クロスオーバー

根津 秋

第1話

クロスオーバー 

                            根津 秋 

                           

雨が降っていた。予想外の雨で、傘を持っていなかった。

「天気予報のバカ」小声で言った。

昇降口で、少し待っていたが、雨は止みそうになかった。

仕方がない、雨の中に飛び出そうとした時、目の前に傘が差し出された。

「僕、家近いから」古ぼけたビニール傘だった。

「捨てちゃっていいからさ」

「あの・・・」

「じゃあね」

私が何かを言う前に、走って行ってしまった。

背中を追いかけていると、校門を出て、右に曲がり、そのまま走って行ってしまった。

その時は、誰かわからなかった。


僕は、中学三年生で、サッカー部に所属していた。特に活発な部活でもなく、中の下のレベルのチームだったが、仲間がいたので、楽しかった。

サッカーである必要はなかったが、運動はしたいと思っており、とりあえず、サッカーをしていた。

 体も比較的小さく、特に突出した能力のない、中の下の選手だった僕は、試合には出してもらえてはいたが、中心選手ではなかった。

 僕たちの中学校には、所謂、ヒロインがいた。僕と同学年で、陸上部短距離選手の渡瀬綾菜だ。

勉強もスポーツも優秀、誰にでもやさしく、見た目もかわいい。同性にも人気のある、典型的なヒロインだ。ショートカットの彼女は、とてもまぶしかった。

 僕は、渡瀬綾菜を知ってはいたが、クラスも違い、特に話す機会も無かった。

三年生の体育委員で初めて一緒になった。


「では、運動会後の、片付け確認の担当を決めたいと思います」

後片付けが、きちんとできているか、見回って確認する担当だ。最後の最後の担当の為、不人気だ。

手を挙げる人はいなかった。遅くなりたい訳ではないが、遅くなって、多大なる不都合も無いので、誰かがやらないといけないと思い、消極的ではあったが、手を挙げた。

「お、中条、やってくれるか」体育委員会の担当の先生が言った。

「やりたい訳は無いですが、一年生、二年生にやって貰うのは、悪い気がしますので」

「おー素晴らしい、拍手、拍手」ぱらぱらと、拍手が聞こえた。


「では、誘導の担当はこちらで打ち合わせします」体育委員会の司会者が言っていた。

「あれ、このしおり、ページが抜けてる」渡瀬綾菜が、自分のしおりを見ながら言った。

「ごめん、しおり見せてくれる?」話し掛けられた内に入るか微妙だったが、初めて話し掛けられた。

「いいよ、はい」

「ありがとう、うーん、やっぱり、抜けてるね」

内容の無い会話なのに、かなり緊張してしまった。

 委員会が終わり、昇降口で靴を履いていると、渡瀬綾菜がきた。

「さっきはありがとう」渡瀬綾菜が言った。

「いや、いいよ」

軽く会釈をして帰ろうとしたが、なんとなく歩くペースが一緒になり、校門まで並んで歩いた。僕が左側、渡瀬綾菜が右側だった。

僕は、少し緊張してはいたが、校門までと思っていたし、さっき会話もしたので、大きな緊張ではなかった。僕は、校門でもう一度会釈をして、帰ろうと考えていた。

校門に着き、右肩越しに会釈をし、帰ろうとした僕に、「私もこっちなんだ」と、右を指で差しながら言ってきた。

僕は、かなりドキッとしたが、努めて冷静に、「ああ、そうなんだー」と、少し上擦った声で答えた。

「真斗君は、サッカー楽しい?」渡瀬綾菜は聞いてきた。

僕が、サッカー部に所属していることを、知っていることに驚き、「真斗君」と言われたことにドキッとした。

「うーん、練習はきついし、試合には勝てないし、でも楽しいよ。仲間もいるしさ」考えがまとまらなかったが、とりあえず、答えた。

「へー、サッカー好きなんだね、でも、好きだから、サッカーやってるんだから、あたりまえか。ごめんね」

なんだかいいように解釈してくれてるなと思い、むず痒くなった。

「次の試合は来週でしょ?これが最後の大会だし、勝てるといいね」

「うん、点は陸が取ってくれるから、おれたち中盤の選手が、守備とのバランスを取って、点を取られなければいいんだけどね・・・」僕は、少しでもかっこよく見られたいと、知ったかぶりで、専門的な言葉を選んで答えた。

「でも、蜂谷君が、前線でもっと守備してくれた方がいいと思うんだよね」渡瀬綾菜は、さらに専門的に返してきた。

蜂谷陸は、僕の幼馴染の親友で、誰もが認めるサッカー部のエースだ。僕たちのチームは、陸のワンマンチームだ。

陸は、地区の選抜選手にも選ばれていた。陸が、選抜の試合で不在の際、僕たちのチームは、下の中のチームとなった。 

なるほど、渡瀬綾菜は、陸に興味があって、サッカーを勉強してるんだな、僕は理解し

た。これ以上サッカーの会話を続け、墓穴を掘りたくなく、会話を変えた。

「渡瀬さんは、都大会にでるんでしょ? すごいよね」

「知ってくれてるんだ?」

「だって、都大会に行ける部活とか、個人は全校集会で発表されるじゃん」

「なんだ、大勢の中の一人としての認識かー」

「でも、まあ、いいか。頑張るから、応援してね。都大会も来週なんだよね」

「うん、応援するよ」

 

「私、こっちなんだ」

このミラーの角が、渡瀬綾菜と、僕の家の分かれ道だと知った。

「そうなんだ、僕はこっちなんだ」

「じゃあ、またね。お互い、来週は頑張ろうね!」

ブイサインを見せてくる。照れてしまって、僕には、ブイサインはできなかった。

「うん、またね」辛うじて、笑顔はできたと思う。

他愛のない、社交辞令的な会話の中で、少し淋しく思いながら、振り向いてミラーを見ると、ミラーの中で、渡瀬綾菜が手を振っていた。僕も、ミラーに向かって小さく手を振り返した。


翌日の練習で陸が言った。

「昨日、渡瀬と一緒に帰ってたろ?」

「ああ、委員会で一緒になって、家の方角が一緒だったんだよね。知らなかったけど」

「なんで?」

「いや、校門のとこで、ちらっとお前たちを見かけてさ、なんか、楽しそうだなーって。おれんち逆だし、いいなーって思ってさ」

人気者の陸も、渡瀬綾菜には興味があるのか・・・。そう思ったが、渡瀬綾菜がサッカーに詳しいのは黙っていた。

陸に楽しそうと言われ、周りからはそう見えるのかと思い、うれしくなった。でも、僕は、渡瀬綾菜と仲良くなりたいと思ってはいたが、実際にはなれないだろう、とも思っていた。渡瀬綾菜のような子は、陸みたいなやつと、仲良くなるものだと思っていた。

委員会は月一回の為、僕が、次に渡瀬綾菜と一緒になれるのは、一か月後だ。


一回戦、陸の二得点で勝った。

同日の二回戦、陸が先制点を挙げてくれた。

勝てると思ったが、中盤の選手と、ディフェンスの選手の連携ミスで失点、その後,僕のファウルで、相手に直接フリーキックを決められてしまった。

ミスを取り返そうと必死だったが、時間ばかりが過ぎて行った。

これで三年間が終わってしまうのかと、考える暇さえ無いくらい、あっけなく試合は終わってしまった。

中学三年間、楽しい仲間と、それなりに頑張ったサッカー。

それが終わってしまうことが、とても悲しく、とても淋しかった。

社交辞令で話した、渡瀬綾菜の都大会の事は、まったく覚えていなかった。


翌日の昼休み、渡瀬綾菜が僕のクラスまできた。

「昨日の試合、惜しかったね」

「うん、せっかく陸が取ってくれたのに、おれのせいだよ、ファウルしっちゃたからさ」

まだ一回しか話したことのない僕の所にきて、昨日の試合の話をするなんて・・・なんで試合の結果知ってるんだろう?不思議に思った。

「どうして僕の所に?」

「え?この間話したから、もう友達じゃん」そういう考え方をしたことがなかった。

「都合悪い?」

「いや、そんなことないけど・・・」なんで僕?

「でも、みんな一生懸命やってたよね。これで引退だね。真斗君は、高校でもやるの?サッカー」

「うーん、どうかな?やろうと思うんだけど、まだ決めてはいないんだ」

「ふーん、そうなんだ。やった方がいいよー、私も、陸上やろうと思ってるんだ」

「そりゃ、渡瀬さんは、実力あるんだから、やった方がいいけど、僕は、別にうまくもなんともないしさ」

「えー、そんなことないよ。真斗君も頑張ってね。ブイ、ブイ」ブイブイと言いながら、ピースサインを向けてくる。

「蜂谷君は、サッカーの強い高校に行くのかな?」なるほど、陸と仲がいいからか。情報収集だな。僕は理解した。理解はしたが、陸とは友達じゃないのかな?少しのプラス材料を探すくらいはいいだろうと思った。

「いくつか、来てくれって高校があるみたいだよ、全部は知らないけど」

「ふーん、そうなんだ、あっ、そういえば、都大会応援してくれなかったでしょ?」

一瞬、何のことかわからなかったが、昨日の試合の日、渡瀬綾菜は都大会に出ていた。

「ああ、ごめん、自分たちの試合の事しか考えてなかったよ。なんで試合の結果知ってるの?」

「なんでって、私は見に行って、いっぱい応援したんだよ」頬を膨らませてそっぽを向いた。どうやら、サッカーグランドと、都大会のグランドがすぐ近くだったようだ。

「ああ、そうなんだ、ごめん。会場が近いなんて知らなかったんだよ、なんで知ってたの?」

「学校の掲示板に載ってるよ、知らないの?」そんなもの、見たことがなかった。

「知らなかったよ、それで都大会はどうだったの?」

「準決勝敗退、関東大会には行けなかったんだ。少し、ひざが痛くてさ・・・。最後だったのに・・・。残念だよ」

弱音、言い訳、そんなふうに聞こえたが、渡瀬綾菜は、僕よりも、陸上を一生懸命やっていたので、悔しいんだろうなと思った。


学校は後期に入り、委員会も終わり、受験勉強に追われる日が始まった。

塾にまで行かされるようになり、自由時間が無くなり、陸やサッカー部の仲間たちと遊ぶことも少なくなっていった。


「陸は学校どうすんの?」昼休みに聞いた。

「ああ、いくつかあるんだけどさ、東京の強いところは部員も多いし、地方だと寮になっちゃうじゃん、それも少し厳しいかなってさ。そんなとこ行ってさ、もし、怪我でもしたらどうしようかとか、だったら、普通に勉強して受験しようかなとさ、その場合、大学の進学率とか気にするとさ、すげー考えちゃうんだよね。まだ、サッカーで何とかしようって決断はできないんだよね・・・」

僕は、急に不安になった。

僕は、まあ、頑張って勉強して、なんとか入れそうな近くの学校に入って、なんとか適当な大学に入って・・・と、僕はその程度の認識だった。同じ学年で、同じ部活で、親友だと思ってたやつが、僕より二歩も三歩も先を考えていた。その事実に戦いた。


 それでも、僕も、僕なりに頑張った。親には迷惑をかけるが、第一志望の私立高校に行かせてもらうことになった。大学の付属高校の為、頑張れば、浪人することなく、大学に行ける高校だ。

サッカー部の仲間も、同級生も、みんな違う学校に進む。当たり前だけど、仲間ともなかなか会えなくなってしまう。そう考えると、とても淋しかった。


卒業式が終わった。

クラスで打ち上げをやり、その後、サッカー部の仲間と、カラオケに行くことになった。

家に帰り、私服に着替えて自転車に跨り、カラオケに向かった。ミラー角を曲がると、反対からくる渡瀬綾菜を見つけた。三か月ぶりだった。渡瀬綾菜も、クラスでの打ち上げが終わった帰りのようだった。

「あ、真斗君、どこかいくの?」

「うん、サッカーの仲間でカラオケ。今帰り?これからどこかいくの?」

「ううん、家でゆっくりしようかなって・・・。陸上部のみんなは、どっか行くみたいだけど」

「行かないんだ?」

「うん、なんだか疲れちゃってさ」

「ああ、そうなんだ、あ、やべっ、遅刻しちゃう、じゃあ、おれ行くね」

「うん、じゃあ、またね」

僕は、渡瀬綾菜の高校を知らなかった。


高校は、雰囲気も良く、ここで学べる三年間に期待を持った。

部活についても、少し考えた。

渡瀬綾菜に言われたからではないが、結局サッカー部に入った。

他の部活も少し考えたが、運動能力に大きな自信のない僕が、今更違うスポーツも考え難く、また、楽しそうな仲間がたくさんいるように見えたので、サッカー部に入った。


新人戦の初戦でなんとか勝った。

二回戦であっけなく負けた。

練習は一生懸命やっていたし、高校入学後、初めての大会だったので、負けはそれなりに悔しかったが、試合後にはほとんどの選手が笑顔だった。

勝てなくても、僕たちは楽しかった。陸のように強豪ではなく、結果は出ないが、それでも僕たちは楽しかった。

いい仲間とサッカーができているなと、実感していた。


練習試合で、僕たちの高校からは少し遠い学校に行った。その学校は、陸上部が強い学校だった。

陸上のトラックで、渡瀬綾菜を見つけた。

久しぶりの彼女は、少し髪が伸びていた。


「お、あの子かわいくない?」仲間が言った。

練習試合の帰りの駅で、渡瀬綾菜が立っていた。

「あれ、陸上の渡瀬綾菜じゃない?俺、中学は陸上部だったんだよね、女子の中では結構な有名人だよ、都大会の常連だったし、真斗と一緒の中学じゃなかった?」

「そうだよ、一緒の中学だった。誰かと待ち合わせしてんでしょ」

仲間たちの好奇な視線と一緒に渡瀬綾菜に近づいて行った。軽く会釈をして、仲間たちと一緒に渡瀬綾菜の前を通り過ぎようとした。

「・・・なんで行っちゃうのよ?久しぶりに会ったのに」

呆然とした僕の背中を、仲間たちが代わる代わる叩いて、大声で話しながら遠ざかって行った。

「ごめん、迷惑だった?」

「いや、そんなことないけど、ちょっとびっくりしちゃって。武蔵野学園だったんだね。陸上強いもんね。今も陸上やってるんだね」

「うん、でも、少し調子が悪くて・・・。中三の都大会よりも、タイムが落ちちゃってさ」  

「そうなんだ、でも、誰だって調子の悪い時くらいあるよ」

「そうだね・・・。また頑張るよ。ね、一緒に帰ろう」

「おれを待っててくれたの?」

「そうだよ、だめだった?」

「いや、待っててくれるなんて思ってなくってさ。会ったのだってすごい久しぶりだし・・・」

「そうだね、真斗君、高校教えてくれなかったし」高校を聞かれた覚えはなかった。笑って誤魔化した。

帰りの電車で、お互いの近況を話した。

「おれの学校知ってたの?」

「うん、知ってたよ」

「周りの子に聞けば、大体わかるでしょ。私、みんながどこに行ったか、大体知ってるよ」

「じゃあ、今日おれが試合に来るってことも?」

「うん、もちろん」

「へー、そうなんだ」

 なんだか恥ずかしくて、無理やり話題を変えた。

「部活はどう?」

「なかなかきついよ、練習しても、タイムは出ないし、足が痛い時もあるし・・・」

運動してれば、どこか痛いのはしょうがないかなと思った。こんな僕にでも痛いところはある。


「私はホラー映画も好きかな? 真斗君は?」

「おれはあんまりすきじゃないかな。怖いじゃん」

「じゃあ、コメディーなんてどう?」

「うーん、あんまり見たことないかな、SF映画が好きなんだよね」

「ふーん、そうなんだ・・・、そういえばさ、蜂谷君はどうしてるの?神津高校に行ったのは知ってるんだけど」当然の質問だと思った。

「あそこは強豪だよ。部員も大勢いるけど、試合には出られてるみたい。選手権の常連高校だから、そこでレギュラーになれれば凄いことだよ」

「ふーん、そうなんだ、頑張ってるね、さすが、蜂谷君だね。でも、真斗君も頑張ってるもんね」

僕と、陸との差は歴然だった。サッカーで本当に頑張っている陸、陸上が強い武蔵野学園で陸上をやってる渡瀬綾菜。渡瀬綾菜から見た僕は、本当に頑張っていると言えるのか。

今日の試合も、一方的な内容で負けた。僕は少し恥ずかしくなった。しかし、高校で部活をやっていて、本当に頑張っていると言えるやつが、どれほどいるのか。

本当に頑張っているやつは一握りで、後の残りは、僕のように、楽しむ、仲間を作る、そんなスタンスでやっているんだと無理に思い直した。

このスタンスが間違っているとも思えなかったし、僕だって、サッカーの実力はあまりないけど、適当に手を抜いてやっているつもりも無かった。練習も、試合も、一生懸命やっている。


 家の近くまで一緒に歩いた。電車の中で部活の話をしてから、なんとなく、会話が少なくなっていた。

 ミラーの角まできた。「また」に繋げる何かを見つけ出しておきたくて、一生懸命考えた。浮かばなかった。

「じゃあ、またね、サッカー頑張ってね」

「うん、じゃあ、またね」

せっかく待っててもらったのに、何も浮かばない。

振り返り、ミラーを見たが、渡瀬綾菜の背中が見えただけだった。

卒業アルバムを見れば、渡瀬綾菜の電話番号は載っているが、電話をしてもよい理由も無く、また、現実的な用事も特に無かった。僕は、「また」の機会をどう作ればよいかわからなかった。


久しぶりに、陸が遊びに来た。一か月ぶりの休みだと言った。

「部活はどう?」

「かなりきついね。でも、楽しいよ。レベル高いし。ただ、少し伸び悩んでて」強豪チームの厳しい練習を、楽しいと言える陸が羨ましかった。

「お前でも伸び悩むとかあんの?」

「当たり前だろ、毎日新しい壁にぶつかってるよ」

「だから、お前の意見を聞こうかなと思ってさ」

「おれの意見? おれの意見なんて聞いてもしょうがないだろ」

「うーん、そうか?まあ、とりあえず、今度試合見に来てくれよ」僕の意見が参考になるとはまったく思えなかったが、「うん、わかったよ」陸の貪欲さに舌を巻きながら言った。

「最近、中学の仲間と会った?」僕は聞いた。

「いや、まったく会ってない」

「お前は?」

「おれも会ってないな、みんな、違う高校行っちゃったからなぁ」

「あ、でも、おれ、この間、渡瀬を見たな。おれが行ってる整形外科の近くで。見ただけだけど」突然出てきた名前に少しギクッとした。

先日の練習試合の帰りの事は、陸には言ってなかった。

「なんか、ギクッとしてねえか?」僕は慌てて「してないよ」かぶりを振った。

「渡瀬も大変らしいな、なかなかいいタイムが出ないって、なんでか、おれの学校の陸上部のやつが言ってたよ。どういう繋がりなんだろな」繋がりはわからなかったが、渡瀬綾菜の状況は、よくなってないんだな、ということはわかった。

 

 次の日曜、たまたま、陸の試合が学校の近くであったので、チームメートの隆哉と一緒に見に行った。

隆哉は、チームのエースで、ポジションも陸と一緒だったので、一緒に行こうと誘ってみた。

「蜂谷の試合見れるんでしょ?すげー楽しみ」

陸は選抜の選手でも、中心選手だったので、有名人だった。隆哉も、陸の事を、一方的に知っていた。

「うん、あいつは凄いからね」陸と親友なのが誇らしかった。


 中学の部活を引退してから、まだ十一か月、陸のプレーは、中学の時のそれとはまったく違っていた。

ドリブル、パス、シュート、体の強さ、視野の広さ、持久力、どれをとってもレベルが数段上がっていた。


「あいつ、まじスゲー」隆哉が言った。隆哉は、かなり影響を受けたようだった。

「中学からあんな感じ?」

「いや、高校になって伸びたんだと思うよ。中学の時は、あそこまでではなかったよ」

「プロになれるんじゃないか?」

「それも考えてはいるんだろうけど、勉強頑張りたいみたいなことも言ってたし」

「勉強もできんの?そりゃまたスゲーな、まあ、おれたちも同学年だし、もう少し頑張ってみようぜ」隆哉が言ったが、どんなに頑張っても、陸のようにはなれないとわかっていた。


 陸から電話がかかってきた。

「今日、見に来てくれたんだろ?どうだった?」

「どうもこうも、レベルが高すぎて、なんも言えねーよ」

「ふーん、そうか、でも、なんかあったら言ってくれよな。なんでもいいからさ」

「うん、わかった、考えとくよ」

何も言えないだろうと思っていた。


隆哉は張り切っていた。

積極的に練習をして、声を出していた。

二、三週間頑張ったくらいで、うまくなるわけはないことは、隆哉もわかっているはずだけど、練習後の隆哉は、上機嫌だった。

自分で頑張ったと思っているんだな、と思った。

どんなに頑張ったって、陸のようにはなれないと、隆哉を冷ややかに見る自分と、僕も頑張ろうかな、と思っている自分がいることに気付いていた。


 武蔵野学園とまた練習試合をすることになった。

試合前、僕は渡瀬綾菜を探したが、グランドにはいなかった。

試合には負けた。前回同様、三試合して、三試合とも負けた。

結果は負けだが、試合内容はよかった。ここの所、隆哉が率先して練習し、僕も少し頑張って、他のチームメートも、それにつられて、いつもよりは練習をするようになった結果かな、と思った。しかし、陸との差は相変わらず歴然だった。

隆哉は、悔しがりながらも、少しの手ごたえを感じているようだった。

「前回よりはよかったろ?」

「うん、前回よりはよかったよ」僕は正直に言った。隆哉は嬉しそうだった。


試合の帰り際に、渡瀬綾菜を見つけた。

渡瀬綾菜の髪は、また伸びていた。

 かなり緊張しながら、仲間と駅まで歩いたが、渡瀬綾菜はいなかった。やはり、「また」はないのかと、淋しく思った。

 

監督も頑張ってくれているのか、最近練習試合が増えた。

 勝ったり、負けたりで、なかなか結果は出なかったが、隆哉の頑張りが凄かった。

下の上のチームが、中の下になった。

負けた練習試合の後、悔しがるチームメートが増えた。

勝った試合の、良かった点、悪かった点を、話し合う機会が増えた。

負けた試合の、良かった点、悪かった点を、話し合う機会が増えた。

隆哉の頑張り、チームメートへの影響力を、尊敬し始めていた。


「隆哉、最近すげーな、どうしちゃった?」

頑張れる力の源を知りたかった。

「実はさ、お前には内緒って言われたんだけど、まあ、いいか。おれ、お前と蜂谷の試合見に行った後、蜂谷に会いに行ったんだ」

「最初はさ、なんだこいつみたいに見られたけどさ、お前の友達だって言ったら話してくれてさ」寝耳に水だった。

「おれさ、ちょっと興奮しててさ、どうしたら、うまくなれる?って、すげーバカなこと聞いちゃったけど、真面目に答えてくれたよ」

「普通はさ、頑張って練習するとかって答えるじゃん、でも、蜂谷はさ、毎日壁を超えることって。何の事かって聞いたらさ、少しでいいから、昨日の自分を超えるんだってさ。超えることに、チャレンジするんだって。毎日の練習を、そういう気持ちを持ってやるんだって」

「最初は、すげー恥ずかしいこと言ってんなって思ってよ、わかった、わかった、ありがとうって帰ろうとしたんだけど、蜂谷はさ、お前にはわかってると思うけどって言ってたよ」

「そんでさ、おれも寝るとき考えたよ。昨日の自分を超えればうまくなれるって、綺麗事のような理屈はわかる。理屈はわかるよな?でも、それを常に持ってやってたかって言われると、やってないなと思ったんだ」

「だから、やってみたんだ。毎日そう考えて、やってみたんだ。練習後、それができたか、自分で判断してみたんだ」

「そしたら、自分の中では、二週間位で、見違えるほどにプレーがよくなったと思ったよ。周りから見たら、そんなでも無いかも知れないけどさ。まあ、その辺は、自己判断だからさ」

「今日は、これができたなとか、明日は、あれに挑戦しようとか、今日も昨日と一緒で、これができなかったな、だから、明日はできる様に頑張ろうとか、考えることは結構あるんだよ」

「それで、毎日考えると、意識して考えなくても、自然と考えてやるようになってきてさ」

「初めて見たとき、蜂谷はスゲーなって思って、それに比べておれはって、思う所もあったけど、今ではさ、蜂谷と比べてもしょうがないし、比べる必要もないと思っててさ。蜂谷だけじゃなくて、誰ともね。相手は自分なんだって、本当に思っててさ」

「これを言葉にして言えるやつがいて、あいつは、それを実践してんだろうなって。蜂谷は、本気でそう思って、やってるんだなって思って、妙に腑に落ちたんだよ。」

「そういう事を言えるやつが、成長できるんだろうなって。そういう気持ちを持ってやる練習の方が、充実してるんだろうなって。実際、蜂谷は、高校でも伸びてんだろ?」

「だから、気持ちなんだよ。おれも、練習は毎日頑張ってたつもりだけど、昨日の自分を超えればうまくなれるって、理屈はわかるんだけど、その気持ちを毎日持って、蜂谷ほどやってたかって聞かれると、やっぱりやってなかったとしか思えなくてさ」

「まあ、蜂谷みたいにはなれないし、なる必要もない。でも、おれにだって、成長していい資格ぐらいはあるだろって思ってさ」

「誰かと比べるんじゃなくって、自分と比べるから成長なんだよ、きっと」

僕たちのように、強くないチームでサッカーをやる。僕は、楽しく、仲間を作る為にサッカーをやっていた。それも間違っていないと思う。

しかし、部活の、運動の、突き詰めた目標は、きっとこっちだと思った。自身の成長だと思った。

僕たちのチームは、楽しくサッカーをやる、一生懸命サッカーをやる、この二つの両立はできていたのだと思う。僕たちも、手を抜いて練習していた訳ではない。

ただ、強くなるには、意識が足りなかったということだと思う。

 陸は、僕にはわかっているって言ってくれたようだが、実際の僕の理解も、隆哉と一緒だった。言葉は理解できているが、実践していない。そこで止まっていた。


 隆哉は、陸に会ったことを、他のチームメートに話したと言った。

「お前には言うなって言われたけど、他の仲間に言うなとは言われなかったからさ。結局言っちゃったけどな」まったく悪びれてない口調で言った。

 隆哉の言葉は、チームメートにとって、きっかけとなった。

大きな目標ではなく、昨日の自分より、少しだけ前にという、小さい目標を、皆が明確に見据えていた。目標が小さかったのがよかったのだと思う。

元々、みんな友達を作りたいと、サッカーをやっていたので、チームメートは基本的に仲が良かった。

そして、明確な、小さな目標を共有し、理解し合い、助け合った。

練習が厳しくなり、不平をいうやつもいたが、大きなもめごとにはならなかった。話し合いで解決することができた。

隆哉につられて頑張っていたのではなく、みんな、各々の意思で頑張っていた。このことを、一番最後に知ったのが僕だった。


僕は、父に連れられ、毎年富士山に登っていた。保育園の年長から、中学一年生まで毎年だ。

一番最初に、保育園の年長で登った時は、初めてで、何も考えてなかった。天候もよく、簡単に登れたが、下山が、本当に、本当に、辛かった。歩いても、歩いても、歩いても、下に着かなかった。

一年生の時は、去年を思い出し、本当に行きたくなかったが、父に無理やり連れて行かれた。登り始める前から、登ってから、下りるまでの長さをどうしても考えてしまい、本当にいやだった。

登頂に成功し、下山した時、父は言った。

「苦しさをわかっていて、それでもなお、チャレンジして、それを克服できたことを誇っていいぞ。今回の登頂の方が、去年よりも尊いぞ。よく頑張ったな」

「もし、登れなかったとしても、辛いことをわかっていて、それにチャレンジしたんだから、登れなかったことを残念に思わなくていいんだ、チャレンジする気持ちを持てるってことが一番大事なんだ。人生もそうだぞ」

一年生だったので、人生の事はよくわからなかったけど、たくさん褒めてくれてるのはわかったので、それまでの人生で一番うれしかった。

二年生、三年生の時は、天候がかなり悪く、危険だったので断念、まだ幼かったので、天候は大敵だった。

四年生、五年生は、天候も悪かったが、登頂した。父は、また褒めてくれた。

「よく頑張ったな」

六年生は、陸も連れて行った。僕は慣れていたので、ペース配分も考え、あまり苦も無く登れた。下山も厳しくはなかった。富士山は、体力的には高すぎる山ではない。陸は初めてだったので、かなり辛そうだったが、持ち前の根性で、なんとか登り切った。下山は、本当に辛そうだった。

中学一年生の時、また陸を誘った。

「陸、今年も富士山行こうよ」

「いや、あれまじきついよ、下りるとき、死にそうだったもん」

「うーん、まあ、きついけどさ、きついのをわかってて、それにチャレンジして、克服するのがいいんだよ」僕は、小学校一年生の時、父に言われた言葉を、そのまま自分の言葉にして話した。

「なるほどな、でもきついよなー、あれ、うーん、でもわかった、いくよ」

僕としては、一人では行きたくなかったので、なんかとか陸を連れて行こうと思っての事だった。

二人とも体力はついているので、去年ほどの辛さはなかった。父は、陸に言った。

「陸君、去年の辛さを知っていて、だけど、もう一度トライして克服する、これは誇ってていいことだよ。去年の辛さから逃げなかったってことだからね。これが一番尊いんだよ。まあ、去年より体力もあるし、簡単だと思うかもしれないけど、やってみないとわからない」

「もし、仮に登れなかったとしても、チャレンジしたんだから、残念に思わなくていいんだよ。登ると決めた時点で、去年の自分を超えてるんだからね。これからの人生もそうだよ」父が、延々と陸に話しているので、肩を叩いて止めた。

「お父さん、長いって」

「ああ、ごめん、ごめん、しつこかったね」笑いながら言った。

陸の父は、陸が小学校三年生の時に事故で亡くなっていた。

父の言葉は、陸に届いたようだった。

「去年を超えたな」僕は、陸に言った。


 部活の帰り、駅で偶然、渡瀬綾菜を見つけた。僕は思い切って、声をかけてみた。

「渡瀬さん、こんばんは」

「あ、真斗君、久しぶりだね。真斗君から声かけてくれるなんて、初めてだね」初めてなのかどうかわからなかったが、かなり勇気をもって声をかけたのは事実だし、この話を続けるのは得策ではないと思い、話を変えた。

「この間、武蔵野学園に試合に行ったんだよ」

「知ってるよ、見てたもん。真斗君のチーム、なんか、強くなったよね」

「そう?でも、全部負けたよ」

「結果だけ見るとそうだけど、最初に来た時より、失点は少なかったし、チャンスも多かったじゃん。こんなに短期間でどうしちゃったのかと思ったよ。うちのサッカー部、結構強いんだよ」

