二:館の封じ込め

距離が近い女に気をつけろ

 胃の奥から生温かい何かが這い上がってくる。

 鼻血が喉に回ったときのような感覚にゼンはえずいた。


 吐き出した黒い唾液の中に、目を見開いて倒れた友人の蒼白な顔が反射する。



 ゼンが飛び起きると、窓の外に藍色の空が広がっていた。

「クソみてえな夢だ……」

 濡れた口元を拭う。糸を引いた唾液は透明だった。

 重い頭を振って窓を見下ろすと、単調な息遣いが聞こえてきた。



 ゼンが騎士団駐屯所の庭に出ると、壁にもたれたクラーレが煙草の煙を燻らせていた。

「おはようございます、早起きですね」

 微笑む彼女の背後で、庭を走っていたヘムロックが声を上げる。

「遅い方だぞ! 騎士になるなら朝の走り込みぐらいはしろ!」

「真面目なことで……」


 ゼンは無言でクラーレに手を差し出した。

「初任給が入ったら自分で買ってくださいね」

 煙草とマッチを渡すクラーレの指先には、短い爪が生え始めていた。

「師匠から貰い煙草とはどういう了見だ!」

 ヘムロックが肩で息をしながら赤い顔で怒鳴る。

 ゼンが答える代わりに煙を吐きかけると、彼は呻き声を上げた。


「いけません」

 窘めるように言ったクラーレとゼンの指先から解ける煙をしばらく見つめて、ヘムロックが意を決したように近づいた。

「師匠、自分も一本頂戴してよろしいですか」

「苦手では?」

「いえ、いただきます!」

 困惑する師から、ヘムロックは戴冠式のように慎重に煙草を受け取って火をつける。

 彼は深く吸い込んで、顔を歪めて噎せ返った。


「馬鹿な奴……」

 口元だけで笑ったゼンの上で朝日が昇り始めていた。



 ***



 事務室の窓から王都を見下ろしながらロクスターは呟いた。


「勇者が国境付近で生き死人アンデッドに遭遇。討伐したものの死霊術師ネクロマンサーの痕跡はなし、か……」


 背後で資料を手にしていたオレアンが言う。

「西の死人騒ぎはスルク隊長率いる特別部隊が制圧したそうですが、こちらも外れです」

「魔力もないのに健闘するね。まだ若いと聞くけれど……聖騎士パラディン姫騎士プリンセスは?」

「氷海周辺は魔族より諸侯との軋轢の方が重大だとか。航路が凍結していて帰還はまだ先になるようです」

「他に変わったことは?」

 オレアンは首を振った。

「王都の噂話でしたら、呪いの洋館に少女の霊に取り憑かれた少年……くだらないものばかりですよ」

 ロクスターは窓枠の埃をなぞった。

「君たちにはその“くだらないもの”の処理に当たってもらうことになりそうだ」


 ノックの音が響き、ゼン、クラーレ、ヘムロックが事務室に入る。

 ロクスターは向き直って、机に地図を広げた。



「これから王都から南にあるゴダード村の湖の方へ行ってもらえるかな」

 彼は机の上で指を組む。

「湖畔にある廃墟にで一般人が失踪している。ひとを食う呪いの洋館という噂だ。よくある怪談の類だと思っていたけど、魔族の反応が出た」

 ヘムロックが小さく息を呑む。

「今回は君たちにオレアンと射手ガンナーを加えて行動してほしい」

「五人もですか?」

 クラーレがわずかに眉を吊り上げた。

「それが……妙でね。失踪したのは肝試しに来た若者や盗賊まがいの商人たちなんだが、いずれも四、五人以上の集団で行った者が姿を消しているらしい。何らかの魔術なら、それが発動条件かもしれない」


