Episode Final Ma partenaire est une étrangère

 結局、マーシャが家に帰ってきたのは、一月三日の朝だった。


「どうしてあの時、すぐに追いかけてくれなかったですか」


 怒ったような、ねたような表情のマーシャが無言のまま家に入り、リビングのソファに座った開口一番の台詞がそれだった。おおよそ五日前、ほぼ着の身着のままで飛び出して行った割には、マーシャの身なりはこざっぱりとしており、化粧などはしていないものの、顔色も特に悪くなかった。


「お前、アキコとか言ってた友達のところに転がり込んでいたんだろう?」


 俺の言葉に、マーシャが愕然がくぜんとした表情を浮かべて小さく叫んだ。


「なっ……どうして分かるですか!」


「おいおい、俺の本業は探偵だぞ? プロを見損なってもらっちゃ困る」


 そう言って笑ってみせたが、例のスマートフォン用アプリソフトのことは黙っておくことにした。


「そう言うコースケは、一体何をしてたですか」


「……今までと同じ日常だったよ。気楽なものさ」


 デスクの長引出しに入れてあった角二サイズの封筒を取り出し、マーシャの目の前のテーブルに置いた。


「何ですか、これ?」


「お前のものだ、受け取れ」


 マーシャはおずおずと封筒に手を伸ばし、中身を見て目を丸くした。


「ちょっ……コースケ、見たことないぐらいのお金の束、四つも!」


「この間の仕事の報酬だよ。半分は元々のお前の取り分で、もう半分は陳さんからお前への特別報酬だって渡された分だ」


 マーシャは唖然とした表情で、じっと封筒の中身を見つめていた。俺は言葉を続けた。


「それからな、マーシャ……クエとか言ってたお前の友達、ひとまずは無事に帰国できることになったそうだぞ」


「えっ?」


「どうやら玲芳リンファンと一緒に捕らえられていた娘のうちの一人が、そのクエって子だったらしいな。今回の事件の被害者のうちの一人ってことで、他の者達と一緒に、人道的見地に基づく緊急帰国措置ってのが認められたそうだ」


 ちなみに、陳さんから漏れ聞いた話によると、緊急帰国措置に係る費用は、全額日本政府持ちとなったらしい。


 日本の外交施策の一環として、対外的に恩を売っておきたいといった思惑もあるのだろうが、その一番の理由は、今回の一件に関するアフターフォローなども含め、日本語を理解出来る外国人被害者との接点を維持し続けることで、彼らをそれぞれの母国における日本政府への情報提供者に仕立て上げたいのだろう――というのが陳さんの推測だったが、当然ながらそのような話が表沙汰になるはずもなく、そして俺にもマーシャにも全く関係がないことだった。


 マーシャは一瞬呆然としていたが、俺の言葉の意味を理解すると、徐々に満面の笑みを浮かべてみせた。


「そうだったんだ……クエ、本当に良かった」


「ああ。お前は立派に友達を助けたんだ、その点は誇っていい」


 その後の言葉を口にするまでは、少しの時間を要した。


「それに、だな……この間は、俺の言い方が悪かった。お前がいてくれたおかげで、玲芳も無事に助けることが出来た。だから、その……お前は今回、よくやってくれたよ。ありがとう」


 陳さんに言われた一言を実行に移すのが、これほどまでに難しいとは思わなかった。


 マーシャはみるみるうちに喜色満面の笑みを浮かべ、軽く胸すら反らしてみせた。俺は一つ咳ばらいをし、更に言葉を続けた。


「だけどな、マーシャ……やっぱりお前、さっさとこの家から出ていけ」


「……は?」


 急転直下、一瞬にしてマーシャの声色が真冬のシベリアの寒気並みに下がった。


「ちょっとコースケ、それ、どういう意味ですか?」


「前にも言ったが、お前は堅気かたぎの娘だ。本来だったら、俺と一緒にいちゃいけない人間だ」


「……」


「それにな……お前が一緒だと、こっちの勘が色々と狂ってくる」


 俺は頭を掻きながら、小さくため息をついた。


「それだけの金があれば、当面の生活費は何とでもなるだろう。上手くやりくりすれば、大学を卒業するまで、ほとんど働かなくても良いかも知れない。明日から世間は仕事始めだ、早速新しい部屋を探せ。保証人が必要だったら、それぐらいは俺が」


