五:荒海の三竦み
騎士団の長い午後
蛇行する河を流れる水は、昨夜の雨が削った水底の土と混じって茶色く淀んでいた。
河の中央を行く船が水を搔き分けるたび、影絵のような魚がさっと逃げていく。
船の端に腰掛ける聖騎士テトロは水面から視線を上げ、河岸に並ぶ腐りかけた木造の家々を眺めた。
「酷い有様だろ」
船の先端に立つ船頭が櫂を動かしながら言った。
岸辺にはまばらなひと影があり、目を凝らすと喪服に身を包んだ中年の男たちが列を作っている。
「葬儀か、魔物の襲撃かい?」
「魔物に殺されたようなもんだが、少し違うな」
テトロの問いに船頭の男は首を振る。
「先月、
船頭が顎で指した方から死肉に誘われた羽虫たちが流れてきた。
「男やもめに蛆が湧き、とは言うが酷いものだね」
頬杖をついて呟いたテトロに船頭が呆れたように笑う。
「爺さんみてえなガキだな」
「ガキみてえな爺さんなんだよ、私は」
風を切る音が響いた。
テトロは咄嗟に船板を駆け抜け、船頭を引き倒す。
船の先端に乱雑に削った木の矢が突き刺さった。
「小鬼か……」
低く唸ったテトロの背後で船頭が叫ぶ。
「危ないぞ、下がれ!」
町と対極にある崖を人間よりもひと回り小さな影が埋め尽くしていた。
「下がるのは君だ、動かずにいなさい」
テトロはレイピアを抜き、船板に突き立てた。
水底から現れた青い光が、河の水と飛来した無数の矢を捲き上げながら船を覆う。
「弓の腕で私に勝とうとはね」
半球状の光の中でテトロは目を細めた。
「船賃のついでだ。殲滅しておこうか」
床に手をついた船頭が見開いた目で彼を仰ぐ。
「王都騎士団、勇者陣営、
白い法衣の裾を翻し、テトロは
***
王都騎士団駐屯所は冬の午後の冷えた空気を掻き消すような熱気に満ちていた。
開けた演習場を騎士たちが取り囲み、中央では剣を携えたふたりの人物が向き合っている。
砂色の髪をひとつに結んだ女、騎士団第一部隊隊長は義足の両脚を鳴らして一歩進み出た。
対するのは、褐色の肌と頬から鼻にかけて広がる青痣を持った男、スルクだった。
スルクは青い瞳を眼前の相手から逸らさず一礼する。
「礼儀も闘気も申し分ないな、来い」
彼女は演習用の剣を抜いた。
ひとごみを掻き分けながら空いた場所を探すゼンとカルミアは、群衆の中からふたりを呼ぶ声に気づいて顔を上げた。
「おーい、こっち」
兵士たちから少し離れた場所でピトフィーが掲げた杖を振る。
「もう動いていいの」
駆け寄ったカルミアに「大丈夫」と答える彼の軽薄な笑顔から視線を下ろすと、棒を取り付けた簡素な義足があった。
「あいつら喧嘩してんのか?」
ゼンが腕を組んで兵士たちの肩越しに演習場を眺める。
「練習試合だよ。俺たち要塞の面子がこっちに流れてきたからさ、実力試しと交流を兼ねて隊長どうし七本勝負だって」
ピトフィーが囁いた。
「賭ける?」
「金持ってねえよ」
「みんな試合に夢中だから簡単にスれるよ」
楽しげに言うカルミアを小突いて、ゼンは肩を竦める。
「どうせスルクの勝ちだろ」
「おれはあっちの女騎士に賭けるよ」
「自分たちの隊長じゃなく?」
カルミアが問うと、ピトフィーは歯を見せた。
「隊長は律儀だからね。これから世話になるひとの顔潰さないよ。実力は見せるだろうから僅差で負けるんじゃない?」
へえ、と腕を組んだゼンの背後で声が響いた。
「騎士団の中でスリと賭け事はいけませんよ」
カルミアが小さく悲鳴を上げ、振り向くとクラーレが立っている。
「ゼン、カルミア、招集です」
「よし、事務室行くか」
「いえ、今回は事務所の裏庭です」
「何でまた」
クラーレは眉を下げて苦笑した。
兵士たちの壁を抜けて、鋼のぶつかり合う激しい音が響き出した。
***
ゼンたちが喧騒を離れ、隊舎が影を落とす裏庭に辿り着くと、物陰から間の抜けた音が聞こえた。
からりと軽い何かが転げる音に、土を箒で掃くような音が続く。
地面に手をついて座り込むロクスターを、ホーネットが不機嫌な表情で見下ろしていた。
「貴方、ふざけているの? それとも、私を気遣っているつもりかしら」
ホーネットは鞘に収めたままの剣先を彼に向ける。
「申し訳ないけど、これで全力なんだ」
泥のついた顔に苦笑を浮かべるロクスターのそばに訓練用の細い剣が転がっていた。
「その辺にしてやれ、ホーネット」
少し離れた場所で見ていたオレアンが溜息をついた。
「喧嘩ですか?」
クラーレが横から問いかけ、カルミアが「師弟で意外とよく似てるよね」と小声で呟く。
「この男が今回の遠征についていくと言い出したのよ。自分の身が守れるのか確かめようと思ったけど、これだわ」
ホーネットが炎のような赤い髪を払って首を振った。
「人事もクソだし、剣も駄目、何ができんだよ」
「魔物の探知だね。どうも今回はそれが必要なんだ」
ゼンの悪態に怒るでもなく、土を払ってロクスターが立ち上がる。
「今回の任務の最大目的は
クラーレは首肯を返した。
「離心があるというより王都そのものへの疑念や反感をもっているようでした」
「会って確かめなければならないことが山ほどある。それに
ロクスターは剣を拾い、地面に直線で図を描く。
「王都から西に行ったポロニア港という港町がある。そこは今、魔物の巣窟だよ」
オレアンとホーネットが息を飲んだ。
「軍は事実上崩壊。わずかな兵しか残っていない。地方領主たちも軒並み逃げ出して、ギャング同然の自警団が幅を利かせている。あそこは国とギャングと魔物の三すくみの戦場なんだ」
地図に線を加えながらロクスターは眼光を鋭くした。
「こうなったのはごく最近。魔物の統率力が急激に上がったらしい。ゼン、何か思うところは?」
「魔王、じゃねえだろうな……」
ゼンが呻くと彼は鷹揚に頷いた。
「そうだった場合、君の力が必要になる。他の不確定事項に備えて任務にはここにいる全員で当たってもらいたいんだ」
「あたしも?」
カルミアが小さく口を開いた。
「お前だけ置いといたら騎士団の倉庫が空になるからな」
ゼンの声にクラーレが笑いを漏らす。
「王都を空にして平気か?」
オレアンが問い、ロクスターが頷く。
「リアン山要塞の兵士たちも駐屯しているし、しばらくは防壁があるから心配ないだろう」
「貴方は留守番でいいと思うのだけれど」
ホーネットは首筋の汗を拭って言った。
「そうもいかない。
ロクスターはわずかに表情を曇らせる。
「その中にある魂がひとなのか、魔物なのか」
「単純な戦いではなさそうですね」
静かに呟いたクラーレの声を消すように木々がざわめいた。
***
ゼンが戻った頃、演習場にはまばらなひと影が残るだけだった。
石畳に腰掛けるピトフィーとその傍らに立つスルクを見とめ、近づくとふたりが顔を上げる。
「試合はどうだったんだよ」
「四対三で向こうの勝ちだ」
汗で濡れた黒髪を掻きながらスルクが答えた。
「負けてやがんの……」
「馬鹿。これから協力しなきゃいけねえ相手の場所でその頭領に恥かかせられるかよ」
ピトフィーが「言った通りでしょ」が声をひそめる。
「俺、またしばらくどっかに飛ばされるみてえだ」
閑散とした演習場の芝生が風に揺れるのを見ながらゼンが呟く。
「そうか、負けんなよ」
スルクは淡々と答えただけだった。
「勝ち譲ってやったって面で負ける奴に言われたかねえ」
スルクがゼンの尻を蹴り上げ、ピトフィーが笑う。
駐屯所の前に馬車が停まり、クラーレたちが荷物を積むのが見える。
遠くから師の呼ぶ声が聞こえ、ゼンは馬車の方へ向かった。
その背が遠くなる頃、ピトフィーがスルクを見上げて言う。
「隊長、何か機嫌よさそうですね」
スルクは鼻で笑い、腰に手をやって呟いた。
「そうだな、死なずに帰ってくるってわかる奴を送り出すのは悪くねえ」
芝生を撫でた風の手は、ゼンたちの乗る馬車まで草の匂いを運び、古びた荷台を小さく揺らした。
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