馬鹿と魔王

 暗くなり始めた空の端をちぎったような黒い鳥たちが、北の墓地の上を飛び交っている。


「見てよ、ゼン。子どもの死体かな。棺が半分の大きさしかない」


 抉れた土の中から突き出した直方体をシャベルの先で突いて、ジニトが言った。

 ゼンが引き上げると土煙が舞い、重たげな音を立てて黒塗りの棺が全身を現す。

「それにしては重いぜ」

「たぶん腐った汁が出ないように中に鉛を塗ってるんだ。聞いたことある」

 ゼンは慣れた手つきで、持ってきた麻縄を棺に括り始めた。



 ふたりに両端を引きずられた棺は悲鳴のような音を立てて、泥を削った。

「金持ちの死体かな」

「さあな」

 一歩ずつ闇の濃さが増す上空を眺めて、ゼンは言った。


「また死んだほうがマシだって思ってる?」

「生きてりゃ金がかかるのに、死ねば金になるからな」

 ジニトの白濁した左眼がかすかに瞬いた。


「お前は何で連中が死体に金払うかって考えたことあるか?」

「金がもらえれば何でもいいよ」

「なぁ……生きてて何したい?」

 ジニトは溜息をついてしばらく黙り込んだが、沈黙に耐えかねたように口を開いた。


「父さんか母さんに会いたいかな」

「目が見えないからってお前を捨てた親に?」

「うん、見えないけどいろいろできるけどどうですかって聞いてみたい」

「いろいろって?」

「パチンコで金持ちのイヤリングを撃ち落とすのは得意だし」

「今日しくじったくせに」

 ジニトは喉を鳴らして笑った。



 針のように並んだ木々を抜けたとき、見慣れた馬車と山賊風の集団の他に、黒いローブの男が立っていた。


 学士のような服装と一点の汚れもない肌が、この街の住人ではないと語っていた。

 年は若く、自分と変わらないとゼンは思う。


 ジニトが息を飲む音に合わせて、鳥たちが一斉に飛び立った。

「警戒してるのか?」

 男が場違いな微笑みを浮かべた。

「君たちの雇い主だ。今まで彼らを介して何度も金のやり取りを」

 男が背後の集団を顎で指す。彼らは答えずに立ち尽くしたままだった。


 周囲に腐臭が漂っている。棺からではない。辺り一帯に死体が転がっているような臭気に、ゼンは眉を顰めた。

「言われた通り持ってきました!」

 ジニトが声を張り上げると、男は鷹揚に笑う。

 男が棺に歩み寄ったとき、ローブの下から腰に帯びた剣が覗いた。


「あの、何ですかそれ」

 棺を見聞し始めた男がゼンの声に顔を上げる。

「棺に入ってるんだから死体に決まってるだろ」

「何で死体なんか集めてんのかなって」

 ジニトが不安げに目を泳がせた。


 男は俯いて額を掻くと「見るか」と、聞いた。


 答える前に男の指が棺の蝶番を外した。

 泥が鱗のように剥がれ落ち、隙間から色がついて見えるほど強い死臭と生暖かい空気が溢れ出す。


「何だこの死体……」


 半分開いた棺の中には干からびた木の幹のようなものがあった。

 線状の凹凸が肋骨の輪郭をなぞるように続いていて、人間の胸部だとわかる。

 中央、ちょうど心臓の部分に赤く脈動する、果実のように腫れ上がった楕円形の膨らみがあった。


「ただの死体じゃない。魔王の亡骸だ。これで全部じゃなく、ほんの何分の一かだけれど」

 青ざめたふたりに向かって男が歯を見せて笑う。

「魔王って、何百年も前の伝説の……」

 ジニトが震える声で言った。

「魔王も勇者も伝説じゃない。遥か昔にこの地にいた存在だ」

 男が目を歪めて笑い、裾についた泥を払った。


「もっと知りたいか?」

「いや、もう、大丈夫です」

 ゼンは手を振って一歩後退る。男は息をつくと、足音もなくゼンに歩み寄った。

「がめつくて馬鹿な死体泥棒だと聞いてたけど、君はちゃんと考えてるんだな」


 腐臭が強くなる。

「自分の仕事が何なのか、自分の頭でちゃんと考えてる。馬鹿じゃない」


 微笑む男の肩越しに見える、普段は真っ先に棺に取り付いて運び出す山賊たちが、木の影のように直立したまま動かない。


 ざわつく感覚にゼンは右側に視線をやったが、ジニトは不服そうな表情を浮かべているだけだ。

 片方が雇い主に気に入られ、報酬が均等でなくなるのを危ぶんでいるときの顔はどの貧民も似通っている。


「ありがとうございます。別に……」

 ゼンが言い淀んだ瞬間、男が低く身を屈めた。

「でも、こっちが必要なのは馬鹿の方なんだ」


 男が一瞬で間合いを詰め、素早く何かを突き出した。


 ゼンの右胸に焼けた鉄がねじ込まれたような熱が走る。男の突き刺した剣から引き抜かれ、胸の傷口から血煙が噴き出した。


「ゼン!」

 ジニトの叫びと共に、ゼンは地面に倒れた。


「魔王の器なんだ。空っぽじゃないと」

 男は剣についた血を指で拭う。


 足音が響き、茂みから一斉に人影が現れ、周囲を取り囲んだ。

 影は歪で、ある者は両腕を欠き、ある者は頭部が抉れ、ある者は脇腹から胸まで巨大な穴が空いていた。

生き死人アンデッド……」

 呟いたジニトを亡者たちが地にねじ伏せた。


 上体を起こそうとしたゼンの背を踏みつける。内臓が迫り上がる感覚にゼンは血を吐いた。

「連れてこい」

 死者たちが棺の前にジニトを放り出す。

 男は彼の蒼白な顔を無造作に掴んで、左右の色の違う目を見た。

「何だ、片目が潰れてるのか。不良品だな」


 暗くなる視界の中で、吊り上げられたジニトの足がもがくのが映る。

 呼吸のたび空気が刃のように傷口を刺した。


「ふざけんなよ……」

 声の代わりに、血の混じった反吐がゼンの口から溢れ出した。胃液が泥と混じって黒い糸を引く。

 内臓が引き摺られるような吐き気にもう一度嘔吐し、吐瀉物の中にゼンは倒れこんだ。

「頑丈だな。こっちにしておけばよかったが、もう遅いか」

 ジニトの悲鳴が響いた。


 血反吐と泥の中に爪を立てる。

 こんな死に方か。

 死んだ方がマシだと思ってはいた。

 でも、こんな風に死ぬのか。


 鈍い音がして、黒い何かがゼンの前に投げ出される。

 泥に汚れた友人の顔から血の気が失せていた。

「ゼン……」

 横たわったジニトの右目から涙が一筋流れ落ち、白く白濁した左目と頰を伝って落ちる。

「お前までこんな風に死ぬのかよ……」


「始めるぞ」

 頭上から男の声が響いた。


 ゼンは土を掻き毟って、身を起こした。

 前に進むたび、冷えた身体から生温かい血が命を絞り尽くすように落ちるのを感じる。

 男に倣って、馬車から次々と呪具を取り出す死者たちはゼンに気づかない。


 ゼンはわずかに開いた棺に手を伸ばした。

 鉛の貼られた蓋に手をかける。


 死骸の乾いた肌に触れた瞬間、赤く蠢く心臓部を突き破って五本の指が現れ、ゼンの手首を掴んだ。

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