師匠と弟子
真っ黒な闇が底のない湖のように広がっている。
その中を白い影が揺蕩うように揺れて、視界に光の穴を開けた。
光の中に細い指が見える。
ゼンが飛び起きると、女が紫煙をくゆらせてベッドの脇に佇んでいた。
「気がつきましたか」
包帯に包まれた指で、短い煙草を持った女がゼンを見下ろす。窓から射す月明かりが女の顔に光の波を映した。
「ジニト……俺と一緒にいたあいつは……?」
ゼンの喉から掠れた声が漏れる。
「死んではいません。身体は、ということですが」
「どういうことだ……」
「意識を取り戻していません。これからも眠り続けるでしょう」
「それって、いつまでだよ……」
「わかりません。何日か何ヶ月か何年かも」
女は沈鬱な表情で首を振った。
「貴方の友人は器として選ばれ、魔王を入れる容量を空けるために魂を削られたんです。魔王を殺せば元に戻るかもしれませんが、そうも言えなくなりました」
「何で……」
女はゼンを真っ直ぐに見つめた。
「魔王は今、貴方だからですよ」
身を起こして詰め寄ろうとしたゼンの肩を女が押して再び寝かす。
ゼンのはだけた服から覗いた胸元に刺された傷はない。
「魔王って何だよ、今俺はどうなってんだ」
女はベッドの脇に置いた灰皿に煙草を押し付け、静かな声で言った。
「魔王は伝説の存在ではない。実際に遥か昔この地にいた、全ての魔物を統べる最悪の脅威です。今再び何者かが魔王を目覚めさせ、魔物による統治を望んでいる。私たちはそれを食い止めるために戦っていました。ですが、間に合わなかった」
女は新しい煙草を抜き出し、マッチで火をつけた。
「隠し事はなしにしましょう。ここはこの病室で、貴方は六日と半日眠っていました。その間に私はありとあらゆる方法で貴方を殺そうと試みました」
ゼンは小さく息を呑んだ。
「それでも、貴方はまだ生きています。魔王は不死身の存在ですから、そうなったのでしょうね」
沈黙の中を女の吐く紫煙が流れた。
「今話していて感じたことですが……貴方はまだ完全に魔王になっていないと思います」
「魔王つったり魔王じゃねえつったりどっちなんだよ」
「どちらにもなり得るということです」
女はゼンの手を取った。
「私に貴方を殺す手段はない。勇者がいれば違うかもしれませんが、少なくとも私は人間の貴方を殺したくありません」
包帯の中の指から血が滲んでいる。
「じゃあ、どうすりゃいい……」
「貴方はどうしたいですか?」
ゼンの脳裏に聞き慣れた声が浮かんだ。
また死んだ方がマシだって思ってる?––––
「そんなの、わかんねえよ……」
女は白い顔に微笑みを浮かべた。
「これから貴方は勇者と魔物、両方の陣営から命を狙われることになります。王都に行って住民として登録されれば、庇護を得ることができますが、貴方には戸籍がないようですね」
ゼンは目を逸らした。
「結局どうにもならねえってことか?」
「方法がひとつあります」
女は指を立てた。
「私の弟子になりなさい」
窓から死人の肌に似た温度の夜風が吹き込んだ。
「王都にある大昔の制度で、そのまま廃止されていないものを抜け道に使います。王都に仕える軍人と師弟関係を結んだものは、契約が切れるまで無条件で庇護を約束されます」
「弟子……?」
「隠し事はしないと言いましたね。訳あって、私には寿命があと一年しかありません。その一年間で、私は貴方の中の魔王を抑え、ご友人を救う方法を探します。私が死ぬとき、どうしたいかまた考える機会があるでしょう。それまでの執行猶予期間だと思って、いかがですか?」
ゼンはしばらく口をつぐみ、女の手を振りほどいて言った。
「ジニトは今どこにいる?」
「ここから東に行った先の療養施設の一室を買い取りました。彼はそこにいます。代金は一括で五十年分払っています。私が死んでも途中で追い出されることはないでしょう」
「五十年か……」
ゼンの喉から乾いた笑いが漏れた。
「いいぜ、一年間弟子になってやる。それまでに何とかならなきゃ、あんたが死んだ後、魔王にでも何でもなって全部めちゃくちゃにしてやるからな」
女は目を細めて笑うと、ゼンに手を差し伸べた。
「私は
「ゼン。ただの墓暴きだ」
ゼンはクラーレの手を握った。包帯の下に血豆が固まった、鉄のような感触がある。
「師匠っていうならなぁ、病院で煙草吸うなよ……」
「これは痛み止めのようなものです。れっきとした医療道具ですよ」
暗闇に包まれた病室の奥で、煙草の煙だけが白くたなびいていた。
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