怪しい館に近づくな

 洋館の周りにはひといきれに似た重たい空気が立ち込めていた。


 雨上がりでもないのに土を踏むたび染み出すほど濡れた地面をクラーレが一瞥する。

「この水、粘性がありますね。ただの湖ではないようです」

 彼女の鎧に包まれた足は粘ついた泥がへばりついていた。


「魔族の体液か、粘魔でしょうか」

 オレアンが返し、セレンも周囲を見回しながら口を開く。

「しかも、この濡れ方、屋敷を中心に一周してるよ。魔法陣みたい。誘ってるね」

「被害者が人質として囚われている可能性が高い。急いだ方がよさそうですね」


 クラーレがひび割れた石段を駆け上がり、錆びついた扉を押した。

 蝶番が悲鳴のような音を立て、中から不穏な風が噴き出す。


 五人は荒廃した洋館に足を踏み入れた。



 最後尾のゼンが中に入った瞬間、ひとりでに扉が閉まった。

「おい、万が一のため扉は開けておけ!」

「何もしてねえよ」

 ヘムロックの声にゼンが返す。

「ゼン、扉は開きますか?」

 クラーレに聞かれて扉を押すが、壁のように動かない。

「やられたな、まぁ想定の範囲内だ」

 オレアンが低く呟いた。



 外界からの光を失った洋館は、巨大な魔物の食道に呑まれたように暗く熱い空気が滞留している。


「あまり広くはないようだ。犠牲者と魔族を見つけるのにそう時間はかからないだろう」

 煤で汚れた壁をなぞりながら言ったヘムロックをセレンが手で制する。

「静かに」


 廊下の奥から湿った足音が響いてきた。

 暗がりから現れたのは、擦り切れた服を纏った老人だった。

「ここから出してくれ……」

 老人は救いを求めるように手を伸ばす。

「失踪者か……?」

 先頭を歩くヘムロックが一歩踏み出した瞬間、老人の頭がふたつに割れ、中から突き出した巨大な舌が襲いかかった。


「私の血を代償に呪殺を打つ!」

 クラーレが鋭く叫び、彼女の耳飾りが割れる音とともに魔物の舌が弾けた。


 飛散した肉塊が宙で動きを止め、花のように開く。

 息を呑んだクラーレ目掛けて、肉塊が降りかかったとき、閃光が輝き破裂音が響いた。


 老人の身体と肉塊が粉々に砕ける。

 床に落ちた肉片は煙を上げて溶け出し、粘ついた銀色の液体に変わった。


「やっぱり粘魔スライムだったかぁ」

 人差し指を前に突き出したセレンの指先には紐状に繋いだ黒い玉が握られていた。

「それ、火薬か?」

 彼女は歯を見せて笑う。

「そう。魔力で摩擦して打ち出すの。射手だけど銃なんて使わないよ、私の方が早いから。」

 セレンはゼンの肩を引き寄せて言った。

「頼りになるでしょ? いっそ私の弟子になっちゃう?」

「ならねえよ」


 彼女の手を振り払うゼンを横目にオレアンが呟いた。

「だとしたら厄介だな。呪殺が効かないかもしれない」

「そうですね。呪殺は対象がいて成り立つものですから、個体としてのまとまりがないものだと効果が薄い。核を見つけなければ」

 クラーレが目を伏せる。オレアンは辺りを見回して言った。


「貴女とセレンは後方支援で、俺とヘムロックが中心を守ります。ゼン、先頭でいいか?」

「盾になれってか? わかったよ……」

 ゼンが舌打ちして前に進み出ると、五人は廊下を歩み始めた。


「なぁ、粘魔スライムって何だ」

 先頭を歩くゼンの問いにクラーレが答える。

「粘性を持った液体のような魔物です。そのものの戦闘能力は高くありませんが、擬態を得意として核を叩かなければ倒せないので厄介ですね」

「そこは私の出番。奴は熱に弱いからとっとと核を見つけて撃ち抜いちゃえばいいの」と、セレンが引き継ぐ。


「しかし、気味の悪い館だな」

 中心を歩くヘムロックが呟いた。

 廊下には大量の蝋がこびりついた燭台の間に、古ぼけた肖像画が並んでいる。青白い顔をした家族や黒い花を持って佇む少女がどれも無表情に描かれていた。


「噂の域を出ないが……」

 オレアンの静かな声が響いた。

「昔、ここに黒魔術を扱う一族が住んでいたらしい。魔王に捧げる生贄としてこの土地の住民や自分たちの家族を献上していたとか。曰く付きの場所だ。魔族が巣食うには都合がいい」

