急に善い奴になるな
銀の粘膜がオレアンに絡みつき、鼻と口からずるりと体内に侵入する。
オレアンが大きく痙攣し、うずくまって嘔吐した。
口を押さえた指の間から銀色の液体が溢れる。
唾液と混じって泡立った雫が煤けた絨毯の上に落ちた。
「何で、手前が……」
呆然と立ち尽くすゼンの横で、セレンが怒りに満ちた目で親子に指先を向けた。
男が青ざめて娘を抱き上げる。
「待ってくれ、あんたら騎士だろ! 民間人を守るのが仕事じゃないのか!」
「ひと殺しを民間人とは呼ばない。それに……子どもを殺そうとした奴は私の敵だ」
男に縋りついた少女が泣きじゃくり、セレンが顔をしかめた。
「やめろ!」
枯れた声でオレアンが叫んだ。
鈍く光る粘液を滴らせた口から、荒い息とともに言葉が溢れる。
「魔物が……儀式をやるって言ってただろ……だったら、生贄はここにいる全員のはずだ。ひとりでも死人を出せば、あっちの勝利条件に近づく……誰も死なせるな」
虚ろな目は充血し、涙の代わりに銀色の粘液が張っている。
セレンは表情を曇らせ、静かに片手を下ろした。
えづいて血の混じった唾液を吐くオレアンの肩をゼンが掴み、壁に寄りかかるように寝かせる。
「何で手前が俺を庇うんだよ……」
「魔物を勝たせないためさ……」
「騎士ってのは大義があれば死んでもいいのか」
「私情もある」
白い顔に冷や汗を浮かべたオレアンが無理やり笑みを作った。
「俺は前世は貴族だったけどな、今世はお前と同じような
オレアンは噎せ返って、力なく壁にもたれかかった。
「あぁ、くそ……どいつもこいつも……」
ゼンは舌打ちしてセレンに向き直った。
「なぁ、粘魔だかって奴、殺せるか?」
セレンは戸惑ったように視線を下げる。
「正直、少し難しいかな。私の射撃じゃ火力が足りない」
「この屋敷にデカい火薬かなんかねえのかよ」
「あってもただの火力じゃ駄目。魔族を倒すには魔力を込めた攻撃以外効き目が薄いから」
「俺は魔力なんかないけど魔物を殺せてるぜ?」
「たぶん、ゼン君の中の魔王のおかげかな……」
ゼンは震えながらこちらを見る親子と倒れたオレアンを見比べて息をついた。
「怪我人と雑魚じゃどうしようもねえ。離されてるあいつらも呼ばねえとな」
「どうする気?」
ゼンは答える代わりに天井を見上げて怒鳴った。
「おい、見てんだろ、
天井がわずかに揺れる。
「儀式だか何だか知らねえけど行ってやるよ。ただし生贄は俺が選ぶ。俺が連れてきた四人だ!」
周囲の壁が急速に後ろに流れ出し、迫り来る壁がひとりでに開いていく。
「犠牲になるつもり?」
セレンが低い声で言った。
「馬鹿か、俺はお前らとは違えからな」
「じゃあ……」
「貧民の常識教えてやろうか。盗みやるとき一番楽なのは、相手が飯食ってんときだ」
ゼンとセレンの身体が空中に浮く。
ふたりは冷たく濡れた石畳に叩きつけられた。
少し遅れてオレアンが落ちてくる。
見回すと、そこを肋骨のような支柱が黒い水の滴る天井を支える石造りの空間だった。
仄暗く光る向こうに、赤茶けた泥で汚れた祭壇が見える。
「無事ですか!」
声とともにクラーレとヘムロックが着地した。
「オレアン……!?」
ヘムロックは床に伏せるオレアンに駆け寄り、息を確かめる。
「まだ死んでねえよ。それより、来てるぜ」
祭壇を乗り越えて、巨大な銀色の塊が水のように蠢きながら現れる。
「陛下だ……陛下……」
ゼンはクラーレに近寄って囁く。
「俺を魔王にする儀式をやるらしい。ここに来るとき、あんた魔法陣だか何だかって言ってたよな」
「ええ……」
「それぶっ壊せるか?
クラーレは無言で力強く頷いた。
「魔王陛下……お待ちください……すぐその汚い子どもからお出しいたします!」
地下室が震え、支柱が赤色の鈍い光を放つ。
銀の触手が壁中から飛び出した。
オレアンに絡みつこうとした触手をヘムロックの拳が弾き、雫が飛び散る。
「ヘムロック、そのまま抑えてろ!」
「命令するな!」
ヘムロックはオレアンを抱えて触腕を避け、素早く反撃に映った。
セレンの放った何発もの閃光が粘魔を貫いた。
手応えはなく、銀色の粘膜が即座に傷を修復する。
「セレン、その調子でぶち込んでくれ!」
「いいけど、もうあんまり残弾がない!」
「平気だ! 奥の手があんだよ!」
ゼンはセレンに近付いて耳打ちした。彼女の目が小さく見開かれる。
ヘムロックの足首を触手が掴んだ。
「まずはお前だ……」
それに合わせて地下室の支柱が赤く煌めき出した。
「そこですか」
ヘムロックを引きずる銀の触手が弾ける。
クラーレが手にした釘を石畳に打ち付けた。
「柱に組み込まれた魔法陣を全て壊せ、代償は同じ枚数の私の爪。呪殺を打つ!」
クラーレの指を包む籠手から血が噴き出した。
支柱の塗装が爪のように剥がれ、破片が舞い散る。
柱の中心に描かれた血の陣が砕け散った。
「よそ見してんじゃねえよ!」
地を蹴って飛び出したゼンに向かう触手がセレンの砲撃で弾かれる。
ゼンが拳を固めた瞬間、剣のように凝固した
身体に風穴が開く。
腹圧を失って溢れ出した血肉を抑えることもなく、ゼンは粘魔に組みついた。
「無駄だ、お前ごときが……」
ゼンの身を貫いた閃光がどす黒い血の雨を纏って銀色の粘液を叩く。
背骨と肉の覗いた穴から、膝をついて指を構えるセレンの姿があった。
「奥の手があるって言っただろうが……」
歯茎から血を滴らせてゼンが笑う。
「手前に打ち込んだのは俺の血と骨だ」
魔物の絶叫が響き渡った。
「洋館に
ゼンは後ろ向きに倒れ、銀色の粘液が飛散した床に頭を打ち付けた。
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