敵が去っても気を抜くな
店を飛び出したゼンを見て、腰を浮かせたクラーレの裾をヘムロックが掴む。
「師匠、どこへ行くんですか……」
「少し様子を見てくるだけですよ」
「自分を置いていくんですか……」
ヘムロックは机に突っ伏したまま手を離さない。困惑したクラーレの横でオレアンが立ち上がった。
「俺が見てくるよ。たぶん酔いが回ったんだろう」
オレアンを見送りながらセレンが残った食事を片づける。
「私も久しぶりに飲みすぎちゃったな。今日は早く寝ないと」
「あの、食べられないのでは?」
クラーレがセレンの手元を指さした。口にスプーンを加えた彼女の手にはデザートの皿がある。
「あ、間違えた」
セレンの頰から赤みが消える。
「甘い……」
彼女は席を立つと、真っ青な顔で店を出た。
クラーレはしばらく呆然としていたが、溜息をついてから机に伏せたヘムロックの背をさすった。
「師匠……なぜ、自分には呪殺をやめろと言ったのに、あいつには教えるのですか……」
ヘムロックが呻く。
「ふたりとも生きていてほしいからですよ」
クラーレは静かに言った。
「貴方は呪殺を使うと命を縮めてしまう。ゼンは使えた方がこの先有利だと思います。私は貴方にもゼンにも少しでも長く生きていてほしいんです」
クラーレは返事の代わりにすすり泣くような声を漏らした弟子の背にもう一度触れた。
ゼンは店の外の茂みにうずくまり、胃の中身をぶちまけた。
冷え切った夜の風が酔いの回った身体を急速に冷やした。
枯葉を踏む足音に顔を上げるとオレアンが歩み寄ってくる。
ふらついたゼンを支えて彼は苦笑する。
「飲み過ぎだ」
「違うんだよ」
声を出すと喉が震えて吐き気が戻ってくる。
「喋らなくていい。吐いた方が楽になる」
オレアンに背を叩かれながら再びうずくまると、近くで押し殺したような呻きが聞こえた。
茂みからセレンがおぼつかない足取りで現れる。
「私もゲロ仲間!」
蒼白な顔で笑う彼女を見ながらゼンは重い頭を振った。
「嫌な仲間が増えたな……」
店からぐったりとしたヘムロックを背負ってクラーレが出てきた。
店先に並んだ椅子のひとつにヘムロックを座らせ、クラーレは水筒を取り出す。
「朝持ってきたものですが口をつけていませんから」
ゼンは差し出された水を飲み干して口を拭うと、掠れた声で言った。
「酔ったんじゃねえんだよ……」
空になったはずの胃が鉛のように重たい。
「もうさ、あんたらと飲むのこれっきりにしていいか……」
クラーレは一瞬表情を曇らせてから繕うように笑みを作った。
「ごめんなさい、今日ははしゃぎすぎましたね。もし、嫌なら……」
「嫌じゃねえんだよ……」
ゼンは鈍痛のする頭を抱えて頭を振った。
「ひとと酒飲んだのも上手いもん食ったのも初めてでさ、楽しいって思うたびにジニトのこと思い出すんだよ。アイツは今も死にかけてんのにお前は何してんだって言われてるみたいでさ……それが嫌で嫌でしょうがねえんだよ……」
誰も何も言わなかった。沈黙が夜の闇に広がる。
セレンが口を開いた。
「私もね、昔は甘いもの大好きだったよ」
彼女はゼンの横に腰を下ろした。
「私の弟もそう。街で買い物に行った帰りに甘いもの食べに行くのが大好きだった。でもね、弟が死んでから食べられなくなっちゃった」
ゼンは小さく目を見開いてセレンを見た。
「あの子はもう食べられないのにって思うとね、救えなかった私が食べてたらいけない気がして、それから見るのも嫌になったの」
セレンの横顔を月明かりが照らしていた。
「……これは前世で私が
クラーレが呟いた。
「貴方がたの大切なひとを奪った者たちに、貴方がたの人生まで奪わせてはいけないと思います」
夜風が彼女の髪を揺らす。
「人間が苦しめば魔物は笑う。でしたら、私たちが一瞬楽しむ方がせめてもの復讐になるのではないかと思います」
「復讐か……呪術師っぽいね」
セレンが八重歯を覗かせて笑った。
「呪術師ですから」
ゼンは無言で立ち上がり、胃液の混じった唾を吐いた。
「そろそろ宿に行こう。明日も早い」
そう言ったオレアンの上で街灯の明かりが揺れていた。
***
料理店の二階の宿屋は狭く、病室のように三つのベッドが並んだ小さな部屋だった。
下から響く客の笑い声を聞きながらゼンが布団をかぶると、隣からオレアンの声がした。
「起きてるか?」
ゼンは答える代わりに頭だけ布団から出す。
「……俺は前世で結婚してたんだ。俺は魔王を倒す前に途中で戦死したから妻がその後どうなったのか知らなかった。こっちで生まれ変わって、勇者に聞いたんだ。妻は俺の帰りを待ち続けて、危険が迫っても家を離れなかった。最期は魔物に囲まれて自刃したらしい」
オレアンの表情は見えない。
「しばらくは飯が喉を通らなかったし、生涯忘れないと思ったのに、今はもう彼女の声が思い出せなくなってきた。薄情、なのかもしれないな」
「……そういうもんだろ」
ゼンが小さく答えるとオレアンはくすりと笑った。
「そうだな」
夜の色に染まった部屋にヘムロックの寝息が響いている。
「ゼン。できれば、またみんなで食事しよう。言った通り俺たちの仕事は危険だ。あと何回同じ面子で酒が飲めるかわからない」
ゼンは黙って布団を被り直した。
悪夢は見なかった。
***
暗い山道を少女が歩いていた。
真っ暗な山の中でもそこだけ光源があるような白く長い髪をなびかせて歩く少女の背後には、巨大な手で削り取ったような崖がそびえていた。
木々の間からひとびとの悲鳴が響く。
闇の中からひとりの青年が現れて、少女の肩を叩いた。
「離れちゃ駄目だって言っただろ」
青年の声に少女が虚ろな目を向ける。
「もうすぐ騎士団が来るから危ないぞ」
少女は従順に彼の肩に寄り添うように歩調を合わせた。
「わかってる。必ず
青年は少女を抱き寄せて、暗い道のりを進んだ。
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