愛情もないままに

…その頃。

父親であるサヴァイスの元から、自らが過ごす空間に戻ったカミュは、唯香の異変に気付いた。


例の、人間界でいうシャワールームを意味する空間に閉じこもったまま、そこから一向に出てこようとしないのだ。


それが気になったカミュは、入り口ごしに唯香に話しかけた。


「どういうつもりだ?」

「!…な…、何でも…ない…から…、お願…い、放っておいて…!」


…この、絶え絶えの声を聞いて、自然、カミュは眉を顰めた。

唯香の両手の動きは、既に自分が魔力で封じている。つまり、舌を噛まない限りは、自殺など到底できはしない。

しかも、今、普通に意味のあることを話しているのだから、舌を噛んだ様子もない。

だが、だとすれば…

“何だ”?


強い疑問を覚えたカミュは、それに比例するように強い口調で、唯香に声をかけた。


「ここを開けろ。開けないのなら、無理にでも魔力でこじ開ける」

「!…嫌…、それは…、ちょっと…待って…!」


唯香が言葉によって制止しようとした矢先、カミュは、その入り口の向こうに、新たに2つの、強大な魔力の存在を察知した。


「!っ…、ああっ!」


唯香の悲痛な声が響いたとほぼ同時、カミュの手が紫の魔力に包まれた。

カミュはそのまま、躊躇うこともなくそれを放つと、その入り口にあたる空間を歪め、粉々に破壊した。

その強大な魔力に平伏するかのように、先程までは確かに入り口であったものが、ぽっかりと無惨な姿を晒す。


…周囲が粉塵に覆われるただ中に、唯香はいた。

青白い顔で、へたり込むようにその場に留まっている。

その周辺には真っ赤な鮮血、そしてその唯香の傍には、産まれたばかりの双子の赤子がいた。


これを見たカミュは、一瞬にして事の次第を理解した。

まず、再び魔力を用いて周囲の血液を瞬時に乾燥させる。それは元々なかったもののように空気に還元した。

それを見定めることもなく、カミュは次に、静かに唯香に近づいた。


「…子が産まれそうだったのか。ならば始めからそう言え…」

「……」


唯香は無言のまま、全てを失ったかのような虚ろな瞳でカミュを見た。

その蒼の瞳の奥に、何かを訴えるような…

縋るような感情が見え隠れする。

それに敏感に気付いたカミュは、ゆっくりと膝を折った。


「…、安心するがいい。子は殺さない」


今の唯香にとって、このカミュの言葉は、まるで神の声を思わせた。

虚ろだった瞳に、わずかながらも生気が射す。


「…本当に…!?」

「ああ。父上が殺すなと仰った…

…どうやらこいつらも、命拾いをしたようだな」


冷たく言い捨てると、カミュはつと立ち上がり、その場に背を向けた。

この行動に些か驚いた唯香が、カミュにその言動の真意を訊ねるよりも早く、カミュは歩き出しながら呟いていた。


「…その手の枷と入り口は戻しておいてやる。まずは、そいつらに付いている血と自分の体を何とかしろ」

「!…あ、あたしひとりで…!?」


唯香は目に見えて焦っていた。

だがそれも当然だろう。

何もかもが初めての経験なのだ。

ましてやこんな、首の骨も坐っていないような、産まれたての赤子など…

いくら自分の子どもとはいえ、どう扱ったらよいのか…、まるで分からない。

すると、カミュがそれを見かねてか、蔑むように言葉を告げた。


「そいつらは、人間の子ではない。故に、多少手荒に扱ったところで、死ぬことはない」

「!そうじゃなくて…」


──“あなたは、手伝ってくれないの”?