 地区が違うのであまりよく知らなかったが、東京都ベスト十六によく入っているらしい。渡瀬綾菜がサッカーに詳しいことを思い出した。

チームの事だけと、褒められたのは嬉しかった。

「渡瀬さんの調子はどう?」

「うーん、なんか、ひざが痛かったり、痛くなかったりでさ。ちょっと休んででも、治しちゃった方がいいかなってさ。今、休部中なの」

「え、そうなんだ、いつ頃から?」

「うーん、中学の最後の都大会の時から少し痛くて、よくなったり、悪くなったりしててさ、整形外科にも通ってるんだ」陸が見かけたと言っていたのを思い出した。

僕は、いつ頃から休部してるのかを聞いたつもりだったが、思いもよらない返事で、渡瀬綾菜の苦悩の長さを知った。

「だから、ちょっと休憩。この間真斗君が試合に来た時も、整形外科の予約があって。一緒に帰りたかったんだけどね」僕はドキッとした。

「だからさ、一生懸命走っている真斗君を見て、羨ましいなと思ったんだ」

チームが、前回の試合より少しだけ頑張れている理由を話した。恥ずかしいので、昨日を少し超えるという言葉は使わず、きっかけをくれたのが陸だとも言わずに。


 ミラーまできた。「また」がほしくて言った。

「髪伸びたね」

「うん、休部中だから、短くしなくてもいいんだよ。どう?似合う?」

悪いことを聞いてしまったと思った。墓穴を掘ったと思った。

「ごめん」

「なんだ、髪の長い女の子の方が好みなのかと思っちゃったじゃない。まあ、復活したら、また切らないといけないし」髪長さはどっちでもよかったが、心から言った。

「早く治るといいね」

「ありがとう、じゃあ、またね」

「うん、またね」

渡瀬綾菜が、どれだけ陸上を頑張っていたか、少しは知っているつもりだった。部活、運動の楽しさ、自分の成長を実感する日々を知ってしまった僕には、渡瀬綾菜の悲しみが手に取るようにわかってしまった。

そして、また、「また」を作ることができず悔やんだ。


巻き込まれた時に聞いた。

隆哉ルールだ。

練習試合の後、隆哉が一人で帰る時がたまにあった。特に理由も聞かなかったが、何かなと、思ったこともあった。

練習試合の後、隆哉が言った。

「真斗、今日、二人で帰らない?」

「なんで?」

「まあ、ちょっとさ」

「うん、まあ、いいよ」断る理由もなかった。

「校門の前で、対戦相手のマネージャーが待っていた」

「ごめん、ごめん、遅くなって」

「じゃあ、行こうか」そそくさと歩き出す。

学校から離れたところで、ようやく隆哉が話し始めた。

「えーと、今日の試合の時見たと思うけど、千歳高校のサッカー部マネージャーの、河野さん」

「えーと、こちらが・・」

「三井です」

「はあ、そうですか」意味がわからなかった。

「こいつ、真斗ってんだ。よろしくね」


途中の駅まで一緒に帰って、二人と別れた。

「なに?どういうこと?」

「いや、今日の試合の間でさ、かわいいなと思って、声かけたんだよ。おれ、点取ってたし」

「点取ってたし?」意味がわからず、鸚鵡返しに聞いてしまった。

 隆哉が言うにはこうだった。

 最近、勝ったり、負けたりでも、少しは結果もついてきている。自分も、点が取れている試合もある。だから、自分にも、ご褒美をあげていいんじゃないか。

自分が点を取って、マネージャーがかわいかったら、お友達になってよし。点が取れなければ、お友達になる権利はない。

試合に負けても、自分が点を取ったら、権利があるらしい。

「今日はさ、二人だったら、一緒に帰ってもいいって言われてさ。だから、真斗を誘ったんだ」

お友達になれる前提で話を進める隆哉。断られる可能性の方が、間違いなく高いと思った。自分への罰になるのではと、隆哉に聞いた。

「いや、普通、断られるでしょ」

「まあ、それはそれだよ」

「たまに、練習試合帰り、隆哉いねーな、と思った時もあったけど、理由はこれ?」

「お、気付いてた?」

「まあ、断られてもいいじゃん」

「ちなみに、何勝何敗?」

「今日を勝ちに入れて、えーと、二勝六敗」

 自分へのご褒美になりそうもないと思ったが、プラス思考を尊敬した。


冬の地区大会、僕たちは、決勝まできた。監督は、緊張しながら、僕たちに、リラックスしろと言っていた。

 運が良かった。四試合中、二試合をPK戦で勝った。地区最大のライバルも、別の山だった。本日の相手だ。

 運が悪かった。こちらのシュートは、ことごとくゴールポスト、ゴールバーにあたった。相手のシュートが、こちらのディフェンスにあたり、コースが変わってゴールに吸い込まれた。

隆哉は泣きそうだった。みんな、悔しそうだった。僕も、泣かなかったが、とても悔しかった。

全員が、結果を欲しがっていた。


 部活の帰り、駅で綾瀬若菜が立っていた。隆哉のプラス思考を少しは見習おう。

今日も僕から声をかけた。

「渡瀬さん、こんばんは」

「ああ、真斗君、やっと会えた」

「やっと会えたって、待っててくれたの?」

「うん、でも、心配しないで。待つのは、一日二十分って決めて、待ってたから」意味がわからなかった。

「どういうこと?」

「うん、だから、会えるかわからないのに、いつまでも待っててもしょうがないでしょ。だから、一日二十分だけ待って、会えなかったら、また次の日に待ってようって決めてさ。でも、さすが私と思ったね。たった四日で会えるんだから」意味がわからなさすぎた。

「なんで、待っててくれたの?」さすがに聞いた。

「地区大会見てたよ、凄かったね。もう少しで優勝だったね。休部中だったから、見に行ったんだ。それでさ、その試合見て、私も頑張らなくっちゃって思って。足のこともあったんだけど、先生に無理して頼んで、地区大会出してもらったんだ。優勝できなかったけど、自己ベスト更新!!真斗君にはどうしても伝えたくて」

「そうなんだ、よかったね、おめでとう、すごいね!でも、僕は何もしてないよ。渡瀬さんが、頑張った結果だよ」

「まあ、真斗君が何かしてくれた訳じゃないけどさ、私が勝手に勇気もらったんだから、お礼くらい言ってもいいでしょ」ブリブリしながら言ってきた。


いつも試合を見てくれている渡瀬綾菜。

駅で偶然会う渡瀬綾菜。

駅で待っていてくれることもある渡瀬綾菜。

「また」をなんとか作ろうとしていた時よりも、大きな気持ちがあることに気付いた。


ミラーの角まできた。

「真斗君、サッカー頑張ってね」

「うん、ありがとう、渡瀬さんも頑張ってね」

「ありがとう、じゃ、またね」

「うん、またね」

 言い出せなかった。


渡瀬綾菜の自己ベスト更新はうれしかったが、最初で最後だった。


部活の帰り、駅で渡瀬綾菜を見つけた。かなり距離があったが、渡瀬綾菜だと思った。残念ながら、友達と一緒だった。知らない女の子だった。二人に対し、声をかける勇気などなく、しばらく眺めていたが、二人はその場からずっと動かなかった。誰かを待っているのかなと思ったが、男の子がやってきて、一緒に歩いて行った。陸のように見えた。居ても立ってもいられなかった。