「勉強熱心なことで……」

 ゼンが吐き捨てた。


「俺はひと並みかそれ以下だからな。勉強して丁度いいくらいだよ」

「かえって嫌味だぜ。どうせいいとこの家で教育受けてきたんだろ」

「そうでもないが、そう見えるなら光栄だな」

 オレアンが苦笑する。


「ねえ、この絵さっきも見なかった?」


 セレンの声に一同が足を止める。

 彼女が指したのは巨大な鏡の横にかけられた、喪服の貴婦人の絵だった。

 鏡に映ったヘムロックが眉間に皺を寄せる。

「そう言われれば……おい、お前が先頭だろう。覚えてないのか」

「知らねえ」

 そう答えたゼンの横で溜息が聞こえた。

「全く不甲斐ない奴だな」

 ヘムロックが大げさに首を振ってみせる。

「うるせえな、だいたい今お前が俺より先にいるだろ。見てねえのかよ」


 鏡の中のヘムロックが呆けたような表情を浮かべた。

 ゼンの目の前と少し離れた鏡の前に同じ顔がふたつある。

「あれ? お前……」

 ヘムロックの拳がゼンの鼻先を掠めた。

「ゼン!」

 前に飛び出したクラーレの剣が攻撃を受け止める。ヘムロックの身体が弾けて闇の中に消えた。


「粘魔の擬態です!」

 クラーレが叫んだ瞬間、暗がりから飛び出したオレアンの剣がセレンを襲った。

 飛び退って避けた彼女の足元をひっ先が叩く。

 セレンが火薬玉を握ったとき、オレアンが抜刀して分身の剣を薙ぎ払った。

「撃つな、セレン!俺だ!」

 ふたりが同時に声を上げる。

「どっちが本物……?」


「全員、固まって離れずに!」

 クラーレが命じ、五人は背中合わせに距離を詰めた。

「どうすんだよ、これ!」

 ゼンが苛立ち混じりに言うと背後から斬撃が飛び出した。間一髪で避けたゼンをヘムロックの拳撃が襲う。

「くそっ!」

 弾かれたヘムロックが後方の壁にぶつかり、同じ姿の男がそれに飛びかかった。

 ふたりのヘムロックが同時に廊下を転がり、同時に立ち上がる。


「下がれ」

 オレアンが剣を構えて腰を落とした。

「待て、仲間の見分けもつかないのか!」

 目を見開いたヘムロックが叫ぶ。

 オレアンは地を蹴って飛び出し、剣を一閃した。


 片方のヘムロックが上体を逸らして避け、もうひとりの首を剣先が切り裂く。

 鮮血の代わりに銀色の粘液が噴き出した。

「わかるさ、相棒バディなら避けられないわけないだろ」


 どろりとした液体が糸を引く剣を払うオレアンに、ヘムロックが「当然だ」と頷く。

「意外と野蛮だな……」


 ゼンが呆れたように呟くと、目の前に自分の虚像が現れた。

「危ない!」

 ゼンの肩を閃光が貫き、黒い血が弾け飛ぶ。

「痛ってえな、俺は本物だよ!」


 気まずそうな表情を浮かべたセレンにゼンが怒鳴ったとき、屋敷全体が震え出した。

 床と壁が軋み、天井の照明が落下しそうなほど揺れる。


「魔王だ!」

 洋館の奥からくぐもった声が響いた。

「魔王だ、魔王だ!」

「あれが魔王か!」

 周囲から歓声のように声が湧き出す。

「何だよ……」

 喜びに震えるような声に五人が息を飲んだ。



 ばん、と扉が開く音がして、どこからか足音が響く。

「あの白髪を捕らえろ。捕まえた奴はここから出してやる」


 天井から聞こえた声を合図に、長い廊下に無数の影が現れた。

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