一夜《ひとよ》

「明日の日没までだと!? 期限がついているのか…!?」


将臣は、珍しく強い焦りと驚きを見せた。

しかし、それはあくまで一瞬のことで、次にはすぐにそれは普段の状態に戻る。

続けてその頭脳が、この状況下においての、最善の方法を考え始めた。


…そして、ついにその結論は弾き出された。


「…カミュ」


将臣は低く、噛み締めるように呼びかける。

それにカミュは、その紫の瞳を向けた。


「…何だ」

「…、時間がないのであれば、もはや強行手段でいくしかない…

俺たちはこれから、この部屋を出る。その上で、この場をひとつの空間として、俺とマリィが外から塞ぐ」

「何…!?」


将臣の意図するところが分かったのか、カミュは明らかに顔色を変えた。


「…お…まえは、…お前は…、これ以上、妹である唯香の神経を壊すつもりなのか!?」

「それが最善の策ではないことは、承知の上だ…

だが、カミュ…、お前に時間がないと分かった以上、使える策はこれしかない」


内心の忌々しさを押し殺して、厳しく言い捨てると、将臣はこの部屋から外に出るよう、マリィとサリアを促した。


マリィは、幼いながらも事の次第を忠実に判断しているのか、将臣に逆らうこともなく、ひたすら俯き加減に押し黙ったまま、サリアと共に移動する。


…しかしその、カミュによく似た瞳には、その兄と全く同じ感情が浮かんでいた。


「…将臣…」


カミュが戸惑いを隠せずに声をかけると、将臣はその感情を…、否、己の感情そのものをも振り切るように、伏せ目がちに視線を逸らした。


「…これで壊れるようであれば、所詮はそれまでだということだ…

例え結果がどうなろうとも、俺はお前を責めはしない。

…だから…カミュ、決して後悔のないように、自らの思いつくままに…

好きなように行動してくれ」


それだけを話すと、将臣は、カミュが再び声をかける前に、部屋から姿を消した。

すると、それと前後する形で、彼の姿が吸い込まれた扉の方から、強力な魔力の気配がした。


先程までの将臣の話から察するに、将臣とマリィが魔力を用いることで、二人がかりでこの部屋を空間へと変え、何者をも立ち入れないようにしたのだろう。


…だが。


カミュは扱いに困って、深く息をつきつつも唯香を見つめた。


「…どうして、あたしを見るの…!?」


唯香の表情は、目の前に実在する恐怖に歪み、体は寒気を覚えているように、かたかたと震え続けている。

…何よりも、誰よりも縋れる存在であったはずの兄・将臣が、この場からいなくなったことで、唯香のその様は、置いていかれた子供のそれに酷似していた。


…そんな中で、カミュは出来るだけ静かに、唯香に呼びかけた。


「…唯香」

「!? あたしの名前…、さっきから、ずっと貴方は口にしている…

何で知ってるの!? どうして貴方は…あたしの名を呼ぶの…!?」


唯香は、カミュに怯えながらも、突き放すように質問をぶつける。


「……」


カミュは、唯香の反応を見るために、動くこともなく、ただ黙り込んでいた。

しかし、答えが返って来なかったのと、言いようのない不安に捕らわれている唯香は、ヒステリックなまでに声を荒げた。


「…どうして答えてくれないの!?

あたしは、貴方が怖くて仕方がないのに!

何で…、どうして貴方はそんなに平然としていられるのよ!?」


…最後の方には、唯香の声に、些かの悲しみが混じる。


「…にい…さん…、将臣兄さん…、お願い、助けて…! どこ行っちゃったの…!?」


絞り出すような声で、ベッドに突っ伏す唯香に、カミュは初めて哀れみの目を向けた。


…そのまま、ゆっくりと歩を進める。


すると、自らが恐怖している者の接近に気付いた唯香は、瞬時に身を硬くすると、目に見えて警戒した。


「近寄らないで!」


…その艶やかな唇から、またも拒絶の言葉が告げられる。

しかし、カミュは退かなかった。

…なおも歩を進める。


「!い…、いや… 嫌ぁあああぁあっ!」


金切り声にも近い悲鳴をあげた唯香は、もつれる足で、それでも部屋の隅まで逃げた。

しかし、それに気付いたカミュは、いきなり足を動かす速度を速めた。


…刹那のうちに、部屋の片隅に唯香を捕らえる。


「!…なん…で…」


この時の唯香は、壁に両手をつきながらも、ようやく立っている状態だった。

…その綺麗な瞳は、先程を遥かに上回る、恐れと怯えに満ちている。

そんな唯香の、変わり果てた様を見て、カミュが低く呟いた。


「…お前が、俺に恐れを感じるのは仕方がない…」


深い、海の底のような…

深海を思わせる呟き。


…カミュはただ、術もなく目を伏せた。


「俺はお前を、この手で殺めようとした…

本来なら、罰を受けるべきは俺だ…

唯香、お前が業を背負うことはなかったはずなのに…!」


瞬間、カミュの瞳が、深い悲しみに彩られた。

その紫の瞳は、別段意識せずとも、目の前にいる怯えた者を、苦もなく映し出している。

…しかし、今のカミュには、それすらも呪わしかった。


…苦しめる為に来た訳ではない…

唯香のこんな姿を見る為に、自分は人間界に戻ったわけではないのだ…!


