桃花美人
日差しが山脈に積もった雪を静かに溶かし、太い脚の馬がぬかるみの泥を蹴り上げていた。
兵士たちに導かれながらゼンとカルミア、オレアンが火砲を積んだ馬車に乗り込む。
ロクスターとスルクは要塞の門を背にそれを眺めていた。
「スルク隊長、ゼンをどう思った?」
ロクスターは指先に煙草を挟んで呟いた。
「どういう観点で?」
スルクは正面を向いたまま素っ気なく答える。
煙草を唇に押し当て、ロクスターは息を吐いた。
「彼は泣かないだろう。辛いことがあっても、仲間が死んでも。僕は少し不安なんだ。彼の良心や情愛についてね」
馬車の幌の中に白髪が飲まれるのを見送って、スルクは血の染みた服の襟を払った。
「例え話だが、ある兵士がひとりでどこかの基地に詰めてるとき魔物が襲ってきた。周りには自分以外誰もいない。兵士は警鐘を鳴らすか?」
「鳴らさないかな。誰もいないなら意味がないからね」
「そういうことが続いて、たったひとりで戦い続けてたとする。その兵士は警鐘の鳴らし方や周りへの警告の仕方を覚えていられると思うか?」
「難しいだろうね。まずひとりで何とかする癖がつく」
「そういうことだ」
スルクはロクスターを横目で見た。
「泣いても叫んでも助けてもらえなかったガキは泣き方も忘れる。あいつはただのそういうガキだろ」
彼はそう言って姿勢を正し、雪の白と土の黒がまだらに混じった道へ歩んでいった。
ロクスターはその後ろ姿を見つめ、煙と苦笑を漏らした。
馬車の中でカルミアは既に眠りに落ちていた。
ゼンの隣に座るオレアンもくたびれた表情でまぶたを下ろしている。
荷台の窓が乱雑に叩かれ、ゼンが覆いを払うとスルクが立っていた。
「お前も乗んのか?」
「俺はまだやることがある……そこの騎士から聞いたぜ。お前の師匠、余命一年なんだってな」
ゼンがオレアンを睨むと、彼は困惑したように目を逸らす。
「ひとが疲れてんときに手心ってもんはねえのかよ……」
「ねえよ」
スルクは馬車の内部を見回し、ゼンに視線を戻した。
「ゼン、一年だ。俺も一年でリアン山要塞を立て直す」
ゼンは言葉の意図がわからず、スルクを見上げた。雪が反射する光に凍傷のような青痣が照らされていた。
「師匠が死んだ後、行く場所がなけりゃここに来い。カルミアにもそう言っておけ。ここは最果ての防衛線、行き場のない奴らが最後の受け皿だ」
ゼンは目を見開き、少し黙ってから小さく歯を見せた。
「二度とごめんだ、こんなクソ寒いとこ」
「クソガキが」
スルクの声にはわずかに笑いが含まれていた。
窓の覆いが下され、雪山にそびえる要塞とその長の姿が消える。
ゼンは息をついて、馬車の荷台に頭を預けた。
***
要塞の内部は、割れた天井から差し込む光が散乱する瓦礫を縁取り、血痕の残る廊下の影を一層濃くしていた。
忙しなく動き回る兵士たちの間を縫って、ロクスターは法衣の裾を翻しながら崩壊の激しい方へと進む。
「そちらはまだ危ないですよ」
ひとりの衛生兵が彼を呼び止めた。
「僕は魔物の残党がいないか確かめなくてはいけないからね。気にせず続けてくれ」
ロクスターは兵士の肩を叩き、暗がりの方へ歩みを進めた。
兵士たちの影が消えたところでロクスターは足を止めた。
目の前には炉の火が消えてなお細く湯気を噴き上げる大鍋がある。
彼は辺りを見回し、釜の脇に取り付けられた梯子を上った。
見下ろした鍋の中で魔物の血と肉が禍々しい色で静かに滞留している。
ロクスターは法衣の袖をたくし上げると、未だ赤く煮えたぎる血の海の中に両手を差し伸べた。
肉が焼ける匂いが立ち込め、熱い血が腕を焼くのに眉をひそめ、彼は手を抜き出す。
血染めの手の平には柔らかな塊が握られていた。
「こんな辺境で目覚めていたとはね。
赤く蠢くそれは、抉り取られて間もない心の臓に似ていた。
ロクスターは袖を下ろして爛れた腕を隠すと、かすかに脈動する塊を法衣の裾で包み込んだ。
***
馬車の振動が止み、オレアンに肩を叩かれてゼンは目を覚ました。
窓の覆いを払いのけると、見慣れた騎士団駐屯所の塀を夜闇が染め上げるのが映る。
「先に降りてるぞ、いろいろと弁解しなきゃ行けない相手がいるからな」
オレアンは荷台の扉を開け、滑るように馬車を降りた。
凝り固まった肩と背を伸ばすと、向かいの席でカルミアが溜息をついた。
「あたしの部屋ってあるのかな……」
「知らねえ。心配しなくても何か盗んだら牢屋が待ってるぜ」
「今度は見つからないようにやるって」
「まず盗むなよ」
ゼンは重い頭を振って、開け放たれた扉から馬車を降りた。
王都の夜の冷気は真冬だというのにひどく柔らかく感じる。
明かりの灯り出した街にまだ雪の跡はない。
夜光に照らされた細い影が揺れ、ゼンは目を細めた。
黒髪が夜に溶け込むように風になびき、闇を切り取ったような眼帯と茶色の瞳が彼を見返す。
「師匠」
ゼンの声にクラーレは歩みを早めた。
「帰ってたのか」
「ええ、ちょうど」
クラーレはゼンに向き合い、懐かしい笑みを浮かべた。
「大変でしたね」
「まあな……師匠もどっか飛ばされてたんだろ」
彼女は静かに頷き、久方ぶりに会う弟子を見上げ、「あら」と、小さく声を上げた。
「ゼン、何かついていますよ」
クラーレはゼンの頬に手を伸ばし、籠手に包まれた指でそっと拭った。
彼女が広げた手の平には金属の破片があった。
砕けた小さなそれは金色の花弁を千切ったようだった。
ゼンはその破片を摘み上げ、じっと見つめてから、クラーレの手に戻した。
「何でもねえよ、捨ててくれ」
彼女はゼンと金属片を見比べ、無言で手を下ろす。
クラーレに触れられた頰には、ほのかな体温の移った籠手の硬い感触があった。
極寒の雪山で触れた白い指のざわつくような熱はなく、懐かしい硬さと仄温かさだけがある。
「やっぱりこれが一番しっくりくるよな……」
ゼンは呟いた。
クラーレは彼に視線をやったが、優しく微笑んだだけで何も問わなかった。
クラーレが足を踏み出し、ゼンがその歩みに続く。
数歩進んだところで彼女の手から金の破片が零れ落ちた。
ゼンは目で追ったが、その輝きは街道を輝かせる王都の夜光に紛れてすぐに見えなくなった。
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