淫虐スラム
「もっと警戒しておくべきでした。
彼女は薄い屋根に空いた巨大な穴の前で足を止め、真下の暗闇を睨んだ。ヘムロックが言う。
「
「魔族間の派閥争いにおいて魔王は相当有力な手札のはず。ゼンの中の魔王を目覚めさせ、旗印にするつもりかと……。目撃者の言っていた娼館の廃墟へ急ぎましょう」
クラーレは外套の裾を翻して屋根から飛び降りた。
後に続いて着地したヘムロックがふと表情を曇らせた。
「どうかしたのですか?」
地面に伸びる彼の影が、増築されたバラックの虚空に突き出した影と混ざり合う。
「今、こんなことを問う場合でないのは承知ですが……」
ヘムロックは俯いて口を開いた。
「先ほど師匠が言いかけていたことです。弱者を守るのが強者の義務というのは間違いなのでしょうか」
いつになくか細い声にクラーレは目を丸くし、しばらく黙ってから呟いた。
「私もそう思っていました。でも、魔王討伐より今の生活を選ぶ仲間や先立つ弟子たちを見ていて考えが変わったのです。強いからといって弱者を守る義務はない。今はそう思います」
「そんな、利己的な……」
「そうかもしれませんね。でも、弱い者がそれを理由に搾取されるのを許さないように、力ある者がそれを理由に生き方を制限されるべきでないと思うのです」
彼女は静かに微笑んだ。
「貴方は誰にも強制されず騎士の道を選んだ。私はそれを誇りに思います」
ヘムロックが困惑と喜びを顔に浮かべる。
「ゼンには選択肢がありませんでした。だから、これからいろいろなことを知ってその上で選んでほしいんです。世界と共に生きるのか滅ぼすのか……」
クラーレの髪を冷たい風がなびかせた。
***
密度の濃い薄桃色の霧と甘い匂いが漂っている。
「おい、ブス。その痣どうした」
「これは、ちょっとしくじったんだよ。いつも見張りなんていないから盗れると思ったら見つかって……」
気弱な少女の声に次いで何かを投げつける音が響いた。
「また盗みやがったのかよ! おれがろくなもんやってないみたいだろうが!」
「だって、そうでしょ……」
鈍痛が残る頭を揺すってゼンが目を開くと、短髪の女が絨毯の上に足を組んで座っていた。
「おっ、やっと起きたか」
「お前、修道院の……」
呻くように言ったゼンの声に歯を見せて笑う女、アルキルの大きく開いたシャツの胸元から、王都でオレアンが見せた図形と同じ刺青が覗いている。
その足元で、青痣のある少女が遠慮がちな視線でゼンを見た。
「くそっ……」
身を起こそうとしたゼンの耳元で鎖の音が響き、動きを制する。
壁から伸びた二本の鎖につながる手錠がゼンの手首を固定していた。
「動かない方がいいぜ。頭ぶち抜かれてたからな。やり過ぎなんだよ、お前は」
「だって、半端にやるとやり返されそうだし……」
少女が小さく声を上げた。
ゼンの周りに瓦礫やゴミに混じって擦り切れた女物の衣装や靴が転がっている。顔を上げると、鉄に透し彫りで何かの店名が記されていた。
「何なんだよ、お前ら……」
アルキルが眉間に皺を寄せて立ち上がる。背後に折り重なった何本もの白い足が見えた。
「何だって?
