空を海に喩えたら
浅井夏乃
美しい夏
幼いころが過ぎてからよく見ている夢がある。それがどんな名前の場所でどんな名前の人といたとかそういったことはあんまり覚えていないけど。ただそれがどこかの砂浜で、とても仲のいい誰かといたことだけはよく覚えている。
「ねぇ、キャプテン。この船っていつ出航するの?ほら、私たちもうずっとこうして船の上で準備だけしてる。」
「あー、でもさ。風がないと出航する気が船にも起きないと思うんだよね。」
「で、またそうやって甲板でだらだらとする気ですか?まったくもう。」
その場所は砂浜近くのとても小さな船の上だった気がする。誰かが乗り捨てていったその船はキラキラと光る水面と相まってか小さいのにとても大きく、それが私たちの船であると、そう思った。
「で、風。いつ来るんですか。」
「さぁ、ただそろそろ来ると思うんだよね。そろそろ。」
「それほんとうですか?昨日もそれ言ってましたよ。あ、副船長。聞いてくださいよ。キャプテンがまだ出航しないって言ってて。」
「ほうっておきな。出航する日はちゃんと来るから。」
「はーい。あ、ねぇねぇ、天気どう?風吹きそう?」
「えーと、全然来そうにないよ。明日も明後日も。」
「ほら、風来ないって。」
「ちゃんとくるって。いつかは。」
「おーい、美波。もうすぐ授業始まるよ。おきなよ。」
「あー、ありがとう。でもほらまだ五分もある。授業まで。」
「移動教室じゃなかったっけ、次。」
「そういうこと。ほら、美波行くよ。」
「おー。」
がさがさと机をあさる。
「なんかさ、こうやって動くのめんどくさくなる時ってたまにあるよね。」
「だからって動かなくなるのは美波だけだよ。」
「美波っていつものんびりしてよね。」
「いつも何かを待ってるって感じ。」
ギギっと音がして、コツコツと八つばらばらに音が聞こえる。
「あー、でも何かの拍子じゃないとほら、勢いなんてつかないじゃん。」
「そんなので大丈夫なの?」
「うん大丈夫だって。たぶん。」
「なんでそう思うの?」
「ん?誰かが言ってた気がする。だれかは忘れたけど。」
「ほらね、こいつずっとこうだから。」
「確かに、ずっとこうだね。」
「あはは、確かに。」
「だね。」
「自覚あるなら、もうちょっとちゃんとしなよ。」
「まだその時じゃないんだよ。まだね。」
八つコツコツとする音と、窓から少しだけびゅうと風が吹いた音がした。
「キャプテン、いつまで寝てるんですか。ほら、出航いつするか私に教えてくださいよ。」
「あー、でもほら風がまだ来ないから。風が来ないと船だって出航する気起きてないでしょ。」
「でも、そうやってずっと寝ているのはだめですよ。ほら、起きて出航準備の手伝いしてください。」
「あー、でも何かきっかけがないとさ。立ち上がることすら億劫だよね。」
「ほら、手を貸しますから。」
「うん。それいいね。十分。」
手を引かれて、コツ、コツと右左順番に音がする。
「あ、副船長。聞いてくださいよ。キャプテンがまた出航しないって言ってて。」
「放っておきな。こいつずっとこうだから。」
「そうですけど。あ、ねぇねぇ、風っていつ吹きそう?」
「えーと、明日か明後日には。」
「ほらね、もう少しだって。その時は。」
「怠けてる人に言われてもねぇ。」
「ほら、行くよ。準備するんでしょ?」
「美波、前電柱。」
「お、ほんとだ。ありがと。」
「美波ってよく変なところ見てるよね。何見てんの?」
「空とか、鳥と窓の内側とか。」
「で、何考えてるの?」
「海みたいだなって。空。ほら、西から東に白からどんどん青になって藍になってくの。海みたいだなって。どんどん深くなってる。」
「じゃあ鳥と窓は?」
「鳥は飛んでるなって。窓は内側に誰かがいるのが面白くって。」
「だれかって。それ美波じゃん。」
「でも、なんか違うでしょ。半透明で。」
「こいつの話聞いてもわかんないから二人ともその辺にしておいたほうがいいよ。」
八つコツコツと音がして、四つカラカラと回る音がする。
「でも、美波って本当変わんないね。」
「あー、でも変わってるってよく言われるよ。それって変わってる途中だと思うんだよね。たぶん。」
「私、それって意味違うと思う。」
「でも、ずっと美波って準備中って感じがする。ずっとゆったりしてて波に揺られてるみたい。」
「波に揺られてる。うん、その表現いいね。」
