Episode 20 約束

「お前さんには今回、本当に世話になったね」


 会って早々、陳さんが俺にそう言った。


 十二月三十一日、大晦日の二十二時過ぎ。俺は一人、陳さんの店を訪れていた。


 マーシャは家を飛び出したまま、まだ帰ってきていなかった。だが、例のアプリソフトでマーシャのスマートフォンの現在位置を時々チェックする限り、日中はあららぎ市内を転々と移動していたが、夜になるといつも同じ住宅街の一画のアパートらしき地点に戻っていた。あの夜以降、マーシャからは何も連絡がなかったが、おそらくはこのまま友人と年末年始を過ごすのではないだろうか。


玲芳リンファンは今、どうしているんだ?」


 俺の問いに、陳さんはマスクの奥で笑みを浮かべながら答えた。


「警察の事情聴取なんかもあったからね。そりゃ少しはやつれて帰ってきたが、おかげさまでひとまずは無事だったさ。今は家で休んでいるよ」


 陳さんの言葉に、俺は軽く肩をすくめてみせた。偶然の結果とはいえ、今回玲芳はとても怖い思いをした。彼女の心にも少なからず傷がついただろうが、その傷が少しでも早く癒えてくれればいいと思った。


「それにしても鳴沢、お前さん、今回もいい仕事をしてくれたね」


 陳さんがさも愉快そうに、くくっと喉を鳴らした。


ツァオグループの連中も、今回の件では大損をこいたことだろうさ。お前さんに潰された人身売買取引の利益分は吹っ飛んだし、それに加えて海運会社としての傭船ようせん料や港湾使用料、コンテナ船を警察当局に差し押さえられたことで出た、コンテナ遅配の損害金の支払い。金儲けどころか、無駄金の支払いばっかりがかさんだことだろうさ」


 陳さんにしてみれば、偶然の成り行きとはいえ、大事な孫娘を巻き添えにされたのだ。まずはしてやったり、といったところなのだろう。


 だが、今回俺達がやったことは、極論を言えば深夜のコンテナ船に自らの素性を隠して忍び込み、船員を何人か殺害してまわっただけだ。人に誇れるような内容でも、人に褒められるような内容でもない。


「その損失にはきっと、殺された船員達の命の代金は含まれていないんだろうな」


 俺がニヤリと笑うと、陳さんも小さく鼻を鳴らして笑った。


「そんなもの、あの連中の勘定に入っている訳がないさね」


 それから陳さんは店のカウンターの下から札束をいくつか取り出し、カウンターの上に置いた。


「今回の件では依頼主も、大層喜んでくれていたよ。これでひとまずは曹グループの連中も、今回みたいな商売を見直すんじゃないかってね。ほら、今回の報酬だよ」


 カウンターに置かれた百万円の束は、七つだった。


「陳さん、聞いていた額より多いぜ?」


 俺がそう言うと、陳さんは目尻をわずかに下げて笑った。


「あたしからの特別報酬も込みって奴さ。玲芳の命の代金って考えると、安すぎて申し訳ないところだがね」


 俺は五つの札束をコートのポケットに突っ込み、残り二つの札束を陳さんに向けて突き返した。


「この金は、貰う訳にはいかない」


「おやおや、いつもは金にうるさいお前さんの台詞とは思えないね」


「今回の一件、アイツとの最後の約束も絡んでいたからな」


 俺の言葉に、陳さんは少しの間無言だったが、やがてカウンターの上に置かれた二つの札束を再びこちらへと差し出した。


「それじゃこの金は、あのお嬢ちゃんに渡しておくれ。今回の件、あの子は十分に良く働いてくれたからね」


 実は今回の仕事では、マーシャの隣にはずっと陳さんがいた。だから今回のマーシャの働きぶりについて、陳さんは全部真横で見ていたことになる。


 陳さんにしてみれば、さらわれた玲芳のことが気がかりだったこともあっただろうし、初めて俺とペアを組んだマーシャの仕事ぶりが気になったこともあったのだろうが、万が一にもマーシャの身に危険が及びそうになった時、彼女を連れて一刻も早く現場を立ち去ってもらうため、俺が陳さんに頼んでいたことでもあった。