Нетニェット


 マーシャがきっぱりと、力強い声で言い切った。


「どうしてコースケ、突然そんなこと言うですか」


 マーシャの抗議に、努めて冷静を装って答えた。


「お前をこの家に置くっていうのは、最初から期限付きの話だっただろう? その期限だって、お前に金が無かったから少し長めに取っていたが、今はもうその必要性もない」


「嫌です! 私、ずっとここにいたい!」


 マーシャが封筒をテーブルに放り出し、叫んだ。


「ここ出て行け言われるぐらいだったら私、こんなお金いらない!」


「聞き分けのないことを言うな、マーシャ」


 俺は腕組みをしながらデスクのへりに腰かけ、マーシャをじっと見つめた。マーシャも涙目になりながら、ぐっとこちらをにらみ返してくる。


「コースケ、ひどいです……あんなに色々と優しくしてくれたのに、何で?」


 やはりと言うべきか、とうとうと言うべきか、マーシャはぽろぽろと涙をこぼし始めた。


「アキコとはまだ会えるけれど、一緒には暮らせない。クエ、もうすぐいなくなる。コースケまでいなくなったら私、また独りぼっち。そんなの嫌!」


「……」


「コースケと一緒にお家でご飯食べて、買い物行って、ロシアの私の家にまで電話もさせてくれて……私、とても嬉しかったよ。日本に来てから初めてだった、こんなにいっぱい嬉しかったの」


 俺は右手で自分の頬を撫でながら、大きく息を吐いた。


「たまに遊びに来るぐらいだったら、別に構わない。でも、ここで一緒に暮らすのは駄目だ」


「何で!」


「もう分かっているだろう。お前は未来がある若い娘で、俺はいつ命を狙われるかも知れない人殺しの男だ」


 俺がそう言っても、マーシャは唇を噛みしめながら被りを振った。


「分からない! 分かりたくない! それにコースケ、人殺し違う!」


「目の前の現実を受け入れろ、マーシャ」


 マーシャはかたくなに俺の言葉を拒み、泣きながら言った。


「もしコースケがただの人殺しだったら、チェンサンからの仕事、あんなに悩んだりしない」


「俺があの時悩んでいたのは、単に俺が臆病だったからだよ」


「違う! コースケが臆病だったら、あんな仕事していないです。リンファンサン助けたコースケ、臆病なんかじゃない」


「分かったマーシャ、一度論点を整理しよう」


 俺は出来るだけ静かな声で言った。


「俺は仕事の内容次第で人を殺すこともあるし、誰から恨まれるかも分からないような男だ。そんな男と一緒に暮らすことが、お前は怖くないのか?」


 マーシャはこぼれ落ちる涙をぐいと拭いながら、俺と張り合うように言った。


「怖くない。だって私、コースケが本当は強くて優しい人なの知ってるから」


「どうしてそんなことが言える?」


「だったら何であの日の夜、私のこと助けてくれまシたか?」


「質問に質問で返すっていうのは、あまり良くない話の仕方だな」


 俺は自分の鼻の頭を、右手の人差し指で軽くこすりながら答えた。


「前にも言ったはずだ。お前がたまたま手にした幸運は、クリスマスセールの売れ残りだって」


 マーシャは静かに首を横に振った。


「それ、単なるコースケの照れ隠し。私だって、もう子供じゃないから分かります。知らない人助けて家まで連れて帰る、誰にでも出来ることじゃない」


「……」


「私、本当に助かったし、凄く嬉しかったよ。そんなコースケだから私、一緒にいた時間短くてもコースケのこと、大切な友達って思っています」


「俺が本当はお前をだましている、お前が言うところのなのかも知れないぜ」


 俺がそう言うと、マーシャは目尻に浮かぶ涙を拭いながら小さく噴き出した。


「それだったらコースケ、とっくの昔に私にしているはずです」


 そう言われるとマーシャに何も反論できず、ただ口をつぐむしかなかった。それからマーシャは、小声で気恥ずかしそうに何事かをつぶやいた。


Я благодаренブラガーダレン Богуボグ за то, чтоシュト мыムイ встретилисьフストレーティリシェ. Тыトゥイ нужнаヌシュナ мнеムニェ


 だが、それはロシア語だったので、俺には全く理解できなかった。


「ひとまず、お前が俺をどう見ているのかは分かった事にしよう。だが、俺はお前に一緒にいられると、色々と困る」


「何が困るですか?」


 俺は一瞬、言葉に詰まった。


「そりゃ、色々さ。今まで俺は、ずっと一人で暮らしてきたからな」


「嘘。コースケ、シンゴと一緒だった。それから一人になって、コースケさびしくないの?」


「寂しい訳がないだろう」


「だったら何で、シンゴいないからチェンサンの仕事出来ないって言ってたですか?」


 それまで涙を流していたはずのマーシャが、目尻の涙を拭いながらも、妙に意味ありげな笑みを浮かべてみせた。俺は心の中で舌打ちした。


「私、もうコースケの相棒です。シンゴと同じ事は出来ませんが、ロシア語、英語、フランス語話せます。日本語と中国語、だいたいダイジョウブ。ドローン飛ばせます。料理も掃除も出来ます。タンテイの仕事、これから覚えます」


