女と貧民

 街に戻ると、広場では擦り切れた布の上に品物を広げただけの朝市が始まっていた。



 果物に集る蝿を払いながら、ゼンは歪に増築された居住区の上に下がる垂れ幕を見上げた。


“ようこそ、伝説の街! 勇者の旅の最期の地へ”––––


「こんなもん見に来る奴なんかいねえのにな」

 呟いたゼンの右肩をジニトが叩く。

 彼が指差した先を見ると、朝市を行き交う人々の中に見慣れない影があった。


 背を向けて佇む、長い黒髪の女は、紺の外套の下に上質な銀で造られた細身の鎧を纏っている。

「すごい、本物の銀だ。王都の兵士だよ。何でこんなとこにいるんだろ」


 ジニトはそう言いながら、服の下から取り出した手製のスリングショットにどこかで拾った鏃の欠片をつがえる。

「馬鹿。やめろよ、斬り殺されるぞ」

「いけるって。あの耳飾りだけで今日の稼ぎと同じくらいになる」

 ゼンが止める間も無く、鏃は一直線に女の横顔めがけて放たれていた。


 癖のある黒髪が風圧で揺れる。

 女は片手に果実を持ったままもう片方の手を上げると、背を向けたまま、人差し指と中指で鏃を挟んで受け止めた。


「うわっ、まずい」

 女が振り返るより早く、ジニトがゼンの腕を掴んで駆け出した。


 雑踏を抜けて物陰に飛び込むと、ゼンは息を切らせたジニトの尻を蹴り上げた。

「馬鹿が」

「顔見られたかな。ゼン、頼むから確かめてくれよ」

 ゼンは舌打ちをして、人々の肩の間から様子を盗み見た。

「こっちは……見てねえな」

「本当? 何してる?」

「果物の皮剥いてる。お前が投げた矢使って」

 ジニトは目を見開いた。

「普通、自分のこと狙った矢使わないよね……」

「王都の金持ちは頭おかしい奴ばっかりってことだろ」

 もう一度市場の方を見ると、女は既に姿を消している。



 広場の中央の水場でゼンは頭から水をかぶった。


 土が茶色の糸のように解けて、水を濁らせる。向かいで馬に水を飲ませていた老人が顔をしかめた。

 泥が落ちて、擦り切れた手の平の傷が赤みを増す。


「そちらは馬用では?」


 両手にすくった水を飲み干したとき、頭上から女の声が降ってきた。


 顔を上げると、すぐ隣に先ほどの鎧の女が立っている。

 ゼンは飛び退いたが、女の光を透かした薄茶色の瞳には怒りも敵意もなかった。


「……知ってるよ、ここの人間だからな」

 女は微笑むと、わずかに視線を上げた。白い頬を縁取る髪が跳ねる。

「勇者の旅の最期の地の、ですね」

「そんな伝説のために来る奴なんかいねえよ。今じゃもうただの貧民街だ」

「伝説ですか」

 女の瞳がゼンを捉える。

「確かにこの地に来る人間は、観光が目当てではないようですね」

 ゼンが答える代わりに、水を吸った髪から雫が落ちた。


「最近、死体ボディ泥棒スナッチが頻発していると聞いています。私はその調査で来ました。何かご存知ですか?」

「知らねえ……けど、ここの人間なら金もらえりゃ何でもやる」

「墓暴きでも、ですか?」

「死人より生きた人間の食い扶持のが大事だ」

 女は首を傾げてみせた。


「盗品や薬物ならともかく、死体に金銭が発生するのを疑問に思いませんか。その上、各地で生ける屍アンデッドの被害も多発しています。回り回って自分たちの危機に繋がると警戒するのが普通ではないでしょうか?」

「都会の金持ちの発想だな……」


 ゼンはもう一度頭から水を被って、女を見た。

「なあ、死ぬほど腹が減ってるとき、植えて一年経てば大量の飯が獲れる種ひと粒と、焼いたパン一個だったら、どっち取る?」

「パン、ですね」

「そういうことだ」


「ゼン、また仕事だって!」

 声の方向を見ると、駆け寄ってきたジニトが女を見とめて、慌てて足を止める。

「馬鹿野郎……」

 ゼンは溜息をついてジニトの元に向かって左側に立った。


「もうひとつ聞いてもよろしいですか?」

 女の声に視線だけ返す。

「先ほどから、いつも貴方が左側に立っているようですが、何か決まりがあるのでしょうか」


「やっぱりさっき気づいてたんだ……」と、ジニトが呟く。

「別に。コイツの左目が見えないからこっちに立ってるだけだ」

「そうでしたか」


 女はふたりに歩み寄ると、外套の下から朝市で買った果実を取り出し、両手でふたつに割って差し出した。

「お話ありがとうございました」

 女はそう言って頭を下げると、市場の方へ去って行った。


「馬鹿力だね……」

 ゼンは女の背を見つめたまま、ジニトの頭を小突いた。

「で、仕事だって?」

「そう、今夜」

「また墓暴きかよ」

「北の墓地だってさ」

 ジニトは四本の指を見せた。

「でも、報酬は今朝の三倍」

 ゼンは立てた小指を掴んで曲げさせる。

「それじゃ四倍だ」



 女は高く積み上がった果実の奥を覗いて、佇む店主を見た。

「品物を積み上げるのは何か意味があるのですか?」

「こうした方が多く見えるだろ」

「そうですか」


 店主が苦笑した。

「観光かい?」

「風土の調査です」

 女は飛び交う蝿を払って問いかけた。

「勇者の旅の最期の地とはどちらにあるのでしょうか」

「北の墓地だ。気をつけなよ。夜には未だに勇者を恨んでる魔物たちが出るって噂だからな」


 女は目を細めて、鎧の腰から下げた錆びた釘にそっと触れた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る