唯香の目覚め
「深い意味はない。俺が許可したのも、単なる気紛れだ。
…例の傷から、人との繋がりに酷く拘る唯香には、いい話し相手になるかと思ってな」
「それだけで…か?」
「では、どう答えれば満足する?
俺にとっては、それしか答えようがない。付き合わされる方はいい迷惑だろうが…」
淡々と切り返すと、将臣は、今度は違うワインをあけた。
それを新しいグラスに注ぐと、カミュへ勧める。
「改めて、こちらから頼もう。
カミュ、俺の妹…唯香の、話し相手になってやってはくれないか?」
「…ああ。どちらにせよ、この世界に当てがあるわけでもないからな。引き受けよう」
そう答えるとカミュは、その言葉を証明するかのように、将臣からのグラスを受けた。
「すまない…、感謝する」
「遠慮するなと言ったのは、そちらだろう? …ならば、俺に対しても遠慮する必要はない」
はっきりとそう告げると、カミュはワインをあおった。
そのまま横目で、今だにソファーで潰れている唯香の様子を見る。
「…しかし、このお姫様は、いつになったら目を覚ますつもりだ?」
その横目はいつの間にか半眼になっている。
すると、その視線を察してか、唯香が微かに呻いた。
と同時、うっすらと目を開ける。
「…あれ?」
「起きたか、唯香」
将臣が呼びかける。それに唯香は、ようやく気付いたように起き上がった。
「!ま、将臣兄さん…」
「失態だな、唯香。…未成年でありながら客人の前で酒をあおり、盛大に喚いた挙げ句、そのまま勢いに任せて潰れる家主がいるか?」
将臣の、鋭くも厳しい一言に、唯香は反論出来ずに肩を落とした。
「…ごめんなさい」
「分かればいい。だが、お前はもう酒は飲むな。何かと癖が悪すぎる」
「はぁい…」
兄の正論には勝てず、渋々と返事をした唯香は、はたとカミュの方を向いた。
…半ば呆れたような表情のカミュが、そこには居る。
「!カミュ…」
「ようやくお目覚めか。…酒は抜けたのか?」
「え? あ、うん…」
唯香は、戸惑いながらも返事をする。
その、何となくぎくしゃくとした空気を読んだのか、不意に将臣が席を立った。
「唯香」
「!はっ…、はいっ」
「俺は、しばらく席を外す。…その間、カミュと何か話でもしていろ。彼はここに滞在し、お前の話し相手になってくれるそうだ」
「えっ…?」
聞き間違いかと、唯香が思わず問い返すと、将臣はわずかに微笑んだ。
「…お前の我が儘を聞いてくれた、カミュに感謝するんだな」
その笑みを、珍しくも悪戯っぽいものへと変えて、将臣は部屋を後にした。
後に残された唯香は、すっかり事の判断が付きかねていた。
「ど、どういうこと…? いつの間にそんな話になったの?」
「何か不満か?」
カミュの問いに、唯香はまさに飛び上がらんばかりの勢いで跳ねた。
「!う、ううん、不満なんてないけど…」
「…?」
潰れる前とはどことなく変わった唯香の応対に、少なからずカミュは困惑した。
「どうした? 唯香」
「あ、…い、今更だけど…、貴方を無理に此処に引き止めちゃって良かったのかなって…
迷惑じゃない?」
おずおずと、上目遣いに尋ねてくる唯香に、カミュは目を伏せた。
「…それは本当に今更なことだが…」
カミュは一息だけ入れると、間を置かずに話を続けた。
「俺は…それを自らが嫌なものだと判断したなら、例え誰に引き止められようと、とうに出ていっている。
記憶の有る無しは関係ない。俺は自らの意志で、この場に留まることを決めた」
「自分の…意志で?」
唯香の顔が喜びで綻ぶ。それに、カミュははっきりと頷いた。
「ああ。自分の意志でだ」
「…ありがとう、カミュ」
唯香の唐突な礼に、カミュは伏せていた瞳を上げた。
唯香の、屈託のない笑顔が、そこにはあった。
それを見たカミュは、何故か、自分が心から安堵する感覚を得た。
その心情が何なのか分からないまま、カミュはそれを打ち消すように答えた。
「こちらも世話になるのだし、礼などは不要だ。
それよりも、お前… 俺のせいとはいえ、一度は貧血をおこしているんだ。体を回復させ、血を得るためにも、少しでも食事を取ったらどうだ?」
「うん、じゃあ少し食べようかな」
唯香は頷くと、先程自分がいた、カミュの隣の席に着いた。
ゆっくりとフォークを取り、目の前にある野菜サラダを食べ始める。
しかし、とあることに気付いたその手が、ぴたりと止まった。
「…ねえ、ひとつ訊いていいかな」
「何だ?」
カミュが、何の気なしに問い返すと、唯香は話の流れに乗り、そのまま尋ねた。
「…血…って、美味しいの?」
「……」
この質問に、カミュはあからさまに不快な表情を見せた。
憮然とした様子で、それでも問いには答える。
「…それは、お前たちに食べ物がうまいかと問うのと同じ意味の質問だ」
「食べ物と…同じ?」
「ああ。…お前が食べ物を食べるのは、生きるためだろう?