 ロクスターはゼンに視線をやった。

「高等な魔術なら君の中の魔王を剥がす方法にも関わりがあるかもしれない。行ってもらえるかな」

 ゼンは大仰に溜息をついてみせる。

「良心だか真心だかを持ってお受けしますって言えばいいんだろ。じゃなきゃ、今から処刑の段取りってことだ」

 ロクスターは頷いた。

射手ガンナーはもう馬車で待機している。今回もみんなと仲良くね」



 ***



 王都の塀を取り囲む警備の兵士たちの視線を浴びながら、ゼンはクラーレの耳元で言った。


「洋館に射手ガンナーなんか連れて行くか? あいつ、やっぱり人事向いてねえよ」

「そんなことを言ってはいけません」

 クラーレが歩くたびに肩で髪が弾む,。


「なあ、射手ガンナーってどんな奴だ?」

「ゼンは見ていないんでしたね。彼女は魔物討伐の実績がある実力者ですから、どんな任務でもいれば心強いですよ」

「そういうんじゃなく……」


「こういう男が気にすることは決まっていますよ!」

 ヘムロックが割り込んだ。

「美人か聞きたいんだろう!」

 少し後ろを歩いていたオレアンが額に手を当てて呟く。

「馬鹿か。それに、あいつの問題は見た目より中身だろ……」

「それってどういう意味だ」

「会えばわかるさ。噂をすれば、だ」


 門の前に停まった馬車の近くにひと影があった。

 オレアンがゼンの横で立ち止まって声を潜める。

「気をつけろ、お前は年下だから」

「だから、どういう意味だよ」


 馬車の前の女が手を振る。

「セレン」

 クラーレが彼女に歩み寄った。

「先の襲撃では助かりました」

「いいよ、仲間なんだし」

 セレンと呼ばれた、栗色の髪をひとつに編んだ長身の女が答える。


「こいつが射手ガンナーか?」

 ゼンの声に視線をやった。

「初めて見る顔……ということは、君がそうかな」


 彼女は八重歯を見せて笑うと、急に距離を詰め、ゼンの顔を覗き込んだ。

「魔王の器っていうからどんな凶悪な奴かと思ってたけど、こんな可愛い少年なんだ?」

「悪ぃのは目と頭どっちだ」

 白髪を掻き回そうと伸びるセレンの手を避けながらゼンが吐き捨てる。


「中に入ってるもんが相当可愛くないんだよ。もう魔王と同調して不死を獲得してる」

 遠巻きに眺めるオレアンが言う。

「へえ……」

 セレンはゼンから身を引くと、手を挙げてクラーレを呼んだ。


「クラーレさん! この子、私と同じ馬車でいい?」

 クラーレは二台の馬車を見比べ、少し迷ってから口を開いた。

「どうぞ」

 その背後のヘムロックの勝ち誇ったような顔にゼンは舌打ちする。



 ***



 王都を出た馬車は、枝木が黒い雨のように垂れる暗い林の中を走っていた。



「情報を共有しておきたい」

 座席で資料を広げてオレアンが言った。


「最初の失踪事件は一ヶ月ほど前。学術研究の名目で学園都市から来た学生五人だ」

「金持ちの馬鹿が死んでも同情できねえな」

 ゼンを横目に「その点は置いておいて」と、オレアンが続ける。


「以降、失踪者は増え続け、廃墟に住み着いていた浮浪者や街娼も消えた。だが、洋館の外では何の被害もない」

「……馬鹿でもわかるように」

「魔物が屋敷から離れられない理由があるってことだ」

「だったら、その家ごと焼き払っちまえばいいだろ」

「犠牲者が中に囚われている可能性がなければな……」

 オレアンは沈痛な面持ちで首を振った。

「騎士ってのは大変だ」

 ゼンはそう言って、自分の右半身にぴったりと貼りつく重みに目を向けた。


「もうちょっとそっちにズレろよ」

 セレンは可笑しそうに身を揺すると、更に重心を預ける。


「ねえ、君いくつ? 十八、九かな」

「知らねえよ」

「私の弟も同じくらいなんだ。故郷から離れて寂しかったらお姉ちゃんだと思っていいんだよ」

「寂しかねえよ、あんな掃き溜め」


 ゼンが身を逸らして逃げると、セレンは肩を竦めた。

貧民街スラム育ちって本当なんだ」

「あぁ。あそこから出ても魔族に追われるわ、上手くやらなきゃ殺すって言われるわ、どこ行ってもクソだ」

 セレンは顎に手をやって少し俯くと、再びゼンに身を寄せて耳元で囁いた。


「じゃあ、お姉さんと一緒に逃げちゃう?」

 ゼンは目を見開いた。向かいに座るオレアンは表情を崩さずふたりを眺めている。


「何言ってんだ……」

 セレンは八重歯を覗かせた。

「仕事ずくめでうんざりなのは私も同じ。せっかく二度目の人生なのに、好きだったお店は潰れてるし、見たかったお芝居も劇団ごとなくなってるし、やる気なくなっちゃう。一緒にどっか逃げて面白いものでも探さない?」

「俺が逃げたら処刑って知ってんだよな?」

「大丈夫だよ、不死身なんでしょ?」


 荷台が揺れ、馬車が動きを止める。

「冗談はそこまでだ。着いたぞ」

 オレアンが外を睨んで言う。

「真面目だなぁ……」

 ゼンに頰を寄せて、セレンは立ち上がった。


「イカれ女……」

 呟いたゼンの首筋を死人の肌に似た冷たい風が撫でた。


 馬車の外には黒い林を反射して淀む湖が広がり、水底からそびえ立つような洋館を反射していた。

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