こんなものを見るくらいなら

目など見えなくていい

潰れてしまって構わない

…この姿を

こんな姿を見せつけられるくらいなら…!


「…唯香…」


今だ怯え続け、体を震わせる唯香に、カミュは出来得る限り優しく呼びかけた。

それに、神経を尖らせている唯香は、過剰なまでに反応する。


「…な…、なに? 何か用…!?」


びくりと、大袈裟なまでに肩を震わせて、唯香が恐る恐る問う。


「…お前が、俺を忘れていても…大丈夫だ。

俺がお前を覚えている」

「!?」


唯香は瞬間、自らが目の当たりにしたものと、精神が訴えるものとのあまりの違いに、はっと口元に手を当てた。


「…え…っ!?」


今までカミュを恐れ、疎み、拒み続けてきたその瞳に、ここに来て初めて困惑の色が見えた。

それに敏感に気付いたカミュは、自らの無力さをひとり噛みしめると、寂しそうに微笑んだ。


…この時、カミュには、唯香に対して芽吹いた、このこだわりの感情が、一体何なのか…はっきりと分かっていた。


拒まれるのを承知で、それでもカミュは、そっと唯香を抱きしめた。


「!う…あぁあぁっ!」


途端に、獣のように暴れる唯香を、カミュは強く抱きしめたまま、ゆっくりと目を閉じた。


…まるで、自らの業を抱え込み、受け入れるかのように。


結果、それによって唯香が暴れ…

喉が破れるのではないかと思うほど、悲痛に声をあげ、もがいても…

カミュは、自らの切ない程に狂おしい感情を隠すこともなく、ただ、されるがままになっていた。


「唯香…、唯香、すまない…!」


半狂乱の唯香を、壊れてしまうのではないかと思えるほど、更に強く抱きしめながら、カミュはその耳元で何度も彼女の名前を呼び、繰り返し謝罪していた。


…それが唯香に聞こえていようといまいと関係ない。

今のカミュには…ただ、ひたすら呼びかけずにはいられなかった。


しかし、そんなカミュの心境とは裏腹に、唯香はもがき、暴れながらも、どうにかしてカミュから逃れようとする。


「…あ…、…あ…ぅ…」


立て続けに恐れを抱くものを見せつけられ、それによって、更に植え付けられた真なる恐怖に、唯香の神経はもはや限界に近づいて来ていた。


…湧き上がる恐怖を、言葉に変えることも出来ずに、唯香は呻き、怯え続けていた。


この堂々巡りの反応を見る限り、いつまで経っても、この症状は治まりそうもない。


それをカミュが、憂える瞳で察したその時…、不意に、唯香の体の力が抜けた。

それにカミュは、自らの腕にかかる負荷…、いわゆるひとつの重さから来る感覚によって気付く。

カミュが唯香にその紫の瞳を落とすと、唯香は、自らの心の闇を表情に残したまま失神していた。


「…、唯香…」


…例え出会ったばかりでも、今まで何度呼んだか知れないその名を再び呼びながら、カミュはそっと唯香の頬へと触れた。


唯香のその表情は、精神的な苦痛によって歪み、青ざめ…、出会った頃の快活さは影すらも見ることは出来なかった。


「……」


無言のまま、カミュはその手を、ゆっくりと滑らせるように上に移動させた。

…その指に、艶やかでしっとりとした、唯香の髪が触れる。

それに、半ば指を埋めるようにしながら、顔にかかっている部分の髪を、そっと避けると…


…カミュは唯香に、自らの意志で、静かに口づけた。


失神しているせいか、唯香は抵抗することもなく、それを受け入れた。

カミュのその紫の瞳が、ゆっくりと閉じられる。

…唯香を抱きしめていた方の手に、思わず力がこもった。



乾いた喉を潤すように、更に、深いキスをする。



唯香が息苦しさに、呼吸を乱れさせた頃、カミュはようやく唇を離した。

その当の唯香は、呼吸が少し楽になったことで、その表情を先程よりも、少しではあるが和らげている。


…当然、カミュもそれに気付いていた。

その表情は頑なで、迷いに迷っていた何かをようやく決心したような、強い意志と覚悟が浮かんでいる。


…自らの心境が示すままに、カミュは唯香の体を軽く抱きかかえると、大事そうにその全てを見つめたまま、ベッドの傍らまで歩を進めた。


そっと、その体をベッドに横たわらせる。

…この間もカミュの視線は、ただの一度たりとも唯香から離されることはなかった。


「…唯香…」


ふかふかとしたベッドにその体を預ける唯香を見つめたまま、カミュは、ぽつりと名を呼んだ。


…唯香は、まだ目覚めることはない。

だが、明日の日没が過ぎてしまえば、封じられている本来の人格が甦る。

そうなったら自分は、こうして面と向かって名を呼ぶことすら、叶わなくなる…!


そこまで考えたカミュは、次にはその奥に秘めた感情を全て曝け出すと…

静かながらも、狂おしいほど悲痛に呟いた。



「…例え、お前の記憶が戻ろうとも…

その時、俺は…、お前の側にはいないだろう…

こんな手段でしか、この存在を残せない俺を許してくれ…!」

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