「いいねって。美波ずっと私たち一緒にいられるわけじゃないんだから。しっかりしてよね。ほら、もうすぐ大学受験だし。」
「確かに、美波ってどこに行くんだろ。」
「うーん、どこかに行くんだと思うよ。たぶん。」
「また、そんなこと言ってる。」
ハァという音が一つと、コロコロとのどで震える音が二つする。
「あはは、そうだね。どこかに行っちゃうんだろうね。美波は。」
「でも、そうやってるのが美波らしいかも。」
「ほら、まだその時じゃないんだよ。たぶん。」
「じゃあ、いつ来るのよ。あんたのその時ってのは。」
「もう少しだよ。きっと。」
「ほんと心配だわ。こいつ。」
「キャプテン、いつ出航するんですか?」
「んー、そろそろかな。波もいい感じだし。」
「出航するって風なんか吹いてないですよ、今。」
「でも、きれいだしな。水面。出航するには十分だよ。きっと。」
「でも、動くには風が必要なんですよ。帆船なんだから。」
「そういう時は手を使えばいいんだよ。押して波に揺れてゆったりと出航すればいいんだよ。」
「はぁ。あ、副船長聞いてくださいよ。キャプテン風もないのに出航するって言ってて。手を使えばいいって。」
「こいつ、ほんとに適当だから。ちょっと待ってて。ねぇ、天気ってどんな感じ?風来そう?」
「えーっと、少し沖に出ればたぶん。」
「うん、十分だね。それ。じゃあ出航しようか。船長命令だよ。ね、副船長。」
「だそうだよ。」
「でも、この天気だとすぐに風止んじゃいますよ。」
「その時は空を飛べばいいんだよ。嵐が来たら海に潜ればいいんだよ。ほら、どっちもおんなじような色してるし。大丈夫。」
目が覚めると日が半分だけ落ちている外に半透明の私が写っているのが見える。少し伸びをして、身だしなみを整えると私は扉を開けて外に出た。
外は夏の夕暮れで空が海のように見える。がやがやと人が話している音がして、コツコツと二つだけ石畳を踏む音が足元から聞こえる。少し遠くに来たからか、この場所はこの時期になると日が落ちる時間がずいぶんと遅くなる。
大学に入学すると昔なじみの三人とは離れ離れになってしまった。それから、何人かの人と出会って、別れて、近くなって、遠くなった。思い出そうとすると名前は出てくるけれど顔は少しぼうっとしている。半透明というより、何か壁があって、別の世界に生きている気分がする。思い出ってそういうものなんだと思う。
大学を卒業すると私は写真家として生計を立てることに決め、日本を出て少し遠いこの国まで来た。学生のときにみたこの国の写真がやけに綺麗に見えたからだ。三人にそのことを報告すると「美波、準備ができたの?」と聞かれた。
「そう、準備ができたの。たぶんこの時を待っていた気がする。うん。」
「まぁ、あんたなら何とかなるでしょ。ほら、私たちから離れてもこいつ四年も生きてる。」
「確かに。違う大学に行くことが決まってからは気が気でなかったけどね。」
「毎日心配してたもんね。」
「だって、美波。高校でも中学でもずっとぼうっとしてたし。」
「ありがとう。でもたぶん大丈夫。誰かがそう言ってた気がするし。」
「誰かって?」
「あー、夢の中だった気がする。」
「また始まった。連絡するくらいはしてよね。」
「連絡が来たらちゃんと返すよ。」
「私、美波が撮った写真みたいなぁ。ねぇねぇ、送ってくれる?」
「いいよ、手紙と一緒に送ったあげる。」
「どうやって送るかわかる?」
「あー、何とかなるよ。たぶん。空に飛ばしても波に揺られても、手紙、たぶんどこかへは行くだろうから。」
「それ、空輸と瓶に詰めるってこと?」
「そうそれ。」
「ほんと適当なんだから。」
くすくすと口が震える音が四つした。
それから私は何度か手紙を送った。写真家としてはそれなりにお金を稼げていて、今もこうして息をしている。手で背中を押してくれた友人のために私は数枚の写真と手紙を封筒の中に入れると住所を書いたほうは郵便で日本に飛ばして、瓶に詰めたほうは砂浜と海の間にそっと置いた。波が瓶をさらって瓶がずっとゆらゆらと揺れている。風が吹くのが明日か明後日かはわからないけど、いつかは沖に出ていくことになると思う。そして、どこかに行き着くのだと思う。その時が来たら。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます