Episode 21 残されしもの

 一度駐車場に停めていたクルマに戻った俺は、陳さんから貰った金をダッシュボードのポケットの奥底に隠し、約束の時間に玲芳リンファンを店まで迎えに行ったが、確かに玲芳の顔色は少し悪かった。玲芳の親父さんとお袋さんは、今夜のカウントダウンイベントの手伝いで不在とのことだった。


「それじゃあ、そろそろ行こうか」


 俺がそう言うと、玲芳は少し躊躇ためらいがちな様子で俺の後ろをついてきた。


 あららぎ市の中華街でも、他の街の中華街と同じように年末年始を祝うイベントが開催される。今年は新型コロナウィルス感染症の影響で非常に規模が縮小されていたが、それでもかんていびょうびょうの二カ所で年越し祈願の神事が執り行われ、中国舞踊や獅子舞が披露され、新年を迎えると同時に大量の爆竹が盛大に鳴る。


 例年であれば、年末年始には中華街の各店舗が夜店を出し、通りは夜通しで非常に賑わうのだが、流石に今年は人通りもまばらで、中華街の関係者以外の姿を見ることはほとんどなかった。


 カウントダウンイベントは、関帝廟前で開催される手筈てはずとなっていた。あちらこちらに設置された照明の元、赤や黄、緑など、色とりどりの鮮やかな原色の飾り物が会場周辺に飾られていて、舞台の前には一定の感覚を置いてパイプ椅子が並べられていたが、やはりここでも人影はまばらだった。


「舞台の前の椅子、まだ座れるみたいだぞ」


 スピーカーから発せられるイベント進行役の司会の声を聞きながら、俺は玲芳を振り返ってそう言ったが、彼女は力の無い笑みを浮かべながら静かに被りを振った。


 これはどうしたものかと思案していると、玲芳がそっと俺のコートの袖を掴んで引っ張った。やはり今夜の玲芳は、いつもと何か様子が違う。


 玲芳に袖を引っ張られるがまま、俺は会場の隅の方へと移動を余儀なくされた。俺は何事かといぶかしんだが、玲芳は何度か声を出そうとして躊躇った後、ようやく俺の耳元まで背伸びをしてマスク越しにささやいた。


「公佑……この間は助けてくれて、本当にありがとう」


 思わず俺が呆然としていると、玲芳は少しばつが悪そうに笑った。


「あのね……もっと早くに、お礼を言えたら良かったんだけれどもね」


「いや待て、一体何の話だ?」


 かろうじて俺がそう言うと、玲芳は少し怒ったような表情で、こちらを軽くにらんできた。


「ちょっと……私が公佑の声を、聴き間違えたりすると思う?」


 俺はあの晩、玲芳の前で声を発してしまったことを激しく後悔した。俺が無言のままでいると、一転して優しく目尻を下げた玲芳が更に言葉を続けた。


「それにね、公佑……貴方、とっても綺麗な目をしているのよ。たとえゴーグル越しの目だけしか見えていなくても、私、貴方のことを見間違えたりしないわ」


「……」


「でもね……あの夜の事、今でも色々と信じられないことが多すぎて。こんな私で、ごめんね」


 俺は上着のポケットに両手を突っ込み、視線を逸らしたまま答えた。


「お前が謝るようなことなんて、何もないだろう」


「ううん……実は今でもちょっとだけ、貴方のことが怖いの。あの夜の貴方のことが、まだ信じられないの。助けてもらったのに、本当にごめんなさい」


 玲芳はそう言って、俺から視線を逸らしてうつむいた。


 俺達はしばらくの間、互いに言葉を発しなかった。カウントダウンイベントの司会の声がスピーカー越しに辺りへと響く中、無言でいることに耐えられなくなった俺が、つい先に口を開いてしまった。


「俺はお前が無事でいてくれて、本当に良かったと思っているよ」


「えっ?」


「お前にもしものことがあったら、俺はあの世でアイツに合わせる顔が無い」


 玲芳がじっと、俺を見上げてきた。俺はその視線にいたたまれなくなり、言わなくても良かったであろうことを口にしてしまった。


「アイツから、最後に頼まれていたんだ……玲芳のこと、よろしく頼むって」


「それって」


「アイツから頼まれていなければ……それに、が半分力を貸すって言ってくれなかったら、きっと今みたいにお前と話をしていられなかったんじゃないかって思う。俺はただの臆病者さ。お前を助けたのは、俺じゃない」


 カウントダウンイベントの司会の声に促されて、舞台の上に中華街の役員らしき人物達が横一列に並び始めた。その中には、玲芳の親父さんの姿もあった。俺達二人の姿に気が付いた親父さんは、一瞬驚いたような表情を浮かべたが、すぐに俺に向かって小さく親指を立てて見せた。


 その時突然、玲芳が俺の胸に顔をうずめてきた。俺は慌てたが、舞台の上にいた親父さんはそれ以上に慌てて、危うくつまづいて転びそうになっていた。


「おいこら玲芳、ちょっと待て」


 俺は玲芳を引きはがそうとしたが、彼女は俺のコートの胸元を両手で強く掴んだまま、微かに涙を浮かべていた。


「ごめん、公佑……少しだけ、このままでいさせて」


 そう言うと玲芳は俺の胸に顔をうずめ、微かに震えながら小さな声で「ありがとう、公佑。ありがとう、真悟」と呟いた。


 俺は仕方なく、両手をコートのポケットに突っこんだ状態で、なされるがままに立ち尽くした。こんな時、きっとアイツならば、玲芳の背中をそっと抱いてやっていることだろう。周囲からは奇異と好奇と冷やかしの眼差しが向けられたが、俺は敢えてそれら全てを黙殺した。