それ故に食べ物はなくてはならない。それと同位にあたるのが、俺にとっての血だ」
そこまで話すと、カミュは、唯香の目の前にあった新しいグラスに、同じく近くにあった、ミネラルウォーターを注いだ。
美しい水の中に、室内の光が蓄積され、煌めく。
「食べ物にも、美味い不味いはあるだろう? …血も同じことだ。そして、得なければ死んでしまうところも、食べ物と血は似ている」
「…そうなんだ…」
呟いた唯香は、俯き加減に何事か考え込んでいたが、やがて顔をあげた。
「ごめん、もうひとつだけ訊かせて」
「…今度は何だ」
さすがにカミュは溜め息混じりだ。
“もしかしたら、この話を続ければ、カミュの怒りを買ってしまうかも知れない…”
何となくそんなことを予測しながらも、それでも意を決して、唯香はカミュに尋ねた。
「あたしの血は…美味しかった?」
「!」
カミュの紫の瞳が、一瞬、大きく見開かれた。
事前に伏線があったとはいえ、明らかに誘導尋問のような状態に嵌ったのが分かったからだ。
「お前の、血…?」
反復するように、その唇から言葉が洩れる。
…そして、五感が思い出す。
あの味、あの匂い、あの色…あの温かさ。
そして、耳脇でわずかに洩れた吐息を…
「そう。あたしの血…、美味しくなかった?」
「…い、いや、そんなことは…」
上擦ったように答えながら、カミュは戸惑っていた。
あの時は、本能ばかりが前面に出ていて、手近な血を得ることしか頭になかった。
しかし、今、改めて問われると、はっきりと分かる。
…あの、血の味は…
「…不味くはなかった」
不味いどころではない。
あの血は、むしろ…
自分が今まで得た血の中でも、恐らくは極上の…、最高級のものだ…!
…記憶が無くとも、それだけははっきり判るくらいに、あの血の味は芳醇で、濃密だった。
すると、そのカミュの答えを聞いた唯香は、当のカミュすらも予測しなかった提案を持ちかけてきた。
「…じゃあさ、カミュ。あたしと約束してくれない?」
「約束? …何をだ」
「この世界では、あたし以外の人間の血は…
絶対に吸わないって」
「お前以外の…血を?」
この、いきなり突きつけられた約束の意味を、カミュは測りかねた。
唯香が何のつもりでこんなことを言い出したのかは、見当しかつかない。
…恐らくは、他の人間に手出しをさせないための先手なのだろうが…
相手の思惑がどうあれ、美味い血の持ち主が、自ら血を差し出すと言っているのだから、こちらとしては渡りに船…
むしろ好都合だ。
「いいだろう。この世界では、俺はお前の血しか吸わない。
…それでいいんだろう?」
「うん!」
作戦成功と、唯香が思わず手を叩くと…
そこはカミュ、しっかり釘を刺すことは忘れなかった。
「だが、そう約束したからには、簡単に貧血をおこされても困るぞ。…たかがあの程度で潰れるようではな」
「!…な」
すっかり墓穴を掘った唯香は、無意識にこめかみを引きつらせた。
次には、カミュが注いでくれたミネラルウォーターを一気に飲み干すと、フォークを構え直し、サラダの野菜をざくざくと突き刺しては口に運ぶ。
「…それでいい。自分から話を持ちかけたからには、今後お前は、俺のために血をたくさん作らなければな」
「!…食べるわよ。食べればいいんでしょ? だけど、食べ過ぎて太って、血が不味くなったって知らないんだからねっ!」
「運動をすれば大丈夫だろう?」
カミュが、しれっとして呟く。それに、唯香はぴくりと反応した。
こめかみは更に引きつり、フォークを持つ手が、わなわなと震えている。
「このうえ、運動までさせる気なわけ!?」
「言い出したのはお前の方だろう」
すっぱりと切り返された唯香が、言葉に詰まり、口をぱくぱくさせると、カミュは、してやったりとばかりに笑みを浮かべた。
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