僕は、家に帰って、陸の家に電話した。まだ学校から帰っていなかった。帰ってきたら、電話を下さいと頼んでおいたが、その日は電話がかかってこなかった。

週末、やっと陸から電話がかかってきた。

「わりい、わりい、部活がいつも遅くって」

「いいよ、あのさ、この間、駅で渡瀬さんと一緒にいたよね?」

「渡瀬?」

「いつだっけ?」

「水曜」

「水曜、お、見たのか、今度話そうと思ってたんだけどさ、その時、渡瀬とおれしか見なかった?」

「いや、もう一人、俺の知らない女の子がいた」

「あの子、うちの学校の女の子で、渡瀬と友達なんだって、まあ、うちの学校の女の子っていうかさ、おれ、いまあの子と付き合ってんだよ。今度、一緒に遊びに行こうぜ」

 僕は、そっちの展開はまったく想像できていなかった。陸と渡瀬綾菜が付き合っているものだと思い込み、この数日、かなり落ち込んでいた。部活も、身が入らなかった。

陸と渡瀬綾菜が付き合っていると思うことに、これほどのショックを受けるとは思ってもみなかった。

渡瀬綾菜への気持ちが芽生えているのは知ってはいたが、渡瀬綾菜と、僕が付き合えるはずがないと思っていたので、無理やり、その対象から外していた。

僕は、渡瀬綾菜と付き合いたいと思うことを、自分に許していたようだった。


 会ってどうしようか?

決めてなかったが、駅で渡瀬綾菜を待っていた。一日二十分と決めて。

なかなか会えなかった。

 部活に復活したのかなと思い、陸の彼女から情報を得ようと、それとなく、陸に聞いてみた。やはり、休部中だと教えてもらった。


 学年が一つ、上がってしまった。


駅で渡瀬綾菜が立っていた。髪がまた伸びていた。やっと会えた。僕は、緊張が隠せなかった。震える声で言った。

「渡瀬さん、久しぶりだね」

「あ、真斗君、久しぶりだね」

「まだ休部中なの?足の具合はどう?」

「うん、休部中っていうか、ちょっと、配置転換をしてもらったんだ」

「配置転換?」何のことかわからなかった。

「ちょっと具合がよくないから、選手としては、一旦引退。陸上部のマネージャーをやってるんだ」

愕然とした。自己ベスト更新を知っていたので、なおさらだった。

「そうなんだ、早くよくなるといいね」

「うん、でも、ちょっと時間がかかるかもなんだよね。なんで、ちょっと配置転換。でも、他の選手のサポートして、勝ったり、負けたり、自己新記録だしたり。いろいろあるから、楽しいよ」

「特にさ、選手じゃない子がさ、頑張って、自己ベスト更新すると、すごくうれしいんだよね。自分が選手時の時は、他の子の事まであんまり気が付かなかったんだけど。マネージャーになって気が付いたんだ。私も、最後の自己ベスト更新の時、うれしかったし」

「選手なら、大会に出られるから、頑張って走るけど、しょうがないんだけど、頑張っても選手になれない子もいるじゃん。それでも、頑張って自己ベストを出すって、凄いことだと思うんだよね。私は、選手のサポートもそうだけど、そんなみんなのサポートができて、うれしいんだ。もちろん、復活できればしたいけど」

僕のチームにもそのようなチームメートがいる。練習試合は出られるけど、大会はなかなか出られない。僕は、うまくはないけど、中学、高校と、大会にも一応出られている。 

出られない選手の気持ちを、考えたことがないこともないけど、渡瀬綾菜ほどの気持ちを持ったこともなかった。

立場が変わって、違う視点を持った渡瀬綾菜の話は、重要だった。僕にも必要な視点だと思った。

陸も、チームメートではなくなった僕の意見を聞きたかったんだと思った。

「自己ベスト更新は凄いことだよ」

僕は言った。僕たちのチームの目標も、一緒なんだと話した。だから、少しずつだけど、強くなってるんだと話した。恥ずかしさはなかった。陸の事は言わなかった。

レギュラー組対サブ組の試合をやる。サブ組も、レギュラーになろうと頑張っている。なかなかレギュラーになれなくても、チャレンジしている。

レギュラーも、レギュラーを取られまいと、頑張っている。

みんながみんな、自己ベストを出そうと、頑張っている。

楽しく部活をやろう、仲間を作ろう、試合に出たい、試合で結果を求めよう、自己ベストを出したい、そんな人たちのサポートをしたい。いろいろな思いを、改めて、違う視点から思った。


「あのさ、今度電話してもいい?」「また」を作る為、思い切って聞いた。

「もちろん、いいよ。お父さんが十時頃帰ってくるから、その前がいいかな。お父さん厳しいんだよ。でも番号、卒業アルバムに載ってるじゃん」勇気がなかったとは言えなかった。


ミラーまできた。

「あ、それでさ・・・」渡瀬綾菜が言った

「・・・ううん・・・またね」

「うん、また」

少し気になったが、簡単に「また」を作れると思ったので聞かなかった。


 電話していいと言われているので、すぐ電話できると思っていたが、実際、電話を掛けようとすると、なかなか勇気が出ず、一週間が経ってしまった。

 ようやく覚悟を決め電話したが、お父さんが出てしまった。

「間違えました。すみません!!」


翌日、やっと電話で話すことができた。

「はい、渡瀬です」渡瀬綾菜の声だ。でも、万一もある。

「中条と申しますが、綾菜さんはいらっしゃいますでしょうか?」

「初めて名前で呼んでくれたね」

考えていなかった展開だった。電話だと「渡瀬さん」では通じないので、綾菜さんて言っただけだが、聞いた本人のリアクションまで、計算に入れてなかった。

「い、いや、そうかな?」

「明日から、名前で呼んでね」

「元気だった?」返事はせず、意味のない事を、無理やり聞いた。

「ん?、誤魔化してるな、まあ、いいか。電話くれるって言うから、待ってたのにさ。なかなか掛かってこないんだもん。どうしちゃったのかと思ったよ」

「いや、お父さんが出て、慌ててきっちゃったんだよ」

「ああ、昨日ね。なんか早く帰ってきちゃっててさ」

「まずかったよね」

「うん、何か警戒してる感じ」


それでも、なんとか、僕は、渡瀬綾菜と、電話ができるようになった。一週間に一度、一週間に二度、少しずつ、頻度を上げていったが、電話の中でも、「渡瀬さん」を貫いた。


それでも、伝えよう、僕は決めていた。


夏休み、陸と、陸の彼女の真由美さんと、渡瀬綾菜と、僕でディズニーランドに行った。計画は以前からあったが、陸の休みが無かった。陸の部活を恨めしく思った。陸は、一緒じゃなくていいんじゃないか、とまで思った。


