あるいはサメでいっぱいの海
船は肉を圧し切る無骨な包丁のように、青くうねる海を進んだ。
「船に乗んのは初めてだ」
ゼンの頬を砕けた波の飛沫が軽く打つ。
勇者陣営の騎士たちを乗せた船は追い風を受けながら西へ向けて前進していた。
「ここからもうすぐポロニア港の海域に入るよ」
船底に荷物を降ろし終えたロクスターが現れた。その後ろでは船乗りたちが舵を回している。
「船底には入らないでくれるかい。王都から借りた貴重品も危険物もあるからね」
「すげえ荷物だったな」
「何が起こるかわからない分備えが必要でね。特に僕みたいに戦いに向いてない人間は念を入れないと」
「留守番してりゃいいのに……」
ゼンは船の欄干に身を預けた。
「警戒をしておくのはいいことだわ」
白い帆を潜り抜けてきたホーネットが言う。
「旅行じゃないのよ。私はいつも戦地に着く前から気を抜かないことにしているの」
カルミアが意味ありげに小さく笑った。
潮風に赤い髪を横目に、隣に並んだオレアンがわずかに眉をひそめる。
「ホーネット、髪留めはどうした」
ホーネットは自分の髪に手を差し込んだ。緩く編み込んだひとふさの髪をまとめているはずの留め具が見当たらない。
風に膨らむ帆に隠れようとしたひと影を見てオレアンが声を張り上げた。
「出てこい!」
カルミアは身をすくめ、おずおずと手を開く。
紫の宝石を細かな銀細工が囲む髪留めが現れた。
「いつ盗んだの?」
ホーネットが手の平からそれを取り上げて言う。
「船に乗るちょっと前かな。行けそうだと思って……」
「全く気づかなかったわ。すごい身のこなしね」
手品を見たような顔で頷くホーネットの傍らでオレアンが溜息をつく。
「感心している場合か。お前もろくでもないことをするなよ」
「アイツの盗癖は息すんのと同じだ。手錠でもかけなきゃ止められないぜ」
吐き捨てたゼンの隣に咥え煙草のクラーレが並んだ。
彼女は慣れた手つきで煙草の箱を出し、ゼンに一本差し出す。
「どうも」
ゼンはマッチの火を擦り、煙を吐き出す。
「お礼が言えるようになりましたね」
クラーレが微笑んだ。
「スルク隊長が礼儀も教えると言っていましたが、確かに私より適任だったかもしれません」
「何が適任だよ、あんな暴力魔人。アイツに蹴られると普通の奴の二倍痛えんだ」
海風が紫煙を搔き消し、視界を晴らす。
煙草を挟んだ彼女の指先が墨に浸したように黒く染まっていた。
「なぁ……そんなに悪ぃのか」
ゼンの声にクラーレは首を傾げ、自分の手を見下ろた。
「大丈夫ですよ、見た目がひどいだけで痛みもありませんから」
「師匠も休んでた方がよかったんじゃねえの」
「
彼女は顔を上げ、霞む海を見つめた。
紐を結んだ瘤のように水平線に連なる陸地は、蜃気楼に似て、遠く現実感がない。
「賢者の魔術は憑依や転生、魂に深く関わるものです。もし、協力を仰げれば、貴方や貴方の友人–––ジニトから魔王の魂を摘出する方法がわかるかもしれない」
ゼンは懐かしい響きに俯き、濡れた船板に浮かぶ水の痕を眺めた。
そのとき、船が大きく揺れ、目の前に白波の壁がそそり立った。
噴き上げられた飛沫が弾丸のように降り注ぎ、帆と船員たちに打ち付ける。
「敵襲ですか!」
クラーレは欄干から荒れ狂う海を見下ろした。
波間から突き出した巨大なナイフの先端のような鋭角の背びれが旋回している。
「鮫よ!」
ホーネットが叫んだ。
振り落とされないよう帆を掴んで海を見つめるロクスターが低く呟く。
「違う……これは魔物、
乗組員たちが素早く散らばり、船板に取り付けた車輪を回す。船の腹が開き、砲身が突き出した。
爆音を上げて煙とともに発射された弾は波の中の何者かに叩き落とされ、飛沫になって消えた。
「
ゼンが声を上げると、視界の端から伸びた鱗に包まれた指が船を掴んだ。
「海中に住む魔族です。巨大なヒレと牙を持ち、幼児程度の知能を備える」
「馬鹿にもわかるように!」
「要はサメ人間です!」
クラーレが抜刀し、
「とりあえず殺せばいいってことだな!」
ゼンは腰に帯びた剣を抜き、胸に突きつけた。
「呪殺を打つ、俺の命を代償に––––」
ゼンは剣を取り落とした。
目の前に海が広がっている。
先ほどまで見下ろしていた青い海ではない。
荒涼とした砂が広がり、墨のような黒い波が打ち寄せる浜辺だった。
「何だ、これ……」
波打ち際に誰かが立っている。黒い水に真っ白足を浸した、女が肌と同じ白い髪をなびかせて振り向いた。
「ゴールディ……?」
脳髄を貫かれたような痛みが走り、幻覚が消える。
ゼンは欄干にすがって嘔吐した。
「船酔いですか!」
のし上がる
「違う、わかんねえけど……」
ゼンの顎に唾液の雫が糸を引いた。
「上がってくるぞ!」
オレアンの叫びとともに、海面から黒い砲弾のような影が跳躍した。
船上めがけて落下する
オレアンは低く腰を落とし、剣を上段に構えた。
鋭い牙に縁取られた口蓋に剣先が吸い込まれる。
カルミアが悲鳴を上げて隠れた帆布が、迸った鮮血を弾いた。
大砲の白煙が流れる船上に次々と
えずくゼンを背に庇い、クラーレが剣を構えた。
風を切って振り下ろされた魔物のヒレが鋼とぶつかり、キン、と冷たい音を立てて真ん中から折れる。
弧を描いて床に突き刺さった刃をクラーレが睨んだ。
「呪殺を打つ。私の血を代償に
クラーレの耳飾りが弾け、数体の魔物が青い血を吐き出す。倒れた
船の後方で魔物と交戦していたホーネットの頭上が暗く陰った。
「ホーネット、後ろだ!」
オレアンの声に振り返ったホーネットの顔を潮水が叩く。眼前に牙が迫っていた。
剣を返して身を庇ったホーネットの鼻先で、空間を引き裂く亀裂が入る。
突如現れた丸穴に
「カルミア?」
ホーネットが視線をやると、帆の陰に隠れたカルミアが首を振る。
少し離れた場所でロクスターが虚空に手をかざしていた。
「
彼は肩で息をしながら指先を波打つ海面に向ける。
血痕が線を引いた帆に向けて跳ぶ
「防御は僕がやろう。上がってきた魔物は任せたよ」
ゼンは欄干にすがりながら風に荒れる帆の間で戦う仲間たちの姿を見た。
「くそったれ……」
唇の端から垂れる胃液を拭い、ゼンは拾った剣を自らの胸に突き刺した。
見慣れた黒い霧が視界を覆った。
巨大な鉤爪が
鎧の腕を引き抜くと、爪の先が鱗と体液でどろりと滑った。
ゼンは船外に
魔物の影は既になく、おびただしい青い血と鱗がぎらつく甲板と砲撃の残響だけが残っている。
「大方、片付いたようだね」
ロクスターが息を吐いて床に崩れ落ちた。
その声に様子を伺いながらカルミアが帆の後ろから出る。
張られた布に溜まった魔物の血が弾けて雨のように零れ落ちた。
「結構な歓迎だったわね––––」
ホーネットの声を搔き消すように海面が炸裂した。
轟音を立てて波が震える。
船の上の全員が息を飲んで、白い火柱のように噴き上がる波濤を見つめた。
音が静まり、海は砲弾の痕をなぞって波紋を作った。
泡立つ水面を見下ろしてクラーレが呟いた。
「遅れた援軍、という訳ではなさそうですね」
オレアンが苦い表情で頷く。
「あぁ……今の、俺たちを狙ったぞ」
ゼンは水蒸気の向こうで徐々に輪郭を表した港を睨んだ。
波止場には一列に首を揃えて並ぶ大砲が細い煙を上げていた。
「あの旗、王都騎士団だ……」
浅黒く日焼けした少年がまだ幼さの残る声で言う。
「兄ちゃん、どうしよう。船が着くぞ」
少年の顔を重たく甘い煙が撫でた。
彼よりも一段濃い肌色をした長身の男は、煙管を唇から離し、長い息と煙を吐き出す。
「大差ねえよ」
潮と日差しで色の抜けた長髪を払って男は呟いた。
「海で死ななかろうが、この街でどうせくたばる。騎士なんざクソの集まりだ」
太陽は頂上にのぼり、海は光の矢で来訪者を阻むように陽光を乱反射した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます