異父弟

★☆★☆★



──その一方で。

おびただしい血溜りの中に座り込みながら、唯香は茫然自失としていた。



その美しい蒼の乾いた双眸には、今は何も映ることはなく…

そしてまた、表情すらも動くこともなく、ひたすら固まっている。



二度の悪夢。…そう、17年前の事象の再来に、唯香の心は悲鳴をあげて軋み、滲み染みるような傷みを訴えていた。


その血溜りの中に、ヴァルディアスは躊躇うこともなく静かに踏み込むと、あまりのショックに声にすらならない唯香の傍らで、無情にも存在を示すかの如く産声をあげている、産まれたばかりの赤子を抱き上げた。


…誰にともなく、呟く。



「…男…、皇子か」



唯香にあてたものではないはずの、愉しげに、そして嘲るような呟きに、唯香の体はぎくりと震えた。

ヴァルディアスはそんな唯香の頬を、残酷なまでに優しく撫ぜる。


「よくやった…」


言葉自体は柔らかく、物静かだが、その実、内心では確実に事を楽しみ、歓喜にうち震えている…

そんなヴァルディアスの心情を察したのか、唯香は反射的にその言葉を逆手に取り、それによって自我を取り戻すと、凡そ今まで呆けていたとは思えないような、目の奥にひそむ強い意志を武器にし、ヴァルディアスを威嚇した。


「…ヴァルディアス…、その子を一体、どうするつもりなの?」

「…、異なことを言うな」


ヴァルディアスが、唯香の頬をなぶるようにして触れていた手を移動させ、そのまま唯香の唇に、己の人差し指を触れさせる。

その、えもいわれぬ快感に、唯香は術もなく、そして愚かにも、再び身を震わせた。


そこを突いて、ヴァルディアスは容赦もなく攻めてくる。


「それは既に話したはずだ」

「──本気なの!?」


たまらずに唯香は声をあげた。

これでは…本当に17年前と同じになってしまう。


…あの時、自分はライセとルイセ、二人ともを己の側に置いておきたかった。

その一番の理由は、もちろん自分の子どもであるが故だが…

それと同等に、その自分の子を、闇に染まらせたくはないという気持ちが、強く根底にあったのだ。


…闇に呑まれ、取り込まれる…

それだけはどうしても、何をおいても避けたかった。


それでもライセは、精の黒瞑界に存在したからこそ、まだ救われたようなものだ。

ほとんど同じ条件下であっても、ここは闇魔界…

産まれた子が、ライセと同様までの善の考えを持つとは考えにくい。


…そんな唯香の考えを読んだのか、ふと、ヴァルディアスが魔力を使うことで、その場に存在した全ての血液を霧散させる。

赤子の、そして自分の体から、血液という汚れが取れたことを確信した唯香は、とっさに立ち上がると、寝床の近くに散らばった自分の服を掴み、出来るだけ急いでそれを身につけた。


それを見たヴァルディアスは、続けて魔力を発動させることで、己も衣服を身に纏い、また、己が子にも簡単な赤い布を纏わせた。


それを目のあたりにした唯香は、もはや精の黒瞑界の者たちで慣れたと思っていた人間以上の存在に、再び恐怖する。


「…ヴァルディアス…」


そんなふうに呼びかけることしか出来ない自分が、ひどく弱く、歯痒く感じられる。


するとヴァルディアスは唯香に目を落とし、何を思ったか、唯香にそっと子どもを抱かせた。


「…え?」


ヴァルディアスの行動が読めず、また、子どもを抱かせて貰えるなどとは思っていなかった唯香は、唖然としてヴァルディアスに目を向ける。

するとヴァルディアスは、僅かに含み笑った。


「その子はこの世界の皇子… だがお前の子だ。

母親に子どもを抱く権利くらいあるだろう」

「!…」


唯香の心臓が、どきりと跳ねた。

…確かに、彼のいう通りだ。だが、17年前は…精の黒瞑界では、それが通用しなかった。



産まれてしばらくして、その手に抱くことが可能であったのは、累世だけ…

幼いライセを抱くことは…叶わなかったのだから…!



