喪失と絶望
全幅の信頼を措いていた分、裏切られた時の気持ちは、筆舌に尽くしがたく…
その時の強いショックが引き金になり、かつてあれほど追い求めていた、限りない憧憬であったはずの彼は、それとは真逆の“恐怖”そのものとして、唯香の心に、精神に…強く刷り込まれてしまったのだ。
だから唯香はマリィに怯える。
その、兄妹ならではの全く同じ容姿に、あの時の苦しさ、痛み、絶望が、例えようもない恐怖となって、自らの中に甦るからだ。
それだけではない。
恐らくはそこで、唯香の内部では自己防衛機能…
つまり、防衛機制の一部が働いたのだろう。
…カミュを忘れて…
否、自らその存在を…
カミュの“存在”そのものを、自らの記憶の中から消してしまったのだ。
甦る恐怖が、葛藤が…
そして、それらを遥かに上回る絶望が、あまりにも大きすぎて、唯香の心は、それに耐えきれなかった。
そして極めつけは、自らが傷つけられている時に、薄れゆく記憶の中で、ぼんやりと見たもの…
──カミュの、銀の糸のような美しくも艶やかな銀髪。
至上の宝石を思わせる、品のある透き通った、紫の瞳。
その特徴的な美しい外見が、もはや今の唯香の中では、例えようもない恐怖の象徴となり、それが元で、現在、深刻な後遺症を引き起こしているのだ。
…かつて求めた者を拒むほどに…
その神経をずたずたに引き裂くほどに。
…“カミュは、ひとりの人間の、体ではなく心を壊した”。
「……」
そこまでを一瞬のうちに察した将臣は、目に宿したその鋭い光もそのままに、どうしたものかと考え込んだ。
…こんな時に、下手に介入し、誤った言動をとれば、唯香の神経がまたも悲鳴をあげることは目に見えている。
状況を緩和させるには、畏怖の対象となっているマリィを、唯香から遠ざけた方が良いのだろうが…
それでは根本的に、何の解決にもならない。
まさに、押すことも引くことも敵わない。
「さて…どうするか…」
将臣が、溜め息混じりに低く呟いたその時…
彼の隣の空間が、僅かに歪んだ。
そこから強く感じ取れるのは、今まで彼が一度たりとも感じたことのない規模の…
膨大な“魔力”だ。
一瞬はそう思った将臣だったが、次には別の何かを確信し、首を振っていた。
…いや、違う。
これは以前にも覚えがある。
これは…
唯香に攻撃を加えた…
あの時の、カミュの魔力そのものだ。
「…まさか…」
将臣がそちらに目をやると、その歪んだ空間は、それに応えるように紫色の柔らかい光を放ち、そこからカミュを生み出した。
その存在を確認したマリィが、悲鳴じみた声をあげる。
「兄上っ…!」
「カミュ様!」
サリアも、さすがに上擦った声をあげた。
そんな二人を一瞥し、カミュはその整った唇を動かす。
「どうした、マリィ… 何故泣いている?」
「…えっ?」
その呼びかけは、真にマリィを気にかけているもので…
かつて見た、豹変した兄の言葉とは、とても思えなかった。
「…あに…うえ、兄上は…」
「…ああ…」
カミュは、疲れきった体に鞭打って、その場に立っていた。
それ故に、それが元でなのか、精神的にもより不安定に見える。
「心配するな。…あいつは今は出ては来ない。父上がそのように取り計らって下さったからな…」
「“あいつ”…?」
今度は、口を開いたのは将臣の方だった。
その言い回しから仮定するに…
「二重人格…なのか?」
「…お前たちの言葉で言えば、そうなるな…」
カミュは、隠し立てすることもなく、その事実を認めた。
すると、マリィにも、今のカミュが、あの時の兄とは違うということが理解できたのか、次にはサリアの手を振り切って、カミュに駆け寄り、しがみついた。
「兄上! …唯香が…、唯香が…!」
「…唯香がどうした?」
怪訝そうにマリィを見、そのまま視線を将臣に向ける。
その紫の瞳には、何かを案じた者に見られる、一抹の不安が見え隠れしていた。
…将臣はただ、無言のままカミュの視線を受け、そのまま自らの目線を唯香に向けることで、それに答えた。
…将臣が一言も話さなかったこと…
それ自体が、カミュの表情に、ある種の焦りを浮かばせた。
…ゆっくりと、そちらに目をやる。
そこに、唯香はいた。
ただ、以前と違っているのは…
今の唯香は、縋るような目を自分に向けない。
そして何よりも、酷く怯えている…!
