酒には気をつけろ
後頭部に当たる柔らかい感触にゼンが目を開くと、額に夕陽を吸って光の粒が絡んだ栗色の三つ編みが触れた。
「いつものパターン、じゃねえな……」
「何の話?」
ゼンの頭を膝に乗せたセレンが顔を覗き込んだ。
「何でもねえよ、どうなった?」
セレンが顎で向こう側を指す。
赤く垂れ込める空の下で、洋館の周りに村人たちが集まっていた。
抱き合う老夫婦や痩せ細った被害者たちに水と食料を与える医者らしき人物が、逆光で蠢くひとつの黒い塊のように映った。
ゼンが身を起こすと、シャツの腹の部分に大きく空いていた。乾いた血のついた穴から覗く肌には傷ひとつない。
ゼンの脇腹をセレンがつついて言った。
「大丈夫?」
「見りゃわかるだろ」
「怪我じゃなくて……君、あの後暴れてたんだよ。クラーレさんが何とか抑えて寝かせたけど」
ゼンはわずかに息を呑み、無言で首を振った。
破れた服を脱ぎ捨て、馬車に積んでいた着替えのシャツに袖を通しながらゼンは周囲を見渡した。
「そういや、あの馬鹿は」
「どの馬鹿?」
「
横から白い指が伸びて、手の甲でゼンの額を叩く。
「心配どうも。お陰様で頭以外は問題ない」
まだ微かに目を充血させたオレアンが口元だけで笑う。
ゼンは肩をすくめた。
湿った土を踏む足音がして目を向けると、見覚えのある親子が立っていた。
やつれた男が娘を抱え、背後で少女の母親らしき人物が不安げに見守っている。
男はこちらを見ながら、何か言いかけてはやめてを繰り返した。
「ご無事で何より」
オレアンの声に男がきまり悪そうに目を伏せた。
「手前の面覚えたからな!」
ゼンが声を張り上げ、家族はハッとして青ざめる。
「やめろ」と窘めるオレアンの横でセレンが喉を鳴らして笑う。
「いいって、そのくらいの方がかえって気が楽でしょ」
ひとびとの群れからクラーレとヘムロックが姿を現わす。
「気がついたんですね」
クラーレの額には戦闘で負わなかっていたはずの擦り傷があった。ゼンは目を逸らす。
「
ヘムロックは腰に手を当てて言った。
「じゃあ、どうすんだ。帰んのか」
クラーレは既に黒くなり始めた空の端を見ながら言った。
「それもいいですが、今回は大健闘ということで、食事にしましょうか」
***
空から赤が消え、全てが藍色に塗り変わった頃、仄かな灯りと話し声が漏れる二階建ての小さな店が現れた。
五人が店に入ると、湯気と油の匂いが立ち込めた厨房で中年の店主ふたりが忙しなく動いている。
「出発は明朝ですから、今日はここに泊まりましょう。食事と宿代は経費で下ろすとロクスターが」
クラーレが服の汚れを払いながら席に着いた。
「こういのも役得だね。ゼン君、こっちこっち」
セレンが自分の隣を叩いて示す。
「飯屋に正面から入ったの初めてだな……」
ゼンは白く霞む店内を見回しながら呟いた。
五人が座ると、すぐに料理と酒が運ばれてくる。
山で採れた獣の肉や揚げ物、硬そうなパン、茹でた野菜の盛り合わせ、小さな樽に並々と注がれた酒が机を埋め尽くした。
ゼンが素手で脂ぎった肉を掴むとヘムロックが目を丸くする。
「汚いな!」
「飯の作法なんか知らねえんだよ」
向かいに座ったクラーレが小さく笑い、食器を手繰り寄せる。
「これは端から切り分けてお皿に取るんですよ。ほら、手を拭いて……」
布巾でゼンの手を包む彼女の指には真新しい包帯が巻かれていた。
「二度の任務で魔族を退け、死者を出さなかった。本当に大健闘だな」
オレアンがグラスを傾けながら言う。
「いつもそんなに死人が出るのかよ」
フォークで突き刺した揚げ物を頬張るゼンが聞くと、オレアンは曖昧に頷いた。
「今回はゼン君が頑張ってくれたお陰で上手くいったってこと。ご褒美にお姉さんが食べさせてあげよっか」
セレンが食べかけのパンをゼンの頬に押しつける。