「おいちょっと待て。お前、それは一体何の話だ?」


 慌てる俺を横目に、マーシャがにっこりと笑った。


「アキコの家にいた時、アキコとも色々話をしていまシた。私、ここに住んでコースケの仕事のアルバイトしたいです」


「なっ……そんなこと、出来る訳ないだろう」


「私、アキコと一緒にインターネットで日本のタンテイの仕事、調べてみまシた。タンテイの仕事、本当は一人で出来る仕事じゃない。違いますか?」


 マーシャの言葉に、またしても俺は反論することが出来なかった。


 確かにマーシャの言う通り、探偵の仕事は本来二人一組で行うのがセオリーだ。アイツがいなくなってからというもの、表の稼業でも受けられる依頼の数が極端に減っていた――正しくは、こちら側の都合で依頼内容を選ばざるを得なかった――ことについて、その辺りにも理由があったのは確かだ。


「これからは依頼人が外国人になること、どんどん増えてくるはず。日本語含めて五か国語が分かるアルバイト、便利ですよ」


「馬鹿、探偵の仕事はそんな簡単なものじゃない。一日二十四時間、年中無休で働かなきゃならないし、体力的にもきついんだぞ」


「だったらなおのこと、コースケには相棒必要です。私以外に誰か、パートナー組む相手いますか?」


 そんな余裕があったら、とっくの昔に誰か社員を雇っている。零細企業の悲しいところだ。


「住み込みで働かせてくれるなら、私、ゼイタクはいイません。サイテーチンギン守ってくれれば、それでНетニェット проблемプロブレム


「あのなぁ……人を雇うってのは大変なんだぞ、そんなに軽々しく言ってくれるな。だいたい、男の家で住み込みのアルバイトだなんて、お前の両親が知ったら何ていうか」


「あ、それはダイジョウブです。アキコの家にいた時、Skypeで家に一度連絡しまシた。お父さんとお母さん、コースケに『ムスメの事、くれぐれもよろしく』って」


 そう言いながら両手で頬を押さえ、少し顔を赤らめたマーシャに、だんだんと頭が痛くなってきた。


「お前の親父さんとお袋さん、一体何を考えているんだ?」


「コースケの写真送ったら、お母さん、コースケのこと気に入っていまシたよ。お父さん、ちょっと難しい顔してたみたい。でも、お母さんが言うなら仕方ないって」


「……お前、誰の許しを得て、俺の写真を勝手に撮ったんだ?」


 じろりとマーシャを睨んだが、マーシャはまるで悪びれる様子もなく笑った。


「コースケのこと、そのまま写真撮ってません。部屋にあったフォトスタンドの写真撮っただけ」


「ちょっと待て。あの写真、アイツと玲芳も写っていただろうが」


「はい。だからお父さんにはリンファンサン、コースケの恋人って言っておきまシた。それでお父さん、住み込みのアルバイト、まあ仕方ないかって言ってくれまシたよ」


 あっけらかんと笑ったマーシャの様子に、思わず天を仰いだ。もしもマーシャが男だったら、きっとその頭に拳骨の一つでも落としていたことだと思う。


「あっ、そうだ。コースケと私の二人暮らしダメなら、リンファンサンも呼びましょう。三人暮らしだったら、Нетニェット проблемプロブレム。たぶんリンファンサンのお母さん、いイって言ってくれますよ」


「おい馬鹿やめろ」


 玲芳のお袋さんのことを思い出し、思わずぞっとなった。親父さんの方はともかく、あのお袋さんなら確かに、二つ返事で承諾しかねない。こちらはマーシャ一人の扱いだけでも持て余しているのに、玲芳にまで押しかけられては堪ったものではない。


 マーシャが小悪魔のような笑みを浮かべながら、更に畳み掛けるように言った。


「私がケーサツに行って、コースケにさらわれたとか、あの人ガン持ってますとか言うのも、かも知れませんねぇ……さあコースケ、どうしますか?」


「……マーシャ、お前、もうそれ以上口を開くな」


 俺は天を仰いだまま、両手でごしごしと自分の顔を擦り、それから近くの壁に額を何度か打ちつけて唸った。


 だが、そこでふと、こんな馬鹿みたいなやり取りが出来るのも、一人じゃないからだということに気が付いた。過去を振り返ってみれば、アイツがいた頃にも、日々の生活の中で今と似たようなやり取りを繰り返していたように思う。


