Episode 19 すれ違い

 その日の仕事を終えた俺は、家に戻ってからしばらくの間、ただひたすらにベッドの中で眠り続けた。


 家に帰ってくるまでの間一緒だったマーシャとは、ほとんど口を聞いていなかった。途中、彼女が何かを言いかけていたこともあったような気がするが、はっきりとは覚えていない。


 我ながら、仕事の際には相当緊張して疲れていたのだろう。次に目が覚めたのは、その日の夜だった。壁掛け時計が示す時刻は、十九時二十分。


 床の上に脱ぎ散らかしていたはずの戦闘服や靴下は見当たらず、仕事の道具一式が入ったボストンバッグは部屋の隅に寄せられていた。自分で入れた記憶はなかったが、部屋の空調が入れられていたため、Tシャツとトランクスだけの姿でも、寒さで風邪を引くような目には合わずに済んだ。


 ベッドサイドチェストの上に置いていた二台のスマートフォンを見た。仕事用の方には、特にこれといった着信履歴などは無かった。プライベート用の方には、陳さんからのショートメッセージで「ありがとう、助かった。詳細は後日に」とだけ書かれたショートメッセージが届いていた。


 いっそ一人暮らしのままであれば気にせずとも済んだのに、などと思いながら、俺はジーンズを穿き、シャワーを浴びるための着替えを持って部屋を出た。ボストンバッグの中から取り出した、使用済みのナイフも洗う必要があったが、これは流石にマーシャに見せる訳にもいかず、着替えの陰に隠すようにして持った。


「あ、コースケ」


 リビングに行くと、ソファに座りテレビを見ていたマーシャと目が合った。


「おはよう、っていうのは、少し違うよな」


 俺が苦笑すると、マーシャはやや引きつり気味の笑顔を浮かべてみせた。マーシャが見ていたテレビ番組は、特番のニュース番組だった。


「やっぱり、もう話題になっていたか」


 ニュース番組で取り上げられていた内容は、もちろん昨夜の俺達の仕事のことだった。ただし、報道されている内容は、外国人犯罪組織の息がかかったコンテナ船を警察と海上保安庁が臨検した際に激しい銃撃戦となり、船員のうちの何人かが死亡、船のコンテナの中からは人身売買を目的として攫われたらしい多数の外国人労働者が救出された、といったものだった。陳さんからあらかじめ聞かされていた、事前に用意されていたカバーストーリー通りの内容だ。


 ニュースの映像として繰り返し流されていたのは、捜査対象となっているベイジン号のタラップ周辺の様子や、ベイジン号の甲板上を捜査する捜査員達の遠景などばかりで、一番のハイライトはコンテナの中に閉じ込められていた外国人労働者達が救出された時の映像だった。


 ニュース番組のコメンテーター達は口々に、外国人犯罪組織の手口の恐ろしさや、今回の警察や海上保安庁の対応の是非などについて、好き勝手なことを言っていた。いくつかの番組では、事件の背景にある外国人労働者達の置かれた劣悪な生活環境についても触れ始めていて、きっとそのテレビ局には勘の良い番組制作関係者がいるのだろうと俺は推測した。


 いずれのテレビ局も、ニュースを報道する際に「外国人犯罪組織」と表現していたのが印象的だった。ツァオグループの名前は当然のことながら、中国系マフィアという言葉すら使われていない。おそらくは警察当局が、報道向けプレスリリースとしてそのように発表していることもあるのだろうが、少し勘の良い者であれば、ベイジン号のことを少し調べれば、関係している外国人犯罪組織のことも推測出来るだろうに、と俺は思った。報復を恐れてのことなのか、何らかの忖度そんたくが働いているのか、そこまでは俺の知ったことではない。


「昨日の夜の時には良く分かりませんでしたが、あのフネ、大きなフネだったですね」


 やや緊張した面持ちで、マーシャがぽつりと呟いた。ひょっとしたら、自分達が行ったことの実感が、今頃になって彼女に押し寄せているのかも知れない。俺は半ば自分に言い聞かせるように言った。


「昨日の夜のことなんか、さっさと忘れてしまえ」


「……」


「お前が昨夜やったことと言えば、せいぜいがラジコンの操縦ぐらいのものだ。お前が気にすることなんか何もない」


「でも」


 マーシャにとって、昨日の晩の出来事はさっさと忘れるべきだった。今ならまだ、に誤って片方の足先を踏み入れたぐらいで済む。彼女はこちら側に来るべき人間ではない。これ以上、血や泥にまみれる必要もない。