「もう酔っているのか……」
ヘムロックが呆れたように首を振った。
次々と運ばれてくる料理を取り分けながらオレアンが呟く。
「しかし、このところ魔族の動きが活発化しているな」
「そうですね。魔王の復活が大きな要因でしょうが、それにしても……」
グラスの中身を一気に飲み干したセレンが声を上げた。
「飲んでるときに仕事の話はなし! 楽しい話しようよ。クラーレさんの武勇伝が聴きたいな。竜種を単騎で倒したときのやつ」
「自分も聞いてみたいと思っていました!」
机に身を乗り出したヘムロックにクラーレは苦笑する。
「私の呪いはひとに聞かせるような話ではありませんよ……ですが、」
彼女は顔を上げた。
「ゼン、私から呪殺を習う気はありませんか?」
ゼンは油で汚れた口を拭ってクラーレを見る。
「貴方が魔王の力を使うためにはその都度致命傷を負う必要があるようです」
墓地で胸を貫かれた記憶や、娼館で首を切り落とされた記憶が脳裏をよぎる。
「呪殺は効果が大きいほど代償も大きなものが必要になる。しかし、貴方は不死身ですから致死の呪いも無意味です。代償をほぼ払わず、自分の意思で魔王の力を使いこなせるようになるかもしれません」
「考えておく……」
呟いたゼンの前に勢いよく酒樽が置かれた。
「まだお前が師匠の弟子とは認めてないぞ!」
ヘムロックが据わった目でゼンを見下ろした。
「まだそれ言ってんのかよ……」
ヘムロックは自分とゼンのグラスに並々と酒を注ぐ。
「飲み比べだ」
「はあ?」
「あ、いいなー。楽しそう」
セレンが新しい酒に手を伸ばす。
「やめておけ、お前強くないだろ」
グラスを奪おうとするオレアンの手を払ってヘムロックは既に呂律の回らない舌で言った。
「勝ったら弟弟子として認めてやらなくもない」
「勝っても負けても俺に得がねえだろ。手前の許可なんかいらねえよ」
「それは、もう私を師匠だと思ってくれているということでしょうか」
クラーレが赤い顔で首を傾げる。
「あんたまで酔ってんのかよ……」
「漢のくせに逃げるのか。負けて醜態を晒すのが怖いとでも?」
ヘムロックが腕を組んで笑う。
ゼンは舌打ちして、目の前の酒を一気に飲み干した。
がん、と音を立ててヘムロックが机に突っ伏す。
いっぱいだった酒の樽は底が見えるほどになっていた。
「俺が勝ったってことでいいのか、これ」
服に溢れた酒で濡れた襟を絞りながらゼンが言う。
「やめとけって言ったのに……」
抗議するように呻いたヘムロックの肩を揺すって、オレアンが低く呟いた。
「すみません、お水を五人分いただけますか」
クラーレが店の奥に向けて言うと、水差しと共に五つの皿に盛られた白いクリーム状なものが運ばれてきた。
「こちらは?」
「デザートはサービスです」
店主が五人の前に皿を並べながら答える。
「あの洋館に私の孫が囚われていました。もう死んだものだと思っていましたが……ありがとうございます」
店主は深く頭を下げると、汚れた皿とグラスを持って去っていった。
クラーレは小さく微笑んで店主を見送った。
「これを食べたらお開きにしましょうか」
「私、甘いもの駄目だから誰か食べていいよ」
水を手にしたセレンが言う。
「珍しいな」
ゼンは上気した頰をさすってデザートの皿に手を伸ばした。
「昔は大丈夫だったんだけどね」
ゼンは小さな匙でクリームを掬って口に運んだ。
滑らかな食感に今朝方見た夢が蘇る。
どろりとした黒い何かが喉から舌に這い上がる感触。目を見開いたジニトの顔を汚す黒い雨。
ゼンは口を押さえて立ち上がった。
「ゼン?」
クラーレが心配そうに見上げる。
「吐いてくる」
ゼンは椅子を蹴倒して店の外に駆け出した。
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