「女がどうやって女とガキ作んだよ……」
アルキルは急に表情を打ち消し、壁にもたれて座るゼンの膝の上に乗り上げた。
「おい!」
身をよじるゼンの身体に腕を回し、アルキルは胸に頭を押し付ける。柔らかい肉の感触に反して体温がない。
「いるんだよなぁ……確かにいる」
膝に乗ったままアルキルは無表情に呟いた。
ゼンはもがくのをやめると、わずかに顎を引く。
「目覚めてないだけか」
そう言った
「あっ、クソ!」
鼻先にまともに食らって吹き飛んだアルキルが床に転げるのを待たず、ゼンは素早く近くの瓦礫を引き寄せ、狙いを定めて蹴り上げた。
「カルミア!」
アルキルが鋭く叫んだ。
飛んできた瓦礫が直撃する寸前、虚空に穴が空き、巨大な礫をそのまま呑み込む。
「消えた?」
ゼンが呟いたとき、真上から降ってきた何が彼の頭を直撃した。
「痛ってえ……まぁ、一撃ずつで痛み分けか」
鼻血を拭ってアルキルが唇を歪める。
ゼンの額から垂れた血が落ちた先には、蹴り上げたはずの瓦礫が転がっていた。
「どうなってんだよ……」
アルキルは少女の肩を掴んで引き寄せ、ゼンに見せた。
「こいつは
垂直に飛んだそれを迎えるように暗闇に穴が空いて即座に閉じ、ゼンの目の前に再び空いた穴から木製の小さなボタンが転がり落ちた。
「
空間を抉り取ったような穴から、アルキルの周りに漂う甘い霧がたなびいて流れてきた。
「……俺に何の用だよ」
ゼンが呻いた。夢魔は少し距離を取って、足を組んで坐り直す。
「何って、決まってるだろ。おれたちは元から仲間なんだ。また組もうぜ、同盟を」
桃色の霞の中から女たちが現れて、ひとりは肩にすがり、もうひとりは膝に手を添える。
「陛下、おれも同じさ。
「手前、
ゼンは身を乗り出した。鎖が激しい音を立てる。アルキルは窘めるように手を振った。
「おれも会った訳じゃねえよ。
女の頭を抱いてアルキルは言う。
「おれを傘下に入れておけばこの世の女どもが全部陛下のものになったも同然。悪くないだろ? 」
アルキルは引き寄せた女の頰を舐めた。唾液が糸を引き、霧が濃くなる。
「……嫌だつったら?」
「殺す。お前と魔王陛下が癒着して殺せなくなる前にな」
ゼンの問いに夢魔がすかさず答えた。
「言うこと聞いといたほうがいいよ……」
少女が遠慮がちに口を開いたが、声と視線は鋭い。
「あんたの状況わかってる? 今より酷くなったら、勇者陣営はもちろん、魔族でもあんたの復活を望んでない奴らからも命を狙われる。どっかのろくでもない魔族に捕まるより、今ここで手を組んでおいた方がずっとマシだから」
「割り込むな、ブス」
アルキルが膝の上の女を突き飛ばして身を乗り出した。
「まあ、こいつの言ってることが正解だ。混戦になる前にせめて同族で仲良くしようぜ」
「無理だ、俺が今より魔王に近づいたら王都の連中に殺されるって話だからな」
ゼンが吐き捨てると、アルキルが声を上げて笑んだ。
「そいつらからも守ってやるよ」
ゼンは唾を吐いた。
「今、陛下は王都に飼われてるんだろ? 一緒にいた女とガキがお目付役ってところか。仲良くやってたみたいだけど、将来あいつらに殺されない自信あるか? 」
ゼンは顎を引いて夢魔と女たちを睨んだ。
アルキルが頬杖をついて言う。
「代わりに言ってやる、ないね。今、奴らは陛下を探してるだろうが、それが助けるためじゃなく、魔族と手を組んだ陛下を殺すためかもしれない。それが勇者陣営さ」
夢魔の目が赤く光った。
「陛下、よく考えろ。魔族の仲間は魔族だろ」
そのとき、アルキルの鼻から真新しい鮮血が垂れた。
「ねえ、あの、アルキル様、鼻から血が……」
少女が言った瞬間、轟音が鳴り響いた。
少女の悲鳴とともに暗い娼館に光が雪崩れ込む。
残響が突き刺す耳を肩で抑えながら、ゼンが光の方向を見た。
「ゼン、無事ですか!」
破れた扉の前にひと影がふたつある。
「クラーレ、ヘムロック……」
「気安く呼ぶな! 魔族に絆されていないだろうな!」
ゼンが笑い声を漏らして、
アルキルは手鼻で血を払って立ち上がった。
「お出ましかよ……お前ら、歓迎してやりな」
桃色の霧の中から無数の女たちが現れた。
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