団体行動から外れるな

 擦り切れた赤い絨毯を踏みしめる足音が響く。


 氾濫した河の濁流のように、痩せ細った人間たちが廊下の奥から押し寄せてきた。


「あいつらも粘魔スライムの擬態か?」

「いえ、彼らはれっきとした人間です……」

 ゼンの問いにクラーレが首を振る。


「あいつを捕まえればいいのか……?」

「本当に帰れるの……」

 汚れた肌をしたひとびとの目だけが爛々と光る。



「おい、粘魔スライムだか何だか知らねえけどこっちは不死身だぜ」

 ゼンが天井に向かって声を張り上げる。傾いた照明を揺らす忍び笑いが返った。

 群衆の目の前に銀色の雨が降り注ぐ。足元に落ちたそれは凝固して鈍く光る縄を作った。


「人間ども、それを使え」

 洋館に囚われていた失踪者たちが恐る恐る縄に触れる。

「私が陛下を殺すものか……贄を捧げ、お前の中の魔王陛下にお戻りいただくのだ」

「儀式だ、儀式だ……」

 家中が震え出す。


 それを合図に一斉にひとびとが襲いかかった。

 銀の縄がゼンの腕に絡みつく。肌に触れた瞬間、縄はどろりと溶け、ゼンの首元に這い上がった。

「くそっ!」

 クラーレの剣が縄を切り刻む。

「逃げましょう、民間人を殺す訳には行きません!」



 五人は群衆を掻き分けて、廊下の奥へ駆け出した。

 縄を手に飛びかかってきた男をヘムロックが当て身で弾く。

「待て、俺は帰るんだ! 帰って母さんに……」

 男の絞り出すような声に足を止めかけたヘムロックの背をオレアンが強く押す。

「聞くな!」

 ヘムロックはかぶりを振って再び走り出した。


 壁際に追い詰められた五人は肩で息をしながら様子を伺った。

「どうすんだよ、これ……」


 視界が歪み、切り抜けたはずの失踪者の集団が前に現れる。

「どうなってんだ!」

「この屋敷自体に粘魔スライムが取り憑いているようです。家の形を自在に変える。失踪者が出られなかった理由はそれでしょう」


「ごめん。みんな避けてね」

 セレンが天井を指すように指を突き出した。シャンデリアが弾け、ガラスの雨がひとびとの行く手を阻む。

「とりあえず、どこか避難できるところに––––」


 その瞬間、屋敷が大きく振動した。

 壁と床が縦横無尽に蠢き出す。

 天井がぐるりと回転して視界を塞いだ。

「ゼン君、危ない!」

 セレンに手を引かれてよろめいたゼンの目の前で柱が倒壊する。


「ゼン!」

 クラーレの声が上方から降ろされた壁に掻き消された。



 ***



 屋敷の鳴動が終わり、傾いていた壁がゆっくりと四方に戻っていく。


 ゼンが振り返ると、腕を掴んだままのセレンと呆然と佇むオレアンがいた。

「クラーレとヘムロックが……」

「分断されたな」

 オレアンが低く呟いた。


「こっちに被害者たちの姿は見えない。魔物の狙いはお前だから、あっちのふたりも今すぐ大事にはならないだろう」

「くそ面倒くせえ魔物だ……」

 ゼンの手を離したセレンが辺りを見回す。

「とりあえず、合流を目指そっか」


 彼女は暗がりに向けて一発の弾丸を射出した。

 敵にぶつかった音も、壁に当たって弾ける音すらもしない。

 三人は溜息をついてから廊下を進み出した。



「ゼン君の中の魔王を出すために儀式をやるって言ってたよね」

 足を動かしながらセレンが独り言のように言った。


「生贄の儀式をやるなら、最初の学園都市の生徒はともかくどうして浮浪者や娼婦まで捕まえたんだろう」

「どういうことだ?」

「黒魔術の儀式はクラーレさんの呪術と似てるの。爪や髪とかすぐ治るものじゃなく、臓器や寿命みたいな貴重なものの方を代償にした方が効果が高いのと一緒で、魔力を持ってたり付加価値のある人間の方が儀式は成功する。娼婦なんか使っても成功率は低いと思うな」


「なんか、って思われてるからじゃねえか?」

 ゼンの声にセレンが視線を動かす。

「すげえ奴ばっかり捕まえたらすぐ警戒されるし、まず捕まえにくいだろ。俺だって盗みをやるなら、警備の多い金持ちの家よりそこそこの奴を狙うぜ。大したことない奴ばっかだからここまでたくさん集まったんだ」


