ぼさつさま
ドント in カクヨム
Bさんの話
介護の仕事をしている、Bさんから聞いた話である。
以前勤めていたその小さな老人ホームは、今はもうない。それでも念のため、場所は伏せてもらいたいそうだ。
入居している田中さんというおばあさんが、急に変なことをするようになったという。
「足腰が弱った、車椅子の人ばかりのホームでした。ただ、重い認知症の方はいなかったんです。暴れたり叫んだりもごく少なくて。
で、それぞれの方の状態にもよるんですが、できるだけ入居者同士で触れ合えるよう、食堂スペースは開放されてたんです」
そこには大きなテレビがあり、日がな一日ワイドショーやドラマの再放送が流れている。
部屋にいるだけではつまらない入居者は、ここに集まって喋ったり、テレビをぼんやり見たりして日中を過ごすわけである。
その食堂で時折、田中さんは「拝む」ようになったのだそうだ。
「食堂の右隅が彼女の“定位置”でした。それで……最初に気づいたのは、2月だったかなぁ」
その場所で両手を合わせ、しきりにこすりあわせていたという。うんうんと頷き、実に「ありがたそう」にしていたらしい。
彼女が向いている方向には特に何もない。テレビと、テレビを眺めている他の入居者がいるくらいだ。
何故そんなことをしているのか、まるで見当がつかない。
加齢により気難しくなっている人もいる。「こっちに向かって拝むとは、どういうつもりだ」とトラブルの元になってはいけない。それに、認知症の進行も疑われた。
職員同士の話し合いの結果、物腰の柔らかいBさんが、田中さんに尋ねてみることとなった。
「田中さん最近、食堂で手を合わせてらっしゃいますよね?」
二人きりになった機を見計らって、Bさんは聞いた。
「あら、気づいてたの?」と田中さんは言う。
膝を悪くしており、目も少し悪いながらも、身なりはきちんとしている上品なおばあさんである。人当たりもよく、家族や知人の面会も多い。
とてもそんな、変なことをするタイプには見えないのだが──
「ええ、先月くらいからですよね。何か……おまじないとかですか?」
Bさんが重ねて聞くと、「あのねぇ」と、田中さんは声を小さくした。
それから周囲に人の目がないことをちらちら確認してから、秘密めかして言った。
「これ、ビックリする人がいるかもしれないから、ナイショよ?」
「ええ、ナイショですね」Bさんは彼女の心境に寄り添うように答えた。
田中さんはさらに声をひそめて、こう言った。
「ぼさつさまがいらっしゃるの」
ぼさつさま? と思わず聞き返した。ぼさつさまって、あの、仏様の親戚みたいな……
「そうそう、菩薩様ね。菩薩様がいらっしゃって、食堂を回るのよ」
そのようなことを真面目に言う。
認知症か、老人性の幻覚の類だろうか。それにしては田中さん、他に妙なそぶりも言動もない。
Bさんはもう少し、詳しく知りたくなった。
「そうなんですねぇ。その菩薩様は、どこからいらっしゃるか、わかりますか?」
「あっちの、玄関からいらっしゃるのよ」
……玄関のドアには、入居者が勝手に外に出てしまわないよう、鍵がかかっている。
職員以外は勝手に開けられない。業者さんや面会の人が来ても、職員が内側から開けることになっている。
つまり、普通は誰も入ってこれないはずだ。
「外から入って来られるんでしょうか?」
「いいえ、こうねぇ、フーッと現れるのね。お姿が」
「……どんなお姿なんでしょう? 菩薩様ですから、体が光っていたり……」
「それがね、真っ黒なの」
真っ黒。
そんな「菩薩様」がいるだろうか。
だが、「菩薩様が真っ黒なわけないでしょう」と断じることはてきない。いくら優しいおばあさんとは言え、ヘソを曲げてしまう。
そのためBさんは一度感心したふりをしてから、「でもそれ、どうして菩薩様とわかるんですか?」とそれとなく聞いた。
すると田中さんは、ううん、と悩みつつ、右手を上げた。
それから手の指を数本、曖昧な形にしようとした。
「菩薩様って、手を合わせたりしてるだけじゃなく、こんな風にしてるでしょう。片手だけで……」
そう呟きながら、ぎこちなく指を曲げたり伸ばしたりする。
あぁそうか、あの菩薩像か、とBさんは思い至った。
その時名称は思い出せなかったが、後で検索して「
おだやかな顔で座り、手を顔の脇に近づけて、指をごく軽く丸めているあれである。
確かに、黒い像もあったはずだ。その姿が田中さんの頭の中に浮かんでいるらしかった。
えぇ、えぇ、わかります、と応じた。頭の中にぼんやりと浮かぶ姿の真似をして、指を曲げた右手を自分の頬に近づける。
そうそう! その形! と田中さんは喜んだ。どうやら正解だったらしい。彼女は説明を続ける。
「こういう手の形にしてね……そう、拝んでいらっしゃるのよね。で、他の入居者さんの脇に来られるの。
腰を曲げて、耳のそばまですうっと、顔を近づけてね、片手で拝みながら、言葉をかけてくださるの」
ぞくり、とした。
それは。
それは、「菩薩様の手の形」ではないのではないか。
「耳元で囁くときの手の形」なのではないか。
怖くて黙っていた。田中さんは話を続けた。
「一昨日なんかね、私のすぐ目の前の、斎藤さんのところまでいらっしゃったの。
不思議なのねぇ。菩薩様は、私以外には見えないみたいで、誰も気づかないの……。
目の前にいらっしゃったから、菩薩様の言葉がはじめて、やっと聞こえたんだけどね。
菩薩様は、『いきましょう いきましょう』っておっしゃってたの」
こんな年寄りに「生きましょう」「長生きしましょうね」だなんて……菩薩様……本当にありがたい…………
そう言葉を継いでいく田中さんに目を当てながら、Bさんはまるで別のことを考えていた。
正確には、「別の光景」を頭の中で思い浮かべていた。
玄関から、得体の知れない真っ黒いものが入ってくる。
廊下をゆっくり歩き、食堂をうろつき回る。
それから、老人の脇に立って腰を曲げ、手を頬にそっ、と当てて、耳元で囁く。
「いきましょう いきましょう」と囁く。
「いきましょう」は、「生きましょう」という励ましではないのではないか。
「逝きましょう 逝きましょう」
なのではないか。
そうBさんは想像したのだという。
そのあと、田中さんや他のお年寄りはどうなったのか、当の老人ホームがどうなったのか、どういった経緯でホームが無くなってしまったのか。
Bさんはそのあたりについては、「話したくない」と言うのであった。
老人ホームの建つ土地や近隣に、「そういうもの」が出るような因縁話は、何一つとしてなかったそうである。
ぼさつさま ドント in カクヨム @dontbetrue-kkym
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます