呪い
曇天の空を、黒いぼろ切れを千切ったような影が埋め始めていた。
半壊しかけた要塞を飛ぶように駆けるクラーレとオレアンは一瞬足を止めて空を睨んだ。
「何だ、あれは!」
飢えた鳥のような鳴き声と不穏な羽音が響き出した。
蝙蝠のような羽を持った全身を黒く染めた魔物が上空を飛行している。
「
大砲の音が鳴り、火花が暗雲に赤い尾を引く。
吸血鬼は砲撃に何体か撃ち落とされながら隊列を崩すことなく砦めがけて滑空してきた。
「私はあちらを援護します。貴方は馬車の三人を!」
クラーレは長い髪を翻して、砦の対極へ駆け出した。
巨人の攻撃が防壁を砕く音が聞こえ、土埃が風に絡んで流れてくる。
「くそっ……」
オレアンは空を睨んでから再び足を早めた。
***
「ヘムロック……」
おびただしい量の血が広がり、真紅の絨毯を広げたような石畳にヘムロックが倒れている。
横たわる彼の腹は巨人の指の形に抉れていた。
「おい、嘘だろ! しっかりしろよ!」
薄く見開いた目は虚ろで、口と鼻から一筋の血が伝い落ちる。
黒い制服の裾から、滑った光沢のある赤い何かが覗いていた。
先ほどの攻撃で剥がれた壁が己の腕に手枷のようにはまっているのを眺めてから、微動だにしないヘムロックに視線を移す。
「くそっ……」
ゼンはセレンを地面に降ろし、足元に転がっていた兵士の剣を拾って駆け出した。
巨人が瓦礫ごと腕を振り下ろす。
拳はヘムロックに触れる寸前、割って入ったゼンの身体に正面からぶつかった。
凄まじい音と黒煙とともに剣が砕け散る。
衝撃で全身の骨が軋む。千切れた皮膚から噴き出した黒い血が凝固して巨人の指を弾いた。
「ぶっ殺してやる……」
振り抜いたゼンの拳が飛び込んできた影に食い込んだ。
蝙蝠のような羽を持った人型の怪物が断末魔の悲鳴を上げる。
「何だよ、くそっ!」
間髪を容れず背後から襲いかかってきた
振り払って反撃に移ったとき、
顔を上げると、防壁の向かいに立つクラーレが指先をこちらに向けていた。
「クラーレ! 頼む、こっちに––––」
ゼンの言葉は巨人の攻撃に掻き消された。
黒い破片の突き刺さった巨大な手の平が全てを押し潰すように頭上から迫った。
ゼンは拳を握りしめて構える。
何者かが瓦礫の間を縫って飛ぶように駆けてくる。
彼は襲いかかる手をすり抜け、崩れかけた要塞の石畳を蹴ると、回転する勢いで巨人の五本の指を切り落とした。
血潮がほとばしり、大蛇のような指が地面で跳ねて四方へ飛ぶ。
「オレアン!」
汗と血で頰に黒髪を貼りつけたオレアンが、抜刀した剣のひっ先を構える。
怒りに任せて巨人が振り下ろしたもう片方の手の平を剣が一閃した。
巨人が吠え、瓦礫の山が震える。
「セレンとヘムロックは!?」
オレアンの声にゼンが蒼白な顔で指さした。
「ヘムロックが……」
オレアンが小さく息を呑み、倒れ伏したヘムロックに駆け寄った。
「聞こえるか、俺だ! 目を開けろ!」
オレアンに抱えられ、ぐったりと身を預けたヘムロックがわずかに目を開く。
「オレアンか……」
鮮血が口元から溢れ、風がめくった服の裾から赤い肉とむき出しの肋骨が覗いた。
「今、どうなってる……俺の身体は……」
オレアンは傷口を覆い隠すようにヘムロックの脇腹を抑える。
「……大丈夫だ」
呻きを上げる彼の身体を引き寄せ、膝に頭を乗せて、オレアンは絞り出すような声で言った。
「出血は派手だが傷はそれほど酷くない……たぶん背中を強く打って……それで動けないんだろう……」
ヘムロックはずり落ちた身体をわずかに持ち上げた。
「そうか……もう、駄目か……」
「違う、お前は大丈夫だ、大丈夫だから」
オレアンの上ずった声にヘムロックは力無く微笑む。
彼は崩れそうな身を起こして、震える手で自分の胸元を探る。
現れたのは真新しい一本の釘だった。
「やめろ!」
オレアンの手を振り払い、ヘムロックは乾き出した血で赤黒く汚れた顔を上げた。
要塞の見張り台に標的を移した巨人が防壁を砕き、削られた場所から兵士たちが砂のように零れ落ちていくのが見える。
「ゼン……」
ゼンは立ち尽くしたままヘムロックを見返した。彼のこれほど小さな声を聞くのは初めてだった。
「師匠を支えろ、わかったな……」
ヘムロックはそう言って、握りしめた釘を胸に突き刺した。
食いしばった歯の間から血が垂れる。
ヘムロックは巨人を見据えて目を見開いた。
「俺の命を代償に呪殺を打つ、
ヘムロックの身体が波打つように痙攣した。
それに共鳴したように巨人が見えない何かに打たれたように身を逸らす。
巨大な金の眼球が一回転し、巨人の身体がゆっくりと後退した。
後方へ倒れた巨人の姿が背後の森に呑まれ、地響きのような音が響き渡った。
残響が空気を揺らす。
横たわるヘムロックの目からは光が消えていた。
***
鼓膜を揺さぶる衝撃音に、
砦を襲っていた
胸をざわつかせる悪い予感にクラーレは呟いた。
「ヘムロック……?」
***
オレアンが汚れた手で顔を覆った。白い顔にヘムロックが赤い線を引く。
指の隙間から泣き声すら漏れてこなかった。
ゼンは呆然としたまま何もできずにいた。
足も喉も石膏で固められたように動かない。
オレアンがゆっくりと手を下ろした。
服で指を拭い、ヘムロックの目を閉じさせて立ち上がる。
「ゼン、行くぞ。クラーレを援護する。セレンを––––」
そのとき、場違いなほど静かな足音が響いた。
先ほど馬車を覗き込んだ少女を連れた青年が土埃で霞む瓦礫の中に立っている。
ゼンは眉をひそめてふたりを睨んだ。
「魔王だな?」
青年が口を開いた。
オレアンが困惑した表情で剣に手をかける。
「誰だよ、手前らは」
「投降しろ。お前が来れば攻撃はやめる」
白髪の少女が青年の腹に腕を回した。
「誰だって聞いてんだよ!」
ゼンが声を荒げ、青年が呆れたように首を振った。
「やれやれ、話もできないか……」
青年が宙に手をかざす。
地を蹴って斬りかかったオレアンの剣が飛んできた瓦礫に阻まれた。
空気が再び振動する。
森の中から現れた巨人が咆哮を上げた。
「死んだんじゃねえのかよ……」
ゼンが呟いたときには既に青年と少女の姿はない。
「
オレアンが叫んだ。
「巨人も吸血鬼も奴が召喚していたのか。どうりで何もないところから次々へと……」
「どいうことだよ……」
ゼンの問いにオレアンが苦々しく答えた。
「マズいことになった。後どれほどの魔物が出てくるかわからない……」
巨人の後ろの空から、鼓膜をついばむような鳴き声で数を増した吸血鬼の群れが迫っていた。
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