「分かったよ……でも陳さん、俺がと組むのはこれっきりだぜ? 今後の仕事のことは、期待しないでくれよ」


 残りの札束を別のポケットに入れながら、俺は陳さんに言った。陳さんは右のびんの辺りをそっと掻きながら、軽くため息をついた。


「まあ、お前さんがそう言う気持ちも良く分かるんだけれどもね……武村の後釜、こっちで探しても駄目かね?」


「俺にとっちゃ、アイツと二人だったから出来た仕事さ。アイツの代わりをって言われても、ね」


「ふむ……そんなもんかねぇ。先日のお嬢ちゃんとのペアだって、なかなか捨てたもんじゃなかったと思うがね?」


 俺が軽く陳さんをにらむと、陳さんは苦笑しながら被りを振った。


「とりあえず今は、この話は置いておこうか。お前さんにも、色々と考えがあることだろうし」


「……悪いな、陳さん」


「その代わりと言っちゃ何だが、鳴沢、この後で玲芳のところに顔を出してやっておくれよ」


 陳さんにそう言われて、俺は玲芳と交わしていた今夜の約束のことを思い出した。店の壁掛け時計に目を向ける。今夜、この中華街で開催されるカウントダウンイベントまで、あと一時間半といったところだった。


「玲芳、具合が悪いのか?」


 俺が尋ねると、陳さんはこれまでとは違った様子のため息をついた。


「別にどこか怪我をしたとか、病気になったとかって訳じゃないんだけれどもね。ただ、家に帰ってきてからずっと、何だか妙にぼんやりとしているみたいでね」


 俺は少し考えた後、仕事用のスマートフォンを取り出して、玲芳に電話をかけてみた。かなり長い間コール音が続いた後、ようやく玲芳が電話に出た。


「公佑?」


「連絡が遅くなって悪かった。今、陳さんの店まで年末の挨拶に来ているんだが、例のカウントダウンイベントの件、どうする?」


 少しの間、沈黙が続いた。陳さんがその間中ずっと、こちらを静かに見つめていた。


「……うん。それじゃあ、十一時半ぐらいにうちのお店まで来てくれる?」


「分かった。それまではたぶん、陳さんの店にいるよ」


 そう言って俺が電話を切ると、陳さんが安堵交じりのため息をつきながら俺に尋ねた。


「あの子、何て言ってた?」


「二十三時半頃に、店まで迎えに来てくれって。今夜の中華街のカウントダウンイベント、一緒に見に行かないかって誘われていたんだ」


「へえ。だから今夜は、あのお嬢ちゃんは一緒じゃなかったのかね?」


 陳さんがマスクの奥でニヤリと笑ったが、俺は苦笑しながら被りを振った。


「あいつは今、たぶん友達のところにいるよ」


「おや、喧嘩でもしたのかい?」


 こういう時の陳さんは、妙に勘が鋭い。


「どうせお前さんのことだ、あのお嬢ちゃんを突き放すような物言いでもしたんだろ」


「どうしてそう思うんだ?」


「おや、否定しないってことは、図星かね?」


 陳さんが底意地の悪い笑みを浮かべながら言った。


「あのお嬢ちゃんはね、お前さんが仕事をしている時、ずっと真剣にお前さんのサポートをしてくれていたんだよ……まあ、お前さんがあのお嬢ちゃんをに引っ張り込みたくないって気持ちは分かるがね。せめてあの晩の事だけは、ちゃんとねぎらってやりなよ」


 そう言うと陳さんは、茶でも入れてこようかなどと言いながら、店の奥へと姿を消した。一人その場に残された俺は、相変わらず食えない婆さんだと心の底から思った。

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