 アイツがいなくなってからというもの、ただ毎日寝て起きて適当に過ごして、生活のためだけに仕事に追われる日々を繰り返していただけだった。誰かと一緒に食事をするようなこともなければ、誰かと一緒に笑い合うようなこともなかった。


 俺は大きなため息をついてから、まじまじとマーシャを見つめた。見つめられた側は、何やら気まずそうに身をよじらせた。


「な、何ですかコースケ、そんなにじろじろ見ない」


「さっきも言ったが、俺と一緒にいたら、少なからず危ない目にう可能性だってあるんだぞ?」


 俺の言葉を聞いて、一瞬マーシャはきょとんとしたが、やがて何かの雰囲気を察したのか、徐々に嬉しそうな笑みを浮かべて言った。


「コースケのお手伝いした時点で、これから危ない目に遭う可能性あるんですよね? だったら私、少なくとも日本にいる間はコースケの側にいた方が安全です」


「あのなぁ……俺がお前のことを守るとか、本気で思っているのか?」


 俺がじろりと睨むと、マーシャは屈託のない笑みを浮かべて頷いた。


「はい。その点については私、コースケのこと信じていますから」


 マーシャのその言葉を聞いて、俺は再び大きなため息をついた。今の稼業に就いてからというもの、誰かを信じるなどということは、アイツを除いてほとんど考えたことがなかったが、目の前で無邪気に笑うマーシャを見ていると、これといった違和感を感じないのが何とも不思議だった。


「……お前、大学にはきちんと通えよ」


「えっ……それじゃあ?」


 こちらを見上げたマーシャの表情が、ぱっと明るくなった。俺は右手で頭を掻きむしり、また一つ大きな息をついてから、全てを吐き出すように言った。


「お前の本分は学生だ、大学にはきちんと通って卒業しろ。お前の親御さんのこともあるからな、留年なんかしたら承知しないぞ。家賃は要らないが、光熱水費と食費の分だけ、少し金を出せ。金額については要相談だ。あと、ひとまずアルバイトは別に探せ。うちの事務所の仕事をさせるかどうかは、これから考える」


 マーシャは興奮した面持ちでソファから立ち上がると、俺の首筋に飛びついて叫んだ。


「コースケ、ありがとう!」


 あくまでも一時いっとき居候いそうろうだったはずのマーシャを追い出すことを諦めた俺は、細身に見えて意外にボリュームのある彼女の身体を引きはがし、肩を落として言った。


「やれやれ……こいつはとんでもない性悪しょうわる猫を拾っちまったもんだ」


 以前であれば猫呼ばわりされると怒ったマーシャだったが、今はまるでその場で小躍りでもせんばかりの雰囲気で、俺に笑ってみせた。


「コースケ、ロシア人はみんな猫大好き。ロシアでは新しい家を建てた時、新しい家のドアを猫に最初にくぐらせると幸運になるいイます。そのための猫のレンタルもありますよ」


「……お前さんが、幸運を運んできてくれる猫だって言うのかね」


 満面の笑みを浮かべるマーシャを横目に、呆れたように言った。だが、あくまでも純真無垢なマーシャを見ていると、それもまあいいか、などと思ってしまう自分に、思わず苦笑せざるを得なかった。


「ああ、そう言えば」


 俺は一つ、思い出したことを口にした。


「お前が作ってくれていた、あの水餃子みたいなやつ。何て言ったっけかな、確かペル、ペリ……ペリヌイだったか」


「ペリメニ、ですか?」


「そう、それ。酢をつけて食ってみたが、なかなか美味かったぞ」


 マーシャは少しの間、呆気に取られたような顔をしていたが、やがて小さく噴き出して、それから穏やかに笑った。


「また作ってあげますよ、次は一緒に食べましょう……で、それはそれとして」


「何だよ?」


「コースケのプライベート用スマホの電話番号、教えてクダさい」


 突然持ちだされたマーシャの意外な要求に、少し面喰った。


「そこ、まだこだわるかね」


「私、コースケの友達で相棒。知る権利あります」


 これはどうしたものかとしばらくの間思案したが、そわそわと期待のこもった目でこちらを見上げるマーシャに根負けした俺は、プライベート用のスマートフォンを取り出して、マーシャのスマートフォンの電話番号をプッシュした。


「わ!」


「全く、これから先どうなっても知らんぞ」


 嬉しそうに自分のスマートフォンへの着信履歴を見つめるマーシャに、俺はやや投げやりに言った。


 アイツとは見た目も性格も能力も随分と違うが、相棒は外国人エトランジェというのも、それはそれで案外面白いものなのかも知れない。そう自分に言い聞かせつつ、新しい生活環境を受け入れるための腹をくくることにした。


Fin.

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相棒はエトランジェ 和辻義一 @super_zero

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