死霊と死に損ない

 暗雲と死肉をついばみに来た鳥たちが黒く染める空を、赤い閃光が貫いた。


 ぬかるんだ泥を銀の鎧に包まれた脚で跳ね上げながら駆けていた女は一瞬顔を上げ、暗褐色の空水を睨んだ。

「遅かった……」

 女は腰の鞘から剣を抜き、森の中を再び駆け出した。



 ***



 視界が揺れる。

 黒い雨が降りしきっているように、どろりとした何かが垂れ落ちて、まともに前が見えない。


 目の前にローブをまとった男と、それを取り囲む集団がいる。皆、目を見開いてこちらを見つめていた。

 その足元に地に伏せた、ひと影が見える。


 ゼンが手を伸ばすと、視界の端に黒い岩石につつまれたような五本の鉤爪が指を広げた。



 ***



「始まった……」

 男は目を見開いたまま、口元を震わせて歓喜の声を上げた。


 棺に手をかけた墓暴きの青年を、一瞬にして闇が呑み込んだ。

 今、彼にまとわりつく黒い油を煮詰めたような粘液は、歪に隆起しながら徐々に凝固し、禍々しい鎧のように全身を覆い始めた。


「成功したぞ……魔王陛下の再誕だ……!」


 男は熱に浮かされたように、黒い怪物に歩み寄った。ひざまづいた男に倣って、死者たちがぎこちなく怪物の足元に屈み込む。


「陛下、お分かりですか? 貴方の眷属、使いインプです」


 かしずいた男の頭上に、怪物から滴る黒い液体が降り注ぐ。それすらも賜り物というように、男は髪を濡らして頰に垂れる黒い水を受け止めた。


「すぐに死霊術師ネクロマンサー様にお伝えします。それまでにお望みがあれば何なりとお申し付けください」

 怪物は頭をもたげて低く呻いた。

 男が王命を聞くため、一歩にじり寄る。


「返せ……」


 男が顔を上げた瞬間、男の隣に膝をついて座していた死者を、怪物の鉤爪が脳天から足まで真っ二つに引き裂いた。


 萎びた色の血と臓物が宙に散らばり、死体が崩れ落ちる。

 飛び散った肉片が男の頰を打ち付けた。

「陛下……?」



 怪物が咆哮を上げた。地を破るような叫びに一斉に鳥たちが飛び立つ。

 その響きに反応して身を起こした死者の頭上に拳が叩き込まれ、首から上が赤い煙になって霧散した。


「陛下はご乱心か!」

 男は腰の剣に手をかけて一瞬躊躇い、死者たちに鋭く命じる。

死霊術師ネクロマンサー様がいらっしゃるまで陛下を抑えろ。やっと成功したんだ。玉体に傷はつけるなよ」


 死者たちが波打つように一斉に構える。

 卵黄に似た光のない瞳が眼前の怪物を捉えた。

 怪物がゆっくりと黒い鉱物に覆われた顔を上げる。


 それを合図に一体の死者が両手と口を広げ、怪物の喉元に飛び込んだ。

 次の瞬間、袈裟斬りに振り下ろされた爪が死者の肩から腹まで切り落す。

 崩れた身体から粘った血の筋が虚空に赤い糸を引く。



 鉤爪が次いで飛びかかってきた死者の顎を掴み、下顎を一気に引きちぎった。

 目標を失った死者の上顎が虚しく宙を噛む。

 その後ろから迫る影を振り返りもせずに掴むと、均衡を失って倒れこむ死者にぶつけ、怪物の腕が二体ともの頭蓋を砕いた。


 足に取りすがった死者の背を黒い脚が踏み砕く。脊椎と軟骨が混ざるくぐもった音が響き、死者が苦悶の表情を真似るように口を開いた。

 怪物は死者の背から上げた脚を頭に振り下ろす。歪な鎧の靴底から、泥に混じって脳漿が飛び散った。


「返せ……」

 引きちぎられた肉塊になって辺りに散った死者たちを踏み越え、怪物がゆっくりと男に歩み寄る。



「あの餓鬼の意識がまだ残っているのか」

 男は目を細めると、踵を返して背を向け、素早く駆け出した。

 怪物が呻き、地を蹴って跳躍する。

 逃げた男の後ろ姿に飛びかかろうとした瞬間、男がローブの裾を翻して向き直った。

 怪物が縛られたように動きを止める。


 男は人形のように動かないジニトの身体を抱え、首元に剣を突きつけていた。


「どうする、こいつごと私をすり潰すか?」