そう言いかけた科白を、唯香は無理やり飲み込んだ。

…恐らく、言うだけ無駄だろう。


しかし、そんな唯香の物言いが引っかかったのか、カミュがぴたりと足を止め、振り返った。


「…何だその目は。何が言いたい?」


敵を見るような鋭い目で一瞥され、唯香は目を伏せると、一時のみ唇を噛みしめ、答えた。


「…何でもない」

「……」


カミュは無言のまま、唯香から視線を逸らすと、先程の言葉通り、外から新たに空間の入り口を作り上げた。


…中に残された唯香は、感情のはけ口を、全て湯にぶつけた。

湯を出しながらも、それを躊躇いもなく顔に当たるように流す。



…そこから流れているのが、湯なのか涙なのか…

もはや唯香には分からなかった。

知らずに大粒の涙が溢れてきて、それは何の遠慮もなく湯に溶けて流れていった。


…声を出して泣くことはしなかった。

声を出せば、カミュに感づかれる。

唯香は少しの間だけ、自らの感情が導くままに泣いていた。



唯香はやがて、顔に当てていた湯を止めた。

抑えきれなかった涙が、まだ頬を伝っている。


夢か現か分からないままに、唯香はぼんやりと双子を見つめた。


…痛かっただけだ。

産んだなどという実感はない。

今だに泣き出しもせず、寝ているだけの子など…!


唯香は、双子のうちのひとりを抱き上げると、じっとその子を見つめた。

何の気なしに、その子を右側に抱き、あいた左手でもうひとりの子を左側に抱く。


…子どもたちはまだ血で汚れていたが、それを抱き上げることに抵抗は感じなかった。


何故なら、多分…

自分が一番、汚れているから。


唯香の両目から、今までにない、深い悲しみの涙が落ちた。

それは頬を伝わり、双子の口の中に吸い込まれていく。


…すると、唯香の手の中で、双子たちがどくん、と脈打った。

それに唯香は不覚にも、驚きのあまり手を離してしまった。


「あっ!」


反射的に…、まるで縋るように手を伸ばした唯香のその目に、信じられないような光景が映った。

…地に引かれていく双子たちの体が、強い黒銀の光に覆われたのだ。

しかし、唯香はあまりの眩しさに、思わず目を閉じてしまった。

それに気付いて目を開けた時、唯香のその目の前には、更に異様な光景があった。


…ほんの一瞬ではあるが、そこに…確かに双子たちが成長した姿が見えたのだ。


しかし、それを唯香が無意識に認識すると同時、双子の姿は…その場から消えていた。


「…?」


初めは、目の前の事象でありながらも、不覚にも何が起こったのか分からず、全てが夢だったのではないかという思いさえ抱いた。

しかし、手に残る子どもの温もりが、はっきりとこれは現実であることを指し示す。


それに気付いた時、唯香の心に、途方もない焦りが湧いた。

急いで体を清めると、近くにあった、この世界に来て新たに与えられた服を掴むのももどかしく、すぐさまそれに着替え、空間から飛び出す。

その唯香の、けたたましいという表現がぴったりの慌てように、カミュは鋭く目を細めた。


「…騒々しい」

「!…っ、カミュ、それどころじゃないの!」


その焦りの中に、母親としての絶望を垣間見たカミュは、目に潜む棘を少し和らげた。


「話してみろ」

「…こ、子ども… あの子たちが…いなくなっちゃったの!」

「…何だと?」


唯香に言われて、カミュはその魔力の存在を探った。

確かに唯香の言う通り、先程までの空間に、双子の魔力は感じられない。

しかし逆にその、魔力が全く感じられないという事実が、カミュの心に、とある疑いを持たせた。


「…、父上の仕業か」

「え…、なに?」


打ちひしがれていた唯香が、その低い呟きを聞き咎める。

それに、カミュは自らに確認するように答えた。


「この場にいたはずの俺に気付かれずに、その魔力と存在を同時に消失させる…、そんな真似が出来るのは、俺以上の力を持つ存在…

つまり、父上をおいて他にはない」

「…あなたの…、お父様が…!?」


…唯香の脳裏に、先程のサヴァイスの、あの美しい風貌が甦る。

反射的に唯香は、今いる空間から飛び出し、先程サヴァイスと会った場所へと向かおうとした。


すると、その手をカミュが取った。

唯香は驚きつつも、必死にその手を振り切ろうとする。


「!は…、離して!」

「逸るな。何処へ行くつもりだ?」

「!何処って…あなたのお父様の所に決まってるじゃない!」


焦りを隠せず、声が荒くなる唯香に、カミュはそれとは逆に、極めて冷静に告げた。

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