夢魔館のシスター

 白亜の壁の向こうは、違法に増築されたバラックが道の中央まではみ出し、火傷か裂傷に覆われた腕のようになった貧民街スラムの光景だった。



 腐った果実と汚水の混ざる饐えた匂いにゼンは懐かしい不快を覚えた。


「市井を抜けた先に修道院があるそうです。事件の目撃者の女性に話を伺うことになっています」

 ふたりの弟子が支度を終えるまで煙草をふかしていたクラーレは、火を揉み消して蛇行する道のりを指した。



「なぁ、夢魔って何だ?」

 物乞いと押し売りの腕をすり抜けながら市場を進むクラーレの背にゼンは尋ねた。


「眠っている間に人間に取り憑き、精を抜き取り、悪魔の子を孕ませる魔族です。男性を襲う女型のものと、女性を襲う男型のものがいますが、今回は後者のようですね」

 ヘムロックは子どもに押し付けられた花籠を持て余しながら、声を張り上げた。

「夢魔は先の戦いでひとと魔族の子による一師団を作り上げた。口にするのも悍ましい俗物だが油断はするな」

 ゼンはヘムロックの手から花を奪って子どもに投げ返す。

「馬鹿正直にもらってんじゃねえよ、ふんだくららるぜ」

「貸しを作ったつもりか!」


 クラーレは歩みを止め、ふたりが追いつくまで待ってから再び歩調を緩めて再び進み出した。

聖騎士パラディンがいればよかったのですが、生憎彼は別の任務で……間に合えば射手ガンナーが合流するそうです」


「あんたらの仲間ってたくさんいるのか?」

 彼女は伏し目がちに否定した。

「それほどでもありませんよ。その上離反した者もいるのであまり多くありませんね」

「離反者?」

「今の人生で魔王討伐より大切なものを見つけた者たちです。家庭や仕事、平和な生活、失いたくないというなら無理強いはできませんから……正直、ジリ貧です」

 クラーレの黒髪が肩で跳ねた。

「軟弱な敗走主義者め、魔王討伐無くして何が平和か」

 ヘムロックの怨嗟を横目にゼンは肩を竦めた。



 市井の外れにある修道院は戦火の痕が大きく壁に残る、崩れかけの建物だった。


 中年に差し掛かったシスターが、柵が壊れて境目のわからない庭に三人を招き入れる。

「彼女が目撃者です」

 現れたのは私服に黒いヴェールを被った歳若い女だった。


「アルキルと申します……」

 彼女はそう言いながら、身を庇うように両手で自分の肩を抱いた。

「ご友人が失踪なされたときのことについて詳しく伺えますか?」

 クラーレが問うと、アルキルが頷く。

「一昨日の夜、明日の食料が足りなくて、友人と買い物に出たんです。市場はもうやってないから町外れの方に……そうしたら、途中で友人が誰かに呼び止められて、振り返ったらもういなくて……」