「…?」
今までの事情を知らないカミュは、その眼差しをまっすぐに唯香に向けていた。
が、それに唯香はいよいよ怯える。
「…お…、お願い…!
…来ないで…、あたしに近寄らないで!」
「…唯香…!?」
カミュが、この反応に愕然となる。
しかしそれと同時に、思い当たることがあった。
…その心当たりから察するに…
「…、将臣、済まない…
唯香のあの症状は…全て俺が原因だ…!」
…そう。
意志は違えど、体が同じなだけに、残っているのだ。
…唯香に攻撃を加えた時の、生々しい感触が…
自らの、この手に。
自分に縋ってくる者に、これ以上ない程の、酷い雑言を浴びせたことも、
苛立ちのあまり、首を強く押さえつけたことも、
窒息死させようと、その唇を自らの唇で塞いだことまで…
全て…よく覚えている。
「…将臣、俺は…」
「何も言うな。お前が悪くないのは、よく分かっているつもりだ…」
将臣が、自らに言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
「…だが、こうなった以上は、多少の責は負って貰うぞ」
「…、俺に一体、どうしろと…」
将臣に、頭ごなしに叱咤あるいは罵倒されることのどちらかを覚悟していたカミュは、この将臣の言葉に、些か戸惑いを覚えながらも問い返した。
「…お前は俺に…、何をしろというんだ?」
「妹がこんな状態だと、俺ひとりの手には余る。…唯香の世話を、お前にも頼みたいが…
構わないか? カミュ」
「…将臣…、悪いが、それは無理だ…」
カミュは、自らの犯した所業を省みながらも、後味悪く答える。
たとえ薄情だと罵られようと、当の唯香本人が、自分を酷く怖がっているのだ。
これでは介入はおろか、こちらが同じ場所にいること自体、居たたまれない。
「…俺は…、こんな状態の唯香に、更なる追い打ちをかけたくない…
…もう…これ以上、追い詰めたくはないんだ…!
唯香をこんなふうにしてしまったのは、他ならぬ俺自身なのだから…!」
悲痛に訴えると、カミュは絶望的に頭を抱え込んだ。
…自分には、明日の日没までしか時間がない。
なのに、当の唯香がこれでは…!
自分が一体、何のために父親に頼み、期限付きで自らの主人格を押さえ込んでまで、人間界に来たのか…
その意味が、分からなくなる。
「…、お前の気持ちは分からないでもないが…」
将臣が口を挟む。それにカミュは空虚な瞳を向けた。
「…妹がこのままの状態だと、困るのはこちらも同じだ。…多少、手荒くとも構わない。カミュ、妹を治してやってくれ」
「!しかし、俺には…」
“無理だ”。
…その、先程までは言えていたはずのたった一言が、何故か出て来ない。
…分かっている。
自分では…壊すだけだ。
…治すことなど、出来はしない…!
これ以上壊してしまったら…
恐らく自分は、己が許せなくなる。
唯香にも、より拒まれてしまう…
…それが…、それだけが…怖い。
「…将臣…」
とうとうカミュは、そんな精神的な不安から…
唯香本人にも、最後まで話すつもりのなかったことを告げた。
「…俺が…俺でいられるのは…
俺がこの世界に留まれる時間は…
明日の日没までだ…!」
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