「真由美と渡瀬は、塾がいっしょだったんだよな?」陸が聞いた。

「うん、綾菜、優秀で、いつも教えて貰ってたんだ」

「そんなことないよ、真由美、英語がすごかったんだよ」

「英語だけね。将来、英語を使って仕事したいんだ。だから、英語だけ」

「すごい」英語の能力そのものより、将来の事を何気なく話せる真由美さんが、純粋にすごい、そう思った。声が出てしまっていた。

 サッカーができ、勉強もそこそこできる陸、英語が堪能な真由美さん、元々優秀な渡瀬綾菜。僕には?と、思うことが無い事もなかったが、隆哉のプラス思考を見習い、マイナスな感情は打ち消した。


「二人はどうして付き合うことになったの?」僕も、陸から聞いてなかったし、渡瀬綾菜も、真由美さんから聞いていなかったようだ。

「どうしてって、なあ?」

「うーん、そうだねー」

「まあ、あれだよ。うん。真由美がさ、アメリカ人の先生と、廊下で、二人で話してるところ聞いちゃったんだよ。おれ。その会話、まったくわかんなくって。そっから、少し気になり始めてさ」

「んで、まあ、話すようになって。大会の時とか、弁当作ってくれたりして、それがうまくってって、まあ、そんな感じだよ」

「えー、すごーい、私、まったく作れないよ」

「後から聞いたら、ほとんどお母さんが作ったんだって」

「きちんとご飯は炊いたんだからいいの」

 人のいい所を素直に認められる、陸らしい話だと思った。


陸と、渡瀬綾菜がなにやら話していた。

「中三の時の話は、真由美にも、真斗にも内緒ね」

「言える訳ないじゃない、余計な心配掛けるだけだし」


真由美さんと僕で話す形となった。

「お弁当の話、ひどくない?真斗君にまで言っちゃって」

「本気じゃないよ、照れ隠しで、冗談めかして言ってるだけだよ」

「わかってるけどさ、私も乗っちゃって、ご飯は炊いたなんて言っちゃったけど、ほとんど私が作ったのにさ」乗ったんだ。乗らなくても、否定でいいのではと思ったけど「ベストアンサーだったよ」真由美さんのセンスを褒め称えた。


「渡瀬は、足どうなの?まだマネージャー?」陸が聞いた。

「うん、そうなんだよね、痛くない時もあるんだけど、少しやると、また痛くなったりしちゃって」

「そっか、やっかいだな。でも、マネージャーは重要だよな。おれたちも、マネージャーにはすげー感謝してるし。いろいろ助けてくれるし、監督の機嫌とか教えてくれるしさ」

「それ重要だな」

「バカにしてるでしょー」

バカげた会話だったが、楽しかった。


帰りの駅で、陸と真由美さんは、買い物して帰ると、駅で別れた。

渡瀬綾菜と二人で歩いていた。

会話はしていたと思うが、覚えていなかった。

決めてはいたのだが、なかなか言葉に出せなかった。

来週にしようかとまで思った。

ミラーの角が見えてきてしまった。

緊張はピークに達していた。

意を決して言った。

「渡瀬さん、おれと付き合って貰えませんか?」考えていた言葉とは、違う言葉が口から出てきた。驚くべきことに、敬語だった。

あの楽しかった会話の後に敬語か、と思ったが、やり直しはできなかった。

「ありがとう、ちょっと考えさせて」

「うん、わかった」僕は言った。少しだけ、ちょっとだけあった自信が無くなった。


電話もできず、二週間たった。

 

 明日、駅で待ってるねと、渡瀬綾菜から電話があった。


「真由美にもいってないんだけどね」

「私、病気なんだ。国指定の難病なんだ」

「陸上部の私が難病なんて、面白いでしょ?」言っていることが、わからなかった。まったく入ってこなかった。思考が追いつかず、黙っていた。

「あれ?親戚の人は少しは笑うんだけど。難病と、何秒をかけてるんだよ」説明されたが、そういうことではなかった。親戚も、空気を読んで笑っただけに違いなかった。渡瀬綾菜は、僕と会ったら、冗談めかして、こう言うと決めていたのだと思った。申し訳ないがそれは無視した。

「どういうこと?」

「やっぱり、足がさ、走ってなくても、痛いときとかもあって、整形外科にも行ってたりしたんだけど、痛くない時もあるから、通うのやめちゃったり、いろいろでさ。ただ、なんか期間が長いから、それじゃ、内科に行ってってなってさ。血液検査してってなって、そしたらさ・・・」

「ただ、あんまり重くなくって、薬で大丈夫なんだけど、完治は難しいんだって」

「だから、真斗君にも、迷惑かけちゃうかも知れない。真斗君も少し考えてみて」

一方的に話して、渡瀬綾菜は行ってしまった。追いかけることすら考えつかなかった。


 寝るときに考えた。

 最初は、足が痛いから、少し休部して、と思っていたと思う。それだけでも、休部に対する不安もあったと思う。その時は、どう思っていたんだろう?

休部したら、選手ではいられなくなってしまう、そんな思いもあっただろう、その時はどんな思いだったんだろう?

僕ですら、レギュラーを取られると思うと、それだけで怖くなる。

 マネージャーになると決めた時は?

他の子の自己ベスト更新を聞いた時は?最初はやっぱり、自分の方が速いのにって、思わなかったんだろうか?

他の子の自己ベストを、本当にうれしいと思えるようになった時は?

 病院に行ったときの、病名を告げられた時の気持ちはどんなだったろう?

四人で遊びに行ったときには、どんな気持ちだったんだろう?

 僕の告白を聞いた時にはどんな気持ちだったろう?

 僕に病名を告げた時の気持ちは?


渡瀬綾菜を強く想った。そして気付いた。


電話はせず、駅で待とうと決めた。二十分と決めず、駅で待っていた。五日目に会えた。

「綾菜さん」声をかけた。敢えて、綾菜さんと呼んだ。

「真斗君・・・」

渡瀬綾菜が何か言う前に、一方的に言った。

「病気のことは図書館で調べたよ。詳しくはわからないけど・・・。でも、きっと、綾菜さんとしては