生き埋め
腐って傾いた木の看板が、今では陰鬱な森と境目のなくなった村の始まりを示していた。
「標識が見えましたよ、ゼン」
クラーレの背に負われ、死体のように手足を垂らしていたゼンがわずかに呻く。
「もうすぐですからね」
彼女は身体を弾ませて弟子を背負い直すと、再び獣道を歩き出した。
森を抜けて現れた空から弱い陽光が差し、ゼンの身体から滲んだ液体が垂れ、クラーレの肩を濡らす。
辿り着いたのは、錆びて曲がった柵が不穏に取り囲む共同墓地だった。
灰色の空と乾いた土を縫い止める待ち針のように大量の墓標の列がずらりと並び、遠近感が狂いそうになる。
隅にあった小屋から白いひげを蓄えた老人が現れたのを見とめて、クラーレが声を上げた。
「すみません、貴方がここの墓守でしょうか」
老人は乾いた血と煤にまみれた異様な風体の彼女を見つめ、その肩に垂れ下がる青黒く膨れた手に目を見開く。
「ご心配なく、伝染病ではありません」
老人が呆れたようにかぶりを振った。
「こちらは
「今はただの墓場だがな」
老人はクラーレを一瞥し、
「そっちのがお前さんの目的にあってるだろ」
「ここの墓地の一角を買い取りたいのです。埋葬は自分で行います。スコップの貸出料と……これで足りますか」
彼女は背中のゼンを押さえながら、懐から重たい麻袋を出した。
「こんなにもらっても釣り銭がないぞ」
中に詰まった金貨に老人は苦笑した。
クラーレは「心づけということで」と答え、既に転がっていたスコップに手をつけている。
「それから……間に穴の空いた棒、長い筒のようなものはありますか?」
***
ゼンが目を開くと、辺りが闇に包まれ、頭上のわずかな空間だけ楕円形の光が降り注いでいた。
身体は石になったように固まり、無理に動かそうとすると黴臭い土埃が顔に落ちる。
「気づきましたか」
聞き慣れた声にゼンは乾いた喉から声を絞り出す。
「師匠、今俺どうなってんだ……」
「荒療治といいますか、今できる最適解といいますか」
「馬鹿にもわかりやすく」
「端的に言うと、生き埋めです」
言葉を失ったゼンが唸ると、振動で落ちた振った小石が額を叩く。
「貴方を苛んでいるのは姫騎士が作った、墓に入るまで分解されない魔物殺しの毒です。裏を返せば、文字通り墓に入れば分解するということ。この墓場の土の成分が人間の脂と水と混ざったとき、解毒作用が現れるんですよ」
光の穴の先に目を凝らしたが、空も師の顔も見えなかった。
「今の気分は?」
「寒いし、痛えし、身体の中がゾワゾワする」
「貴方を埋めるとき水を流し込みましたから、腐敗が促進されているようですね。いい兆候です」
「よかねえよ……」
「貴方の病理休暇届も出したのですが、サインがないと怒られてしまいました」
「書けると思うか?」
「私が偽装したので大丈夫ですよ」
ゼンが押し黙ると、ぱらぱらと土の欠片が降る音だけが地中に響いた。
筒から差していた陽光が赤くなり、黒に変わる。
夜が訪れたことだけはわかったがどれほど時が経ったかわからない。
「師匠」
大した期待もなく呟いてみると、間を置かず「はい」と静かな声が返った。
「ずっとそこにいたのかよ」
「偶々お手洗いに起きただけです。ちゃんと休んでいますよ」
筒を伝って響く声はかすかに湿った土を揺らした。
「喉は乾いていませんか? 何か食べるものも……」
「そこで何してたんだよ」
クラーレの言葉を遮ると、しばらくの沈黙の後答えがあった。
「手帳を、読んでいました」
「師匠のか?」
「ヘムロックのです。
ゼンが目を閉じると、一段濃い闇がまぶたに降りる。
「そんな凝った修行した覚えねえけどな」
「ええ、彼の手帳にあったのは『ひたすら鍛錬あるのみ』とのことでした。できなければできるまでやる。ですから、貴方に教えるときはそうしてみました」
「わざわざ手帳に書く意味がねえよ」
不機嫌な声を作って答えると、小さな笑い声が響く。
「余白は日記として使っていたようです。貴方のことが書いてありましたよ」
「どうせろくでもねえことだろ」
クラーレは再び喉を鳴らして笑うと、柔らかい声で言った。
「ゼン、落ち着いたら字を習う気はありませんか。ヘムロックの手帳も、他にセレンが書きためていた手紙もあります。私が読むより、貴方自身が読んだ方がいい」
「……考えておく」
冷たい夜露が額に伝い落ち、ゼンの顔を濡らした。
「私の最後の弟子が、貴方でよかったのかもしれません」
独り言のようにクラーレが呟いた。
「私の呪いは他の皆が使う魔力よりも魔物に近いものなんです。もっと言えば魔王に近い」
ゼンは言葉を探したが何も浮かばなかった。
「魔王は自分の愛した者を生贄に捧げ、強大な力を得た。私は他人の代わりに自分の身体を使う。それは、私が高潔だからではなく、前世の私に愛する者がいなかったからです」
クラーレの声が陰りを帯びた。
「家族も友人も皆死にました。私は何もかもが憎かった。死んでもいいと思っていたので、今より多くの代償を使いました。今世で
彼女は自嘲するように笑う。
「どいつもこいつも愛だ何だ面倒くせえな……」
ゼンの声が地中に響く。
「そんなもんわかんねえよ。俺は自分とちょっとの身内さえよけりゃそれでいいんだ。他の奴なんか知らねえ。
クラーレは答えない。
「でも、
クラーレが小さく笑い、地中に月明かりが差した。
闇が薄くなり、ゼンの頭上に薄水色の楕円の明かりが輝き始めた。
「師匠」
すかさずクラーレが「はい」と答える。
「ずっといたのかよ」
「お手洗いですよ。私は……頻尿なんです」
「もっとマシな嘘つけよ……」
「なあ、あんた」
聞き慣れないしわがれた声が響いた。
クラーレが振り返ると、墓守の老人が立っている。
「旦那だか兄弟だから知らんが……夜通し見てたのか」
「弟子ですよ」
老人は地平線に並ぶ墓標を眺める。
「この墓場はたいてい放り込んで終わりだからよ。そうやって弔ってやるひとは珍しいな。俺も家内が死んだときは毎日あんたみたいに墓を見守ってたが、最初の数ヶ月だけだ。今はもうどれがあいつの墓かも思い出しにくくなってきた」
クラーレは目を伏せた。
「それでな、俺は逃げるよ。魔物が迫ってる」
「魔物とは?」
「
老人は彼女を何度も振り返りながら去っていった。
クラーレは土を払って立ち上がると、腰の剣に手をかけた。
「ゼン、調子はどうですか」
少し遅れて、筒の中から声が響く。
「よさそうだ」
墓標の間を埋めるように小さな緑色の影が現れ、金属を擦り合わせるような鳴き声が聞こえ出した。
「掘り返している暇がないので、失礼します」
クラーレは懐から火薬入りの袋を取り出し、マッチを擦った。
彼女は袋の端を噛み切り、火をつけて放った。火薬は吸い込まれるように地中に突き出した筒に呑まれた。
土砂降りの雨のように砂の粒が降り注ぐ。
べったりと泥を貼りつけた腕が地中から突き出し、這い出したゼンが土の混じった唾を吐いた。
「いろいろ言いてえことはあるんだけどさ……」
睨むようにクラーレを見上げたゼンに、彼女は微笑みを返す。
「全快ですね」
ゼンは溜息とともに砂の塊を吐き捨てた。
「まずはこいつらぶっ殺してからだな!」
師弟は呆然と立ち尽くす魔物たちに視線をやって、同時に武器を構えた。
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