 彼女は声を詰まらせて、顔を覆った。

「修道院にいる女の子たちはみんな酷い目に遭って、そこから逃げてきたんです。なのに、どうして、また……」


 心痛をそのまま顔に浮かべていたヘムロックが前に進み出る。

「ご安心ください、王都騎士団が必ず解決してみせます! ご友人もきっと無事ですよ」

 アルキルは顔を上げると、急に彼の胸に飛び込んだ。クラーレが声を出さずに「あら」と呟く。

「本当に? 絶対ですか……?」

 ヘムロックは顔を赤くして狼狽えながら、上ずった声で答えた。

「本当です。ですから、年若い子女がそのような……」

 ゼンが大げさに鼻で笑った。

「何がおかしい!」

 やっとのことで彼女を引き剥がしたヘムロックが怒鳴る。


 クラーレは口元に手を当てて苦笑すると、真顔を作って問いかけた。

「そのご友人が消えた場所はどちらですか?」

「ここから坂を上がった廃墟です。昔娼館だった場所……私、怪しいひとを見ました。胸に見たことのない刺青がありました」



 三人は協力への礼を言って修道院を去った。

 その姿を見つめるアルキルの肩をシスターが優しく叩く。

「辛かったでしょう。私にできることがあれば何でも言いなさいね」

「ありがとうございます、じゃあ……」

 目に涙を浮かべていたアルキルは頷いてから、急に表情を打ち消すと黒いヴェールを脱ぎ捨てた。

 煤けた布の下から少年のように切り詰めた砂色の髪が零れる。


「脚出しな」

 シスターは弾かれたように顔を上げると、言われるままに足首まであるスカートの裾をたくし上げた。

 アルキルが一度も日を当てたことがないような白い腿を掴むと、極彩色の紋様が光を放った。


「まだ消えてねえな……お前ら、出てこい」

 修道院の中から虚ろな表情の女たちが続々と現れる。アルキルは肩越しに彼女たちを一瞥して言った。

「あの白髪をふたりから引き剥がせ。奴が魔王だ」



 ***



 市場に戻った三人は、再び商人たちの群れに囲まれていた。


「夕方は娼館の跡地だったという廃墟に向かいましょう、それまでは引き続き調査をしたいところですが……」

 クラーレの声を掻き消すように、現れた女たちが口々に売り文句を謳いながら商品を押し付ける。

 ひとりずつ丁寧に断ろうとするうちに、見る間に取り囲まれたクラーレとヘムロックを眺めながら、ゼンは肩をすくめた。


「育ちがいいのも考えもんだな、今度は助けねえぞ」

 ふたりが黒い人波に埋もれていく様子に舌打ちしたとき、袖を何度も引く小さな手に気がついた。

「俺は金なんかねえぞ」

 汚れた細い指の持ち主を見ると、乾燥した麦のような髪を三つ編みに垂らした少女がゼンを気弱な表情で見上げていた。その口元には小さな青痣がある。

「ねえ、あのさ、王都の騎士なんだよね?」

「どうだかな」

 ゼンが振り払おうとすると、少女は見た目にそぐわない力で腕を引いた。

「聞いてくれないと、魔王ってことバラすよ! いいの?」

「お前、誰だ……」

 目を見開いたゼンの耳元で少女は言った。

「あの、安心して、仲間だから。助けてほしいの」



 ***



 次から次へと現れる女たちを掻い潜りながら、クラーレは溜息交じりに呟く。


「これでは聞き込みどころではありませんね。ゼンなら上手くいくかもしれませんが……」

 ヘムロックは眉をひそめると、両手を掴む女たちを振り払ってクラーレの前に出た。

「この方に触るな、恐れ多いぞ! 」


 僅かに空いた空間に滑るように逃げ込み、ヘムロックは師に向かって得意げな顔をする。

「あんな男なんかいなくても困りませんよ!」


 クラーレは苦笑して乱れた襟を正した。

「彼が気に入りませんか?」

「当然です!あの男は騎士の精神を持っていません。修道院で話を聞いても哀れみひとつ見せない。王都の民としても師匠の弟子としても不適合です!」

 肩をいからせたヘムロックに視線を投げて、クラーレは言った。

「私たちは望んで勇者と共に騎士として戦う道を選んだ。でも、彼は他に選択肢がありませんでした」

 ヘムロックは口ごもる。弟子の肩に手を置いてクラーレは静かに尋ねた。


「ヘムロック、騎士の精神とは何だと思いますか?」

「弱き者を悪から守ることです! それが強者の義務だ。師匠もそうお思いでしょう?」

「昔はそうでしたが、今は違うかもしれません……」

 ヘムロックは戸惑いの表情を浮かべた。

 言葉を続けようとしたクラーレはふと後ろを振り返り、雑踏を見つめた。

「そういえば、ゼンはどこへ?」



 ***



 少女の後に続いて、貧民街スラムの入り組んだ路地を駆けながらゼンは声を張り上げた。

「なぁ、お前誰だ? 助けてって何からだよ」

「いいから早く! 追われてるんだよ!」

 積み上がった木箱が倒れ、下から一斉に鼠が飛び出す。

「くそ、足が速えな! 仲間って、お前が射手ガンナーか?」

「え? あぁ、うん。そう、あたしが射手ガンナー! 合流しようと思ったけど魔物に追われてるの!」

 少女が地面で眠っていた浮浪者を踏みかけ、慌てて避ける。非難の声を背にゼンは足を早めた。

「何で俺が魔王ってこと知ってんだ」

「他の仲間から聞いたの!」

「他の仲間?」

「 こっちにいるから、飛び越えて!」


 少女の姿が消えた。目の前で道が途絶え、腐りかけた木の柵の向こうに一段下に作られたバラックの屋根の継ぎ接ぎが見える。


「マジかよ。あぁ、くそっ……」

 ゼンは逡巡してから、柵に手をかけて飛び越えた。

 身体が宙に浮く。

 下方に先に飛び降りた少女がゼンの方を向いて、指を構えているのが見えた。

「ごめんね」

 考えを巡らせるより早く、ゼンの後頭部に衝撃が走った。


 飛んできた何かに撃たれたゼンはバラックに叩きつけられ、けたたましい音を立てて転がった後、屋根に空いた穴に墜落した。

 土煙にむせながら少女は穴に近づいて見下ろす。

「やらないと、あたしがまた引っ叩かれるから……」

 資材の山の上に意識を失ったゼンが倒れていた。


「後さ、知らない奴に自分たちのこと教えない方がいいよ。射手ガンナーが誰だか知らないけど、こうやって騙されるから……もう聞こえてないか」


 騒ぎを聞きつけて顔を出した住民たちを一瞥し、少女は穴に飛び込んだ。

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