失われた魔力

…“魔力”…、それが、ヒトではないことの証…

…ここは、現在は記憶を無くし、その存在すら忘れられている、カミュの故郷…


“精の黒瞑界”。


暗く、広い空間の中で…

この世界の支配者であり、カミュの父親でもある吸血鬼皇帝・サヴァイスは、玉座に座り、頬杖をつきながら、今は記憶を失っている息子・カミュの様子を窺っていた。


彼の眼前には、彼の膨大な魔力によって作られたらしい、紫色の丸い珠のようなものがあり、その中には、現在のカミュの様子が、リアルタイムで映し出されている。


「記憶を失っているとはいえ、よもや、ライザ以外の人間ごときに情が移るとはな…

愚かしいことだ」


頬杖を解きながら冷笑し、わずかに目を細める。

次にその目が見開かれた時、サヴァイスは、この空間に自分以外の存在が現れ、その場に跪いたことを察知していた。


すると、不意にその女性の声は、空間の片隅から響いてきた。


「──サヴァイス様、畏れながら申し上げます」

「…サリアか」


サヴァイスは、そちらに目もくれずに告げた。

同時に、サリアと呼ばれた女性の頭が、ますます低くなる。


「用件は何だ」


サヴァイスの問いに、サリアと呼ばれた女性は、静かにおもてをあげた。

臆する事なく君主を見つめ、はっきりと自らの意志を告げる。


「サヴァイス様、私見になりますが、私は…

カミュ様をこれ以上、あのような人間共の世界へ置かれるのは、賛同致しかねます」

「…随分と耳が早いな。フェンネルかカイネル、いずれかが口でも滑らせたか?」

「それはカイネルの方ですが… !あ、いえ、そうではなく…」

「分かっている。…それでサリア、お前は一体どうしたいというのだ?」


美しい紫の瞳で、鋭くも射抜くように見つめられて、サリアの心臓が、瞬間、どきりと跳ねた。

が、それをおくびにも出さずに続ける。


「はい。つきましてはサヴァイス様、実は私…、カミュ様がこちらにお戻り頂けるよう、ひとつの策を弄したのですが…

その策を実行するには、どうしてもサヴァイス様の許可が必要なのです。…誠に勝手ながら、その策、実行してもよろしいでしょうか?」

「構わぬ。我に許可を求めるという時点で、大方の見当はついた。…サリアよ、その策を使うことを許可する。試してみるがいい」


サヴァイスの下した許可に、サリアは喜んで立ち上がった。


「有難うございます、サヴァイス様! 六魔将がいち、私、【傀儡かいらい】のサリアにお任せ下さい!」

「ああ。…だが、この策を弄するには、フェンネルとカイネルには事情を話しておく必要がある。そして、その際の口止めも怠るな」

「はい! …では私はこのまま、人間界へ参ります。失礼致します、サヴァイス様」


恭しく頭を垂れると、サリアは魔力によって、瞬時に姿を消した。


後に残ったサヴァイスは、再び魔力で作られた紫色の珠に目を向けた。


…息子であるカミュは、先程までは、人間の青年と食事をしていたようだが、今は何やら、人間の娘といろいろと話をしているようだ。


その様子がふと、彼の脳裏に、似たような風景を掠らせた。



…それは、以前に自分が見た光景…

客観的に見れば、カミュがかつての自分、そして人間の娘が、かつてのライザにあたる。

端から見れば、あの時の自分たちも、確かにこうであったのだろう。

しかし、彼は、いつの間にか懐かしさと憧憬を同時に覚えている自分に、心の中で厳しく鞭をくれた。



…かつての感情などは、もはや感傷でしかない。

今の自分には不必要だ…



サヴァイスは、そんな考えを振り切るように立ち上がり、例の紫の珠を弾くように消すと、隣の空間へ続く、例の扉に目を向けた。


静かに、その扉に向かって歩き出す。


扉の前に立ち、空間を見上げるように、一瞬だけ視線を上に向けると、サヴァイスは、強い魔力で封印されている目の前の扉を、それを更に上回る強大な魔力によってこじ開けた。


…しんとした、静かな闇の空間が、そこには広がる。

唯一の明かりは、上にではなく、空間の中央に設置された、ベッドに横たわっている人物の近くに据え付けられていた。


サヴァイスは黙ったまま、ゆっくりとその人物の近くまで歩を進めた。

ベッドの傍らで足を止めると、紫の瞳をそっと、そこに横たわっている人物へと向ける。


呟くように、彼はその人物の名を呼んだ。



「…ライザ…」



呟いているだけのはずなのに、その声はひどく切なく…そして狂おしい。


そのままサヴァイスは、躊躇うこともなくライザの側に膝をついた。

この世界の支配者である彼が、いくら妻の前でとはいえ、その膝をついたのだ。

彼が自らの伴侶に、どういった感情を持っているのかは、この彼のとった行動に、全て集約されていると言っても過言ではない。


…さて、それによって目の高さを合わせると、彼はそっと、横たわったままのライザの手をとった。

しかしその手は、もはや生きている者のそれではないほど、冷たかった。


「…お前はまだ、目覚めないか…」


彼は、繋いだ手から、その魔力を少しずつライザの体内へと送り込んだ。

それによって、わずかに頬に赤みが差し、その手にも、ほんの少しではあるが、微かな温もりが戻る。


それを確認すると、彼は手を離し、そっとライザへと口づけた。


儀式のような、一連のそれが終わると、サヴァイスは、壊れ物を扱うかのように、ライザの美しい銀色の髪へと触れた。


「…ライザ、お前の息子は今、お前と同じ種族に染まろうとしている…」


手にとった彼女の髪を、さらさらと流し、それによってライザの存在を再確認したらしい彼の瞳には、何かを決意したような、明確な鋭い光が宿っていた。


「…馴れ合いまでは大目に見よう。だが、この世界の皇子である我が息子が、あのような下賤な人間共に染まりきる事だけは、絶対に許さぬ…!」


忌々しく歯噛みし、怒りも露に立ち上がったサヴァイスは、拳を固めてライザを見下ろした。


「…ライザ、特殊な能力を持ち、我が見初めたお前だけは別だ。…だが、他の人間共は、これ以上生かしておいたところで、到底あの世界の為にはならぬ」


サヴァイスは一時、目を閉じたが、ゆっくりとそれを見開いた。


「かつて、お前に懇願され、今までは人間共を生かしておいてやったが…

それもここまでだ。もはや人間を滅ぼすことに異存はなかろう? ライザよ」


サヴァイスは厳しく言い捨て、ライザの方へと視線を向けた。

が、何かに気付いたその眉根が、きつく寄せられる。

その時の彼は、いつになく険しい表情をしていた。


…閉じられているライザの目から、涙が一筋、流れていたのだ。


「何故泣く!? あんな低劣な人間共のために、お前が涙など流す必要はない!」


サヴァイスはこの時、言いようのない、底知れぬ怒りを露にした。

それは態度にも表れ、彼らしくもなく、妻に向かって苛々と言葉をぶつける。

だが、当のライザは反論するでもなく、ただ、静かに横たわっているだけだ。

しかし、それが一層、サヴァイスの苛立ちを煽った。


「──ライザ、例えお前が人間であろうと、今のお前は、立場的にはこの世界の皇妃だ…

なのにまだ、お前は奴らの同胞のつもりでいるのか…

だから人間共に味方するというのか!?」


広い闇の空間に、サヴァイスの怒声が食い込むように響く。

すると、それに反応してか、ライザの目からまた一筋、涙が流れた。


「!…やめろ…」


サヴァイスが言葉に詰まり、怒りが僅かに治まった。


「…もう…泣くな…!」


サヴァイスは、ベッドの上に膝を落とすと、そのまま横たわっているライザの方へと屈み、今度は貪るように口づけた。


「…何故…、どうしてお前は、それ程までに人間にこだわる…!」


荒く呟くと、サヴァイスは、ライザが二度流した涙の跡へも、そっと口づけた。



…それでも、ライザは動かない。

ただ静かに、そこに横たわっているだけ…

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