「でもも何もない。昨日の晩は、俺がお前をていよく利用しただけだ」


 その俺の言葉を聞いて、マーシャの柳眉りゅうびが逆立った。


「ちょっとコースケ、それ一体どういう意味ですか! 私、コースケの相棒になるって」


「そんな話、最初から俺がお前を都合よく利用していただけに決まっているだろう」


 俺の言葉に、マーシャが愕然がくぜんとなった。


「そんな」


「どうして俺が、お前みたいな知り合って間もない堅気かたぎの小娘なんかを相棒にしなきゃならないんだ?」


 俺は出来るだけ冷静に、俺達の本来あるべき姿をマーシャへと伝えた。


 マーシャの青い瞳から、みるみるうちに涙が零れ落ちた。マーシャは自分の部屋に駆けていき、すぐに上着を手にして無言のまま玄関を飛び出していった。俺はその後を追うことはしなかった。


 ひとまずシャワーを浴びるために、俺は洗面所兼脱衣所へと足を運んだ。脱衣所にあるハンガーラックには、洗濯された俺の戦闘服や靴下が綺麗に干されていた。湯船に新しい湯も張られていたため、汗を流し終えた俺はしばらくの間湯船に浸かり、ただ呆然と風呂場の天井を眺めていた。


 約一時間ほど後に風呂から上がり、洗ったナイフとナイフシースを脱衣所に干して、濡れた髪をタオルで拭きながらリビングに戻った俺は、そこで初めてキッチンの方から微かな良い匂いが漂ってきていたことに気が付いた。


 濡れタオルを首に下げたままキッチンに足を運ぶと、コンロに掛けられたままの鍋の中には、水餃子のような料理が入っていた。その脇にはスライスされて皿に並べられた黒パンと、皿に盛られたポテトサラダがあった。どちらの皿にも、綺麗にラップがかけられていた。


 水餃子の方は、すっかり冷めてしまっていた。スマートフォンで検索して調べた結果、その料理はどうやらペリメニというロシア料理のようだった。ペリメニの入った鍋をコンロの火にかけ、プライベート用のスマートフォンにインストールしていたアプリソフトをいじる。


 それは昨日陳さんが使っていたものと同じソフトで、スマートフォンの画面に映し出された赤い丸印は、表示された地図のうち、住宅街の一画のアパートらしき地点を示していた。きっとマーシャは、アキコとか言っていた友人の家にでも転がり込んだのだろう。年末の夜の街中を彷徨さまよっているわけではなかったことに、俺はひとまず安堵した。


 俺は仕事用のスマートフォンに持ち替え、Lineでマーシャに「気分が落ち着いたら帰ってこい」とメッセージを送った。すぐに既読マークが表示されたが、返事はなかった。


 ペリメニの鍋が温まったので、俺は食器棚から箸と小皿を取り出し、小皿に少し酢を入れてみた。さっきスマートフォンで調べた時、シベリア方面ではペリメニを食べる時、酢やが添え物として好まれると書かれていたからだ。


 鍋に浮かんだペリメニを一つ箸でつまみ、小皿の酢を少しつけて口に入れてみた。どうやらブイヨンで味付けがされているらしいペリメニは、酢の酸味と相まって独特の味わいだったが、とても美味かった。


 昨日の夜以降何も食べていなかった俺は、キッチンで立ったまま、目の前にあった食事のほとんどを平らげた。ポテトサラダの出来も良かったし、黒パンの独特の味わいにも、俺の舌は少しずつ慣れ始めていた。


 そして、一通り空腹を満たした時にふと昨日の夕食のことを思い出し、キッチンで一人立ち食いする夕食の味気無さをぼんやりと感じていた。一週間前の俺だったら感じることもなかった寂寥せきりょう感のようなものが、ふと胸をよぎった。


 俺は冷凍庫の扉を開けた。中身はただ一つ、封の空いたウォッカの瓶だけだった。瓶の中身は、半分弱ほど。キンキンに冷やされたウォッカの瓶を手に取り、赤いボトルキャップを開ける。一瞬考えた後で、瓶に直接口をつけて中身を飲んだ。


 ややどろりとした液体が、冷たく突き刺さるような刺激と共に喉を通っていった。瓶の中身を無理矢理全部飲み干したところで、瓶から口を離して少しむせた。こんな時、こんな場所で一人ウォッカをあおってみたところで、得られたものは鼻の奥に残った消毒薬のような匂いだけだった。


 そこで初めて、首に下げたままだった濡れタオルの冷たさを思い出した。俺は濡れタオルも食事の後片付けもウォッカの空き瓶も、全てキッチンに放り出したまま、キッチンとリビングの電気を全て消して自分の部屋へと戻った。こんな時は、さっさと寝てしまうに限る。

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