 怪物が全身を震わせた。


「とっとと消えて陛下にその器を譲れ。そうすれば、この餓鬼は助けてやってもいい」

 黒い鎧の中から、金属を擦り合わせるような悲痛な声が漏れる。

 馬車から降りてきた二体の死者が怪物に迫った。


「お前ら、抑えろ」

 男の声に応えて死者たちが進み出た。その一体の首が、身体の動きに出遅れたようにわずかに後ろにずれる。

 男が茂みから現れた細い影を睨んだ瞬間、死者の首が宙に飛んだ。



 細身の刀身と銀の鎧が鈍い光を反射する。

 闇と同化する黒髪を腐臭の絡んだ風が揺らした。

「女……?」

 女は腰の鞘で背後から襲いかかる死者の腹を打ち、弓なりに身を反った死者を腰から上で両断した。


「終わりです、その子どもを離しなさい」

 女は抜き身の剣を突き出し、男の前に進み出た。


「今ならまだひと太刀で済ませます。呪い殺されるより安楽なことはわかるでしょう」

 男はジニトの首に強く剣を押し付けて笑った。

呪術師ソーサラー……死に損ないか」

「そういうお前は、死霊術師ネクロマンサーではありませんね」


 地についたローブの裾から男の影が伸び、鞭のようにしなった。

劣等魔インプか!」

 女の剣が硬質な音を立てて弾く。

「あの方がこんな辺境に来るものか」


 女は攻撃を凌ぎながら、立ち尽くして動かない、禍々しい鎧に全身を覆われた黒い怪物を盗み見た。

「まさか……」


 女は影の鞭を叩き落とし、一寸間を置いてから剣先をわずかに下げた。


「私が剣を捨てたら、彼を離しますか?」

 男は喉を鳴らして笑う。

「腐っても勇者陣営の端くれか。いいだろう」

 女はその言葉と同時に剣を地面に放った。

 男の影が這うように闇の中を泳ぐ。

 そのひっ先が上を向いた瞬間、男は呻いて剣を取り落とした。


 血走った目で睨んだ先に女が立っている。


 女は籠手を外した己の片手に釘を突き立てていた。

 何かに引き毟られるように、女の人差し指から爪が剥がれる。

「侮りましたか。私は勇者ブレイブでも戦士ソルジャーでもない、呪術師ソーサラーですよ」

「お前……」

 女の中指の爪が落ちるのに合わせて、男は激痛に身を反らせた。ジニトの身体が男の腕から滑り落ちた。



「爪五枚を代償に呪殺を打つ。とどめを刺しなさい!」

 見えない何かに操られるように男の身体が宙に浮かぶ。

 女の片手の指がまとめて剥がれ落ち、男の右手、左手、右脚、左脚から血が噴き出した。


 男の目がぐるりと反転し、白目も黒目もない真っ赤な眼球が光を放った。

「死に損ないに魔族が殺れると思ったか!」


 男の身体を突き破った無数の黒い鞭が、女に向かって闇の中を走る。

 女が剣を拾う寸前に、飛び出した怪物の全身を鞭が貫いた。



 黒い血が噴出した。

 絶叫と共に怪物の鉤爪が使い魔の身体に食い込む。

 二体の魔物の叫びが木々を震わせた。

「陛下……」

 怪物が使い魔の身体を引き裂いた。

 血の代わりに黒い塵が裂け目から奔流になって迸る。


 怪物の両の鉤爪に、干からびた死骸とローブの布地だけがまとわりついて風に揺れた。


 怪物はそれを払って、女に向き直り、よろめきながら歩み寄った。

 女が無言で剣を構える。


 怪物は女の脇をすり抜け、数歩進んで膝をついた。


 女が絶句したまま振り向くと、怪物は這うように身を起こした。

 剣の先が怪物に狙いを定めてかすかに揺れる。


 怪物は地に伏したジニトの元に這いずり、左側に身を寄せるようにして、重たい音を立てて倒れた。


 鎧が砕ける音が響き、黒い泥に濡れた青年の身体が現れた。



 女はふたりの元に歩み寄り、目を伏せると、身を屈めてゼンの顔についた汚れを拭った。

 降り出した雨が枝葉を伝って、地に広がった血と泥を洗い流した。

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