「うん……もう大丈夫、大丈夫。本当にごめんね」


 ようやく俺のコートから両手を離した玲芳が、目尻に残った涙を細い人差し指で拭いつつ、少し晴れ晴れとした表情で俺を見上げて笑った。今夜出会った当初から比べると、随分と良い顔色になっていた。


「公佑、あと一つだけ教えて……貴方はさっき、自分のことを臆病者って言ったけれども、あの夜も貴方は怖いって思っていたの?」


 俺は少しの間言葉に詰まったが、ようやく何とか口を開くことが出来た。


「あのような場面で恐怖を感じない奴がいるとしたら、そいつはきっと頭がどうかしている。でも誰にだって、嫌でも自分の感情をコントロールしなきゃならない時が必ずある」


「それって、自分が死ぬかも知れないって恐怖のこと?」


 小さく首を傾げた玲芳に、俺は視線を逸らしながら言葉を続けた。


「撃つのにも撃たれるのにも、それぞれ覚悟が必要だ。両方の恐怖を覚悟と訓練で乗り越えない限り、自分や罪のない他の誰かが命を落とすことになる」


 つい口をついて出た言葉だったが、俺は何故今回の仕事を引き受けることが出来たのか、その本当の理由にようやく辿りついたような気がした。もちろん、アイツやマーシャの助けが無ければ、とても辿りつけなかった答えだったとは思うが。


 俺の言葉を聞いた玲芳は、軽く一回深呼吸をしたあと、にっこりと俺に笑ってみせた。


「良かった……やっぱり貴方は、私が知っている公佑だった」


「何だよそれ、藪から棒に」


 いつしか舞台の上では、新年を迎えるためのカウントダウンが始まっていた。十から数を数え始めた周囲の大声にかき消されないよう、玲芳は背伸びをしながら俺の耳元で囁いた。


「貴方はただの人殺しなんかじゃない。私を助けに来てくれた、たとえ臆病でも素敵なナイトだったってこと……私はもう貴方の事、怖いだなんて思わないわ」


 周囲のカウントダウンが一斉にゼロを叫び、拍手と共に派手な爆竹の音が辺りに鳴り響き始めた。それと同時に、突然マスクを外して背伸びをした玲芳が俺のマスクを取り上げ、俺の両肩に手を添えて、自分の唇を俺の左頬に軽く触れさせた。周囲の誰もが舞台の方を見ていたため、俺達二人の様子に気が付いた者はただ一人を除いて、おそらくいなかった。


 俺は咄嗟のことに思わず身が固まったが、舞台の上にいた親父さんは唖然とした表情のまま、他の役員達と共に舞台を降りていく。それと入れ替わるような形で、白色と黄色の獅子舞が舞台の上に上がり、シンバルや太鼓の音に合わせて舞台の上の飾りに登るなどしながら、見事な演舞を披露し始めた。


 玲芳はすぐに、まず俺のマスクをつけ直し、続いて自分のマスクをつけ直した。会場を照らし出す照明のもと、彼女の目元は夜目にも紅く染まって見えた。それからしばらくの間、俺達はただ黙って、賑やかな音楽と共に舞う獅子舞を眺めていた。


「公佑、折角だから関帝廟へお参りに行きましょう。貴方の事、神様に自慢したいの」


 獅子舞の演舞が終わる頃、マスクの奥ではにかんだ笑みを浮かべながら、玲芳がそっと俺の手を引いた。


「おいおい……参拝はまあいいとして、自慢ってのは一体どういうことだ? それに、相手はあの関帝だぞ?」


「だからこそ、よ。私のナイトは、こんなにも勇敢で優しい人なんですって」


「……勘弁してくれ」


 ため息をつきながらそう口にしてみたものの、結局俺は玲芳に手を引かれるがままに、関帝廟へ参拝することになってしまった。


 俺の胸の内では気まずさと気恥ずかしさが複雑に入り混じっていたが、寒空の深夜に煌々と灯りが灯される中、何とも嬉しそうに関帝像へ両手を合わせる玲芳を見ていると、まあいいかという気持ちになれた。ひとまず俺は、彼女が無事だったことを神様に感謝することにしておいた。


 それから玲芳を家まで送り届けた後、俺は仕事用のスマートフォンをズボンのポケットから取り出した。マーシャからの連絡は、何も入っていなかった。


 俺はLineアプリを起動し、マーシャに宛てて「この間は俺の言い方が悪かった。一度ゆっくりと話がしたいから、その気になったら帰ってこい」とメッセージを送った。時刻は既に一時を回っていたが、すぐに既読マークが付いた後、ややあって何かのアニメキャラが「OK」と親指を立てているスタンプが返ってきた。


 いかにもあいつらしい返事だと思わず苦笑しながら、俺は例年に比べて人通りがまばらな元日未明がんじつみめいの中華街の通りを、クルマを停めてある駐車場へ向かって歩き出した。遠くの方からは、時折微かな除夜の鐘の音が聞こえていた。

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