さよなら風たちの日々 最終章ー4 (連載45)

狩野晃翔《かのうこうしょう》

第45話


               【7】


沈黙が続いていた。言葉を捜しているのだろうか。話す順番を考えているのだろうか。それとも考えをまとめとようとしているのだろうか。やがてヒロミは意を決したように、ポツリポツリと、あれからの物語を話し始めるのだった。

「最初から最後まで、わたしをメチャクチャにしたのは、マリさんなの」

 ときどき嗚咽で言葉を詰まらせながらも、それでもヒロミはあれからの出来事を話す。

「あの人に、ポールが店に来ていることを教えたのはマリさん」

「ポールはわたしが高校生のとき、片思いしていた先輩だということをあの人に教えたのもマリさん」

「それから、あの喫茶店の名前の、ほんとうの意味を教えたのもマリさん」

 ヒロミは、ときには声を詰まらせながらも、たどたどしく、あるときはためらい勝ちに、ぼくと別れてからの出来事を話し続ける。

「あの喫茶店でポールと別れてから、わたしはあの人と結婚しました」

「結婚したあとマリさんはあの人に、喫茶店ポールの名前は、土曜の夜、いつも店に来てくれる高校の先輩の名前だってことを教えてしまったんです」

「その先輩と私は高校のときから付き合っていて、その先輩はよりを戻すため、毎週土曜日に来ていたとも話してしまいました」

「それを訊いて、あの人は変わってしまったんです」

「それであの人はお酒を飲んで酔うと、そのことでわたしを殴ったり、蹴ったりするようになりました」

「赤ちゃんが死産だったのも、そのせいなんです」

 ヒロミは目に涙をため、震える声で言葉を続ける。

「わたし、耐えました。我慢しました。だって悪いのは、わたしだったんだもの」

「あの人に髪をつかまれて、引きずり回されたって、ぶたれたって、わたし、我慢しました」

「引きずり回されながら、何度もぶたれながら、わたしは思ってたんです」

「今、髪をつかまれているには、わたしじゃない。ぶたれているのはわたしじゃない」

「ぶたれているのは、ヒロコって女の子だ。わたしの中にいる、別な女の子だって」

 声がうわずっていた。何度もしゃくりあげていた。それでもヒロミは気を取り直して、ぼくにその続きを話した。

「タバコの火を押しつけられたこともありました」

 

 ぼくは返す言葉がなかった。怒りがこみあげてきた。目頭が熱くなった。そしてヒロミが不憫だった。その原因は、ぼくにあるというのだろうか。ぼくが喫茶店ポールに行くようになったことが、こんなにヒロミを苦しめたというのだろうか。

「でもわたしが痛さでうずくまってしまうと、あの人はやっと我に返るんです」

「そうして、ヒロミ、ごめんね、ごめんねって、泣きながら謝るんです」

「そのあとあのひとは、もうしないから、もうしないからって言って、わたしに優しくするんです」

「だから、わたし、我慢することができました。その暴力に、耐えることができたんです」


 ぼくは言葉を失っていた。返す言葉が見当たらないのだ。こみ上げてくるのは、涙、そしてやつに対する怒りだ。

 あの野郎、あのとき、ボコボコにしてやれば良かった。ダスティンホフマンのようにヒロミをさらって、逃げればよかったんだ。あいつの赤ちゃんができたって訊いても、ヒロミを諦めなければよかったんだ。だって父親は誰であれ、母親はヒロミに違いないからだ。愛するヒロミに、間違いないからだ。


 ヒロミの身体が一瞬揺れた。落ちる。地面に叩きつけられる。

 ぼくは息を吞んだ。心臓が止まりそうになった。最悪の事態が、ぼくの頭をよぎった。けれどぼくは身体が恐怖で硬直しているので、動くことができない。無様な爬虫類のような姿勢のまま動くことができない。それでもぼくは腹ばいのまま、じりじりとヒロミに近づいて行った。匍匐前進ほふくぜんしんの要領だ。

 話させろ。しゃべり続けさせろ。時間を稼ぐんだ。そうすれば気分が落ち着くかもしれない。バカな考えはやめるかもしれない。

 ヒロミを見た。ヒロミは顔を手で覆い、嗚咽をこらえている。感極まったのだ。

 やがて彼女は涙をぬぐい、言葉を続けた。

「それだけなら、我慢できました。お酒さえ飲まなければ、あの人は優しい人だったから」

 それだけなら我慢できただと。やつのひどい暴力を。虐待を。殴られ、蹴られ、髪をつかまれて引きずられ、さらにタバコの火まで押しつけられて、それだけなら我慢できただと。ならばそれ以上、何があったっていうんだ。ここで命を絶つという決心をさせるような、何がおまえに起こったんだ。

 

