映す者
唯香は、言っていて己の感情を振り返させられていることを、頭の片隅で認識していた。
…するとカミュは、始めは意表をつかれたかのように唯香の出方を窺っていたが、唯香の目から涙がこぼれ、怒りの感情が僅かに緩んだのを見ると、前にも増して冷たく唯香を見据えた。
「…よくもそれだけ好き放題言ったものだな…
低劣な人間ごときが!」
カミュが、侮蔑と憤怒の入り混じったその言葉を放ったと同時…
彼の左手が、光さながらの速さで、的確に唯香の喉元を捉えた。
「…っ!」
勢い余った唯香の体は、近くにあった木に叩きつけられ、結果的にはそれを背にする格好となる。
「!う…」
心の準備もないままに、いきなり強力な攻撃を加えられ、唯香の息が詰まった。
その唯香の体が、逃げ場を失ったことを察したカミュは、左手で唯香の首を拘束したまま、その耳元に顔を近付け、息も荒く呟いた。
「…もう忘れたのか? 貴様を今まで生かしておいてやったのは、カイネルの口添えがあったからだ…
だが、俺に対してそこまでの口を叩くからには、もはや死ぬ覚悟は出来ているのだろう?」
「!カミュ様っ…」
予想外の事態に、勢いに呑まれ、傍観していたはずのカイネルが声をあげる。
しかしカミュは、そんな彼の、態度に潜んだ甘さを、すぐさま指摘した。
「カイネル! 六魔将の貴様が、人間などに下らない情を移すな!」
「!…」
その時点で、カイネルは既に声も出せずに怯んでいた。
カミュの、その美しい紫の瞳は、今は人間に対する憎しみで濁り、そこに怒りの要素が加味され、血に飢えた肉食獣の目を思わせるものに変化している。
その瞳でカミュは、目の前の唯香の姿を捉えていた。
…忌々しい人間の姿を。
「!…う…っ」
唯香が苦しげに呻く。それを聞いたカミュは、更に唯香の耳に顔を近付け、囁くように呟いた。
「…苦しいか…?
そうだ、もっと苦しめ…
このまま窒息死させてやる…!」
カミュは、変わらず左手で唯香の首を押さえつけたまま、次には何を考えたのか、突然、唯香の唇を自らのそれで塞いだ。
その時、辛うじて口で息をしていた唯香は、今のところ唯一の手段である呼吸口を、これによって完全に塞がれた。
「!」
唯香は苦しさのあまり、目を大きく見開き、カミュから逃れようと必死にもがいた。
しかし、カミュの左手の力は強く、相手は片腕であるはずなのに、唯香のその両腕の力をもってしても、びくともしなかった。
爪を立てても、指を引き剥がそうとしても、その全てが徒労に終わった。
…自分の血の気が引き、顔色が青ざめていくのが、今の唯香にははっきりと感じ取れた。
それでも、霞んだ目でようやくカミュを見ると、彼は残虐性を露にし、唯香の人格などまるで眼中にないかのように、ただひたすら、その咥内を弄んでいた。
…それによって、いよいよ唯香の意識が薄れかかってきた、その時。
「…!?」
カミュは、自分の感覚を意図的に刺激する、“何か”に反応し、即座に唯香から離れた。
それによって、ようやく空気を得ることを許された唯香の体は、酸欠状態が長く続いたため、まともに立っていることも出来ず、その場にずるずると崩れ落ちた。
しかし今のカミュには、それを確認する余裕も、先程までのように、一介の人間を相手にする暇も無かった。
…屋敷の方から、強大な魔力の持ち主が、それを隠そうともせずに現れたからだ。
現れたのは、将臣ただひとりだった。
マリィは屋敷の中に潜んでいるのか、姿を見せてはいない。
将臣が、屋敷に残るように説得したのか、あるいはマリィ自身が、気配の変わったカミュの目的を何となく察し、それを望んだのかは定かではないが、とにかくマリィは、その場にはその姿を見せなかった。
周囲を特有の静寂が浸食してゆく中、油断なくカミュは、自分の中では、“全く唐突に現れたはずの人間”…
将臣に問うた。
「…貴様は、ただの人間か…? それにしては…」
訝しげに将臣を見るその瞳には、乾いた虚無心が反映されている。
その様は、かつて顔を合わせて話し合い、共に食事までした仲だとは、とても思えない。
すると、将臣はその整った顔立ちに、些かの緊迫感を浮かべた。
「…“カミュ”… 俺は以前に名乗ったはずだ。
なのに、俺が何者であるか、分からないと言うのか?」
「…、貴様など知るか」
この答えで、将臣の疑問を一蹴したカミュは、今まで将臣に見せたことのない、殺意の感情をまともにさらけ出した。
