉は私の知りたいものの一つだった。彼女の人生はこれまで一度も変わることがなかったがそれは変えてはいけないものだと彼女はそう言ったのだ。

「それにさ、私には色が見えてないけど、みんなだって見えないものがあるでしょ。将来だったり人の気持ちだったり。それもさ、見える人や見えない人がいる。色が見えないことなんて些細なものだと思うよ、私は。」

 透は些細なものだといった。ほかのだれが何と言おうと透にとって些細な事。透のことを知るのにそれ以上に信頼できる言葉はないのだ。

「そうだ、翠には言っておこうかな。私、将来小説家になろうと思ってさ。」

「小説家ってなりたくてなれるものなの?」

「なれるよ。私には見えてるから。」

「それなら十分だね。うん。」

 私は透を通して透の見ている世界を少しだけ知ることができた。私たちは同じものを見ているようでそれに同じところは何一つない。だから私たちはお互いを知る必要があるのだ。

 夕方になって、少しずつ空が暗がり始めた。雲が少し高く感じる。私が夏という季節で一番美しく思う景色だ。

「そろそろ帰ろうか。私たち受験生だし。」

 そういって透は駅のほうに足を運ぶ。夏の夜風が少し気持ちいい。風が葉を揺らす音が聞こえる。少し遠くで大きくはじける音がする。これは花火だろうか。夜が近いからかずっと遠くで咲いている。

 電車に乗ると私たちは同じ窓のほうを見た。空の色と景色に映る影は少し違う色に見える。私は気のせいだと思っていた。

「ねぇ、空ってさ、何色なの?」

「え?」

 透が私に空の色を聞いてきた。

「たぶん、ちょっと違うと思うんだよね。黒色じゃないでしょ。空って。」

「いや、黒色でしょ。」

「えー、そうかな。」

 透が立ち上がって窓に近づく。私もつられて窓に近づくと花火が一つ空に昇ってはじけた。

「翠にはあれがどう見えている?」

「花火のこと?空で赤とか緑とか。いろんな色が混ざってみえてるよ。」

「私にはね。白い花が二つ咲いたように見えるんだ。」

 もう一度見ると空に上がった花火が湖に反射している。

「空の色が水に反射してて、私には空と湖がつながってるように見える。それで、真っ白光が二つ咲いたように見える。やっぱり空の色は黒じゃないと思う。ねぇ、波長調べてくれる?」

 私は透のその言葉を聞いて空が黒色じゃないと気が付いた。もっと深い藍色のような色を空はしている。。

「……435nm(ナノメートル)とか?」

「ありがとう。」

 一言お礼を言った透は付箋を二つ取り出して、電車の窓に張り付けた。空と湖には同じ数字が書かれている。

「そっか。翠には空と湖が別々に見えてるのか。ちょっと得した気分。」

「え、なんで?」

「だって、翠には空と湖が見えてるんでしょ。でも私には空が二つに見えている。空に浮いてるみたいに。現実じゃありえないけど私の目にはそう見えてる。すごくきれい。」

 私は透に見えてる世界がどんなものなのか想像した。翠と同じ景色が見えているかはわからないけれど、少しだけ見えていなかったものが見えたような気がした。

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