 ヒロミの背中に何かが見えた。それは決して、空を飛べる翼ではなかった。その正体はみずから命を絶つと決めた人間だけが放つ、妖霊なマイナスオーラだ。

 ヒロミ。早まるな。早まらないでおくれ。頼む。頼むから、ばかな真似はしないでおくれ。



               【8】


 風がそよいでいる。ヒロミの髪が、かすかに風に揺れている。

 雨の心配はない。けれど夜空に、星は見えない。

 雲に覆われた月。そして街路灯と団地の通路照明、窓明かりの反射だけが、かろうじて屋上にいるぼくたちに明かりを届けている。

 静かだ。ヒロミの押し殺した嗚咽だけが、聴こえてくる。手を伸ばせば届きそうな近くにヒロミがいるのに、しかし捕まえることはできない。

 いつだってそうだった。いつだって、これがぼくたちの恋の、現実だったのだ。


 一年くらい前のことです、と前置きしてヒロミが再び話しだした。

「仕事で必要なものをアパートに忘れてきちゃったんで、どうしても戻らなくちゃならなかったんです」

「それで姉妹店の女の子と母にお店を頼んで、アパートに戻ったんです」

 そのあと、ヒロミは唇を噛んだ。くやしいとき、ヒロミがいつも見せる仕草だった。

「アパートに戻ったとき、誰がいたと思いますか」

 ぼくは想像もつかなかったので、ヒロミの次の言葉を待った。

「マリさんがいたの。あの人と一緒に、マリさんがベッドの中にいたの」

 その声は絶叫に近かった。

 そのあともヒロミは何かを言っているのだが、言葉になっていなかった。ヒロミは顔を両手で押さえ、肩を震わせ泣き続けている。声は聴こえない。声を殺して、泣き続けているからだ。

 ぼくの背中に、冷たい汗が流れた。

 夜空が、そして周りの風景が、ぼくたちを中心にぐるぐる回っている。

 ぼくたちの中心にあるもの。それは絶望と言う名の深淵なのだろうか。それとも救いのない、永遠の漆黒なのだろうか。

 マリさんは歌手を目指して地方から上京してきたらしい。彼女はヒロミが高校生の頃から喫茶店を手伝っていて、ヒロミはその頃から彼女を、実の姉のように慕っていたのだという。そのマリさんは、ある歌謡バンドの二代目ボーカリストそっくりだった。だからぼくは初めて彼女を見たとき、絶対本人だと思ったほどだ。

「そのあとは地獄の毎日でした」

「あの人はマリさんと一緒になりたくて、わたしに離婚を迫りました。そして暴力をエスカレートさせました」

「でも、その暴力よりも許せないもの。それはマリさんの裏切りでした」

「信じていたのに。尊敬していたのに」

 ヒロミは心を落ち着かせようとして、しばし沈黙した。そして続けた。

「あの人とマリさんは、京都に行きました」

「京都はわたしとあの人が、新婚旅行に出かけた場所でした」


 もうぼくは、完全に言葉を失っていた。何かを言えば言うほど、その言葉がうつろに思えるからだ。こんなとき、男は女をうらむ。そして女も、女を怨む。この男と女の三角関係の法則は、ここでも生きているのだ。

ヒロミは何かを捜すように、夜空を仰いだ。しかし夜空のその先に、見えるものは何もない。漆黒の暗闇しか、そこには存在していないのだ。

「わたしと離婚すると、あの人はすぐ、マリさんを籍にいれました」

「マリさんもそれで店を辞めたので、店はガタガタになってしまって」

 ヒロミは嗚咽した。それでもヒロミは、何とか言葉を続けた。

「それでわたしもやる気を失くしてしまって、店を父に返しました」

 そこまで言うとヒロミは、また唇を噛んで黙り込んだ。

 ややあって、ヒロミは言葉を続けた。 

 あの二人は今、どこにいると思いますか、とヒロミはぼくに訊ねる。

 ぼくが首を横に振ると、ヒロミは静かに答えた。

「高島平にいるんです。この団地のどこかに、二人は一緒に暮らしているんです」

 ヒロミの目が、光ったように見えた。

 だから高島平だったのか。だからこの団地だったのか。

 その当てつけで、腹いせで、ここで命を絶とうとしているのか。

 謎のひとつがまた解けた。ヒロミはぼくの父親に、板橋に住んでいると言ったこと。それは自分ではなくて、あいつとマリさんのことだったんだ。

 何てこった。ぼくの背中にまた、冷たい汗が流れた。

 ヒロミを見る。語り終えたヒロミの顔は穏やかだった。何か悟りをひらいたような、あるいは達観したような顔に変わっている。そろそろタイムアップなのだろうか。ヒロミの決断のときが、間近なのだろうか。

 無言の時間が流れた。虚無の時間が流れた。ヒロミの目は相変わらず、遠くをさまよい続けている。ぼくといえば、無様な腹ばいのまま、自分の無力さに歯ぎしりしたままだった。

「ヒロミ。おまえは腹いせのために、ここに来たの。あいつらに嫌がらせをしようとして今、屋上にいるの」

 ぼくの言葉にヒロミは、静かに首を振った。

「違います。大好きだったマリさんのそばに、ずうっといたいと思ったからです」

 ヒロミを見た。一瞬、聖母マリアに見えた。死産したわが子を抱きかかえている、聖母マリアに見えた。聖母。神。守護神・・・

 そのときぼくの脳裏に、啓示があった。稲妻のような、啓示があった。

 言葉が降りてきたのだ。その降りてきた言葉でぼくは、神の存在に気づいたのだ。神はいたのだ。意外な姿でぼくたちを見守る、神はそこに存在していたのだ。

 ぼくは降りてきたその言葉を、ヒロミにぶつけることにした。

 降りてきた言葉。それはぼくが最も得意とするその場逃れのウソ、方便だった。

今回のそのウソ、方便をぼくは、頭の中で何度も反芻はんすうし、組み替えてみた。大丈夫。どこにも齟齬そごはない。破綻はたんする箇所もない。

 あとはそれを、ヒロミが信じるかどうかだ。いや、たぶんヒロミはそれを信じるだろう。ヒロミは人を疑うことを知らない女だ。ウソを見抜けない女だ。だからヒロミはあいつの戯れ言に、惑わされてしまったんだ。

 ぼくは心を落ち着かせ、ヒロミに言った。

「ヒロミ。おまえは気がつかなかったのか」




                           《この物語 続きます》





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