そんなカミュの豹変した態度を、初めは警戒げに窺っていた将臣は、次第に何らかの確信が自分の中で育っていくのを感じていた。
「…そうだろうな…
だからこそ、唯香をここまで痛めつけることが出来たんだろう」
言いながら、将臣は唯香の様子に目をやった。
まだ呼吸に難はあるが、命には別状なさそうだ。
そう見てとった将臣が安心したのも束の間、不意に唯香の頭が、がくんと落ちた。
…どうやら、度重なる精神と肉体の疲れから、失神してしまったらしい。
「!唯香っ…」
唯香の体調を危惧した将臣は、それが自らの弱点となることを承知の上で声をあげた。
すると案の定、カミュがその弱みを瞬間的に把握し、指摘する。
「…成る程、この人間が貴様のアキレス腱か…
それ程の魔力を持ちながら、あえて弱い者を抱え込むなど… 愚かだな」
「…その弱い者を、かつてはお前も抱え込もうとしたはずだ。
分からないか? その首筋の刻印は、何故付けられたと思っている…
他でもない、カミュ… お前自身がそう望んだからだ」
「!…な…に…?」
自らの首筋に残る痣…
忌々しい刻印に関する意外なことを聞いて、カミュの顔色が変わり、強張った。
あまりにも予想外なことを聞いて、本来なら、人間に呼び捨て等をされることを極端に嫌い、それに関しては絶対と言っていいほどの拘りを持つはずのカミュが、それを忘れる程に、ひどく驚いている。
…その事実は、将臣に、カミュにとっては致命的ともなる、もう一言を付け足させる隙を生んだ。
「もうひとつ、お前が知らなかった事実を教えてやる。
お前とその刻印を、契約として交わしたのは…、お前が先程までいたぶっていた、そこの人間…
神崎唯香だ」
「…!」
カミュは、声にならない驚きで、茫然としたまま唯香を見た。
が、その目はすぐに、苛立たしくも、針の先のような鋭さを持った彼の意志を、強く見せつけた。
しかし、その一瞬の感情の変化を見逃さなかった将臣が、いきなり、人間では到底持ち得ないはずの規模の魔力を解放した。
それによって、彼の周囲に、自然の理に反した、凄まじいまでの突風が起こる。
辺りの木々は軋み、まだ青く、落ちるはずのない葉までもが、その勢いに巻き取られて宙を踊る。
「!…っ、これは…間違いなく【魔力】だ…!」
その風に、体ごと押されそうになったカミュは、辛うじて踏みとどまり、きつく将臣を睨んだ。
…だが、そのカミュの目には、そんな将臣の様子が、自分の記憶にある人物と、酷く重なって見えていた。
「!…お前…は… まさか、レイヴァン…!?」
名を呼んだことで、彼に関する情報が、感情を食んだ脳内に、ゆっくりと甦る。
…六魔将が
彼の能力は、類い稀な魔力を誇る皇家の側近・【六魔将】の中でも、最も突出していた。
が、周囲の期待を裏切るかのように、彼は突然、かの世界から姿を眩ました。
…その行方は、未だに掴めていない。
そんな彼の影が、何故かこの人間には、はっきりと窺える。
「レイヴァン…?」
将臣が、魔力を抑えようともせずに問い返した。
しかし、それによって我を取り戻したカミュは、次にはただ、笑った。
「いや…、違うな。こんな人間を、あのレイヴァンとだぶらせるなど…失礼極まりなかった」
言いながらカミュは、自らの魔力の規模を、将臣と同じくらいまで引き上げていた。
その魔力の大きさを感じ取った将臣は、状況も忘れて感嘆した。
「さすがに皇子と呼ばれるだけのことはあるな」
「…この程度で感心するな」
誉められても顔色ひとつ変えず、カミュが低く呟いた。
この話からすると、カミュにはまだまだ余力があるのだろう。
…そう察した将臣は、その左手に、とある魔力を集中させた。
何かあるな、とカミュが瞬時に判断した途端、その体は、金縛りにでもあったように、指一本すら動かせなくなっていた。
「!? 何だ…」
自らの体、そして手足を動かす神経に異常を覚えたカミュは、それを解こうと、魔力を両手に集中させようとした。
…だが、その肝心の魔力が、全くといっていいほど発現しない。
「貴様…、何をした!?」
怒りも露に、カミュが吠える。それに将臣は、腕を組むまでの余裕を見せた。
「話し合いの余地はなさそうだからな、先に手を打たせて貰った。
…とはいえ、一方的に攻撃を加える趣味はないからな。お前が手を引くというのなら、すぐにでもこれを解いてやるが」
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