母親
大切な子供たちを迷宮に潜らせるのに、なぜ父である玄武を強引に連れてこなかったのか、なぜ3階層にまで潜ってしまったのかと、藺草は己の愚かしさを呪っていた。
(お父さんが仕事で忙しかったから? わたしが己惚れていたから? いつの間にか、迷宮に慣れていると勘違いしていた。迷宮を……舐めていた)
考えだせばきりがない。
迷宮は生死をかけた殺し合いの場だと分かっていた。にもかかわらず、準備を怠り子供たちを危険な目に合わせてしまった。
お父さんの強固な守りならば、綺羅と影政を守れる可能性が1パーセントでも上がっていたのでは? という後悔の念が、彼女の心に止めどなく溢れてくる。
そればかりか、自身の強さを過信して、最悪の事態を想定しえなかった己の愚鈍さにも苛立ちが募るばかり。
目の前のブラックワーウルフは、間違いなく上位個体の魔物。
相まみえることにより、藺草はその異質さをひしひしと肌で感じとっていた。
攻撃火力の高い藺草でさえも、この敵に決定打を与えることは困難であった。
それは、敵の余力からも察しがつくし、体表が異常なまでに硬化されていて、攻撃が上手く通っていない現状を見るに明らかだった。
決め手がない。
時間が経てば経つほど、人間サイドは形勢不利になる。
後方で奮起する柳生隊が、主戦力で構成された部隊だとはいっても、敵の戦力はそれ以上に高い。
おそらくは、10分も耐え凌げない。
藺草は味方の戦力を完璧に把握しているがために理解してしまう。
隣で戦う厳正も、きっと同じ思いを抱いているはずだ。
藺草がなんとか横目でちらっと厳正を確認すると、彼は苦虫を噛み潰したように口を固く閉じ、じっと耐え忍んでいた。
苦しい、ほんとうに苦しい状況だ。
だけど、彼女には気になることもあった。
あるときを境にして、敵の様子が一変したのだ。
最初は、とつじょ怒り狂いだしたブラックワーウルフの形相に、藺草はとうとう敵が自分たちを仕留めにきたのだと見てとって、覚悟を決めた。
だが、それにしては様子が少々おかしかった。
ブラックワーウルフは、何かを焦っているような、落ち着かない、苛立たしい雰囲気を露わに、集中力が途切れだしたのだ。
ふたりは、それを見逃さなかった。
けれども事態は悪くなる一方で、このとき藺草は、両手の感覚がすでになくなっていた。
それでも彼女が大剣を手放さないのは、意地だ。
藺草はじわじわと削られている心の炎を、気力でもって奮起させていた。
そして、子供たちを守るため、仲間を死なせないため、藺草は絶対に引くわけにはいかないと心に叫び、心に、鬼を潜ませた――。
「摩利――」
しかして、訪れは後方からとうとつにやってきた。
「苦戦しているようだな。手助けするよ、母さん」
藺草の背中に、雷に打たれたような衝撃が走った。
聞き慣れた最愛の息子の声を、彼女が聞き間違えるはずがなかった。
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