感情が動く事柄にひとそれぞれの感性がある
とある方のエッセイを読んでいて、気になる話があった。そのタイトルは、『花が愛せない』。
花の美しさがわからない。花との生活に魅力を感じない。
ここまではまあ、なんとなく理解が出来た。そう思う人も中にはいるだろう、と。でも、「花に感情が動かされたことが一度もない」というのは……そんなことはないのではないかと思った。
花に感情が動かないことも、一つの感情を動かされたといっていいと思うのだ。その“動き”がよく聞くあたたかく優しい意味合いでの上でだけのことを示すとは限らない。
だから、そういった意味では、ひとつのカタチの在り方で“動かされた”といってもいいのではないのだろうか……と思ったのだけれど。
まあでも、本題のエッセイの趣旨を思えば、これはわたしのひねくれた思考に過ぎないので、ここだけの、ひとつの“意見”として聞き流して貰えれば幸いである。きっと、わかるひとにはわかる話なのだと信じて。わからないひとにはきっとずっとわからないことなのだろうな……。
細部まで意識を向けるか否か。
きっと物の見方というのは色んな方向から、色んな深さで判断され語られる。そこがエッセイの読み手としてはいつもおもしろく感じる部分だ。
私は花と暮らすことが好き。
好きだけれど、時によってはやはり水やり花がら摘み、手入れなどの作業は苦に感じる事もある。でも結局、それは子育てだって同じだ。息子はかわいいけれど、やっぱりしんどいときつらいときはある。けれど、息子はだいすき。その気持ちに嘘偽りなんてものはこれっぽっちもない。
花と暮らすというのは、命を預かることだと思う。重く考えすぎか?いや、そんなことはたぶんない。
イヌであってもネコであっても花であっても家具であっても、生きているとかいないとかじゃなくて。
家族として共に生きていくものとして受け入れたからには、ときに苦であっても一緒に生きていくのが家族だと思うのだ……。
そこに伴う感情は、いつもプラスでないといけない理由はいはず。マイナスでの面があっても、それを上回るプラスの面があるからきっと一緒にいることが、生きることが、暮らすことが楽しいと言えるのだと思う。
でも、結局それはわたしが花に対して好きだと思っているからで、少しでもプラスの面を見出せているからで、心が良いように動いたから、そう言えるのかもしれない。
結局、本当に「心が動かされない」という言葉で表現したひとの気持ちは、わたしには理解が出来ないのかもしれないな……。そう思うと、分かり合えないということはやはり、時には物悲しい。
「色んな人がいるからね」
息子によくそういうけれど、結局そう思いたいのはわたし自身なのかもしれないなあ。
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