 オレアンが小さく喉を鳴らして笑った。

「何笑ってんだよ」

「組織の中にひとりは別の視点を持った人間がいるといいと思っただけさ」

「魔王に選ばれるようなクズがいてよかったってか?」

「……いや、俺も同意見だよ」


 オレアンは笑みを打ち消して、ゼンを追い越した。



 ***



 硬くそびえる壁にヘムロックの拳が叩き込まれ、家全体が震える。


 壁に亀裂が入り、崩れたかと思うと瞬く間に溶け出した破片が穴を埋め、傷を修復した。


「申し訳ありません。手応えなしです」

 クラーレは顎に手をやって俯いた。

「貴方のせいではありません。やはり核を叩かなければ効果はないようですね」


 彼女は床だったはずの木板が広がる天井を見上げた。

「最後の手段ですが、いざとなれば私がこの家全体を対象に呪殺を打ちましょう。崩れかけの身体でも粘魔スライムくらいになら効くはずです」

「でしたら、自分が!」

 ヘムロックが遮った。

「自分はまだ内臓も全て残っていますし、寿命もあります。師匠から教わった呪術を使えば……」


「いけませんよ」

 クラーレが語気を強める。

「貴方は健康でまだ先がある。命を浪費し慣れた私とは違います」

「ですが、それでは師匠が……」

「師の失敗から学び活かすのも弟子のつとめでしょう。それに、あくまで最終手段の話ですよ」

 泣きそうに顔を歪めた弟子にクラーレは微笑んだ。



 ***



 ひしゃげた壁が内臓の襞のように左右を囲む廊下を進みながら、ゼンは沈黙に耐えかねて口を開いた。


「なぁ、あんたらは前世でも仲間だったんだよな?」

「そうだ」

「クラーレってさ、どんな奴だったんだ」

 そう聞かれて言い淀んだオレアンの代わりに、セレンが答える。

「うーん、正直よくわからないんだよね」

「わからないって、仲間じゃねえのかよ」


 セレンは正面を向いたまま言った。

「前のクラーレさんは今とは全然違ったの。この世の全てを恨んでるみたいな感じでね。呪いを使いまくったせいで身体はボロボロ。顔に巻いた包帯から血が染みてて、その間から暗い目だけ見えてて、話しかけにくかったな。魔道士メイジ聖騎士パラディンはよく相手してたけど、そのうち声も代償にしたみたいで、誰とも喋らなくなっちゃった」

 ゼンは唖然として彼女を見た。

「そんな奴が何がきっかけで今みたいになったんだ……」



 前方から耳をつんざくような泣き声が聞こえた。

 オレアンとセレンが素早く武器を構える。


「待ってくれ、何もしない……」

 掠れた声と共に捻れた廊下の奥から痩せ細った男が現れた。

 男は骨が浮いて見える腕に泣きじゃくる少女をぶら下げながら、両手の指を開いて非武装を示す。


「娘が喉が渇いて、もう限界なんだ……」

 消え入りそうな声にオレアンとセレンが視線を交わす。

 セレンは肩を緊張させたまま、装備から小型の水筒を取り出し、慎重に彼らに近づいた。



「ジャリが好きなんだな」

 親子に水を与える彼女を眺めながらゼンは呟いた。

「俺のことも弟、弟って……そんなに好きなら手前の弟だけ構ってりゃいいのに」

「あいつに弟の話はするなよ。少しマズい」


 ゼンは眉をひそめたが、オレアンがその先を言わない様子を見て肩をすくめた。

「騎士っていうのは民衆を守るんだろ。よく俺を粘魔スライムに差し出してあいつらを助けようって言い出さないな」

「魔物の望みに応えればこっちが不利なのはわかるからな。それだけさ」

「賢明なことで……」



 セレンが水を与え終えると、父親が抱えていた少女を足元に下ろす。

「ありがとうございます。閉じ込められてどれほど経ったかもわからなくて……」

 男はふらつきながらこちらへ近づいてきた。

「せめて娘だけはと思って今日まで……」

 再び少女が火がついたように泣き出す。


 ゼンの前まで来た男の手の中で何かが輝いた。

「すまない、でも、娘のためなんだ」

 男が粘魔スライムの縄を広げた。


「ゼン君!」

 セレンの指先が男の背中を指す。

「撃つな!」

 オレアンが叫ぶより早く、男の肩を閃光が掠めた。

 呻きとともに男の手から銀の獲物が離れる。


 空中で蠢いて形を変えた縄がゼンを捕らえようとしたとき、前に飛び出したオレアンに衝突して弾け、彼の身体を銀色の膜が包み込んだ。

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