「…っ…」


昔を思い出し、唯香の目から溢れた涙が、頬を伝った。

それをヴァルディアスはゆっくりと拭う。

それによって、唯香はようやく己が泣いていることに気が付いた。


…ヴァルディアスの前で弱いところは見せたくない。

見せたくはないのだが…


普通に考えれば当然なことを、彼はしているだけなのだ。

だが、その当然なことが、何故こんなにも優しく感じられるのか。


そして何故…カミュの敵であるはずのヴァルディアスに、これ程までに安らぎを覚えてしまうのか…!


「…子に、名前をつけてやるといい」


なだめるように、ヴァルディアスは柔らかく呟いた。

それにも唯香は、我知らず過去と比較してしまう。



…ライセとルイセの名は、カミュの父親にあたる精の黒瞑界の皇帝・サヴァイスがつけてくれた。

だが今度は、自分で子どもの名をつけられる…!



以前に比べて、どれだけ自由であることか。

それすらも許されなかったあの世界では、自分はどれだけ自由を乞うていたのか──


「…あ、あたしが…つけてもいいの?」

「ああ」


ヴァルディアスはいとも簡単に頷き、唯香の次の言葉を待った。

…そんな中、唯香は逸る心を抑えながらも考える。


ライセと累世、双子の異父弟にあたるこの子には、果たしてどんな名前が良いかと。


そして、出た結論は…



「…ライセと累世の弟だから…

レイセ。“零世”でいい…かな…なんて思うんだけど」



やっぱりちょっと強引すぎるかな…、と、唯香は照れながらも笑ってみせる。


…この時の唯香は、子どもに対して唐突に与えられた自由から、愚かにも、それまでの反し敵対する心情を、一時ながら忘れていた。


「“レイセ=ロゼウス=ヴァン=ソレイユ”…か。いい名だ」


…どうやら、こちらの世界の名に直すと、レイセのフルネームはそうなるらしい。


唯香は初めて聞いたはずの、それでいて耳に心地よいその名を、音楽に聴き惚れるようにして聞いていたが、やがてはたと気付いたように、再びヴァルディアスに警戒を露にした瞳を向けた。



…不甲斐ない。

何故、こうまで呑まれている?


相手は紛れもないカミュの敵、それも敵対する闇魔界の頂点に立つ、れっきとした皇帝であるというのに。


…今は子どもへの情ばかりに、ほだされている場合などではないというのに…!



唯香は意を決すると、レイセと名付けられた我が子を、きつく抱きしめた。

そんな唯香の思惑に気付いたヴァルディアスが、先程までとは一転して、唯香に剣呑な目を向ける。


「…何の真似だ」


それは一瞥でありながらも、まともな感覚を持った者が見れば、恐怖に震えあがるような鋭いものだった。


勿論、唯香も例外ではない。だが、そんな唯香を支えていたのは、自分とヴァルディアスの子である、レイセの存在だった。


「…あ…、貴方に、この子を渡す訳にはいかないわ!」

「…、何を言い出すかと思えば…

そう強がることもないだろう?」

「…強がり…ね、うん…、確かにそうかも知れない。

貴方にとっては、あたしの言葉なんて、ただの下らない意地に聞こえるかも知れない…

でも、またあの悪夢を繰り返す訳にはいかないの!

貴方に…この子を預ける訳にはいかないのよ!」

「……」


唯香は己の意思通り、レイセを渡すまいと、必死でヴァルディアスに訴えていた。

例え聞き届けて貰えなくとも、せめてこちらの考えは知っておいて貰いたい。



──我が子を、闇に、暗黒の世界に…

引き込んで欲しくはないのだと。



ましてや、レイセはライセたちの異父弟とはいえ、この、闇魔界の皇子…

ヴェイルスが存在する以上、直接の後継ではないにせよ、その図式では、否が応にも兄皇子であるライセ・累世の二人と対立するようになってしまう。


ひいては、兄弟間で殺し合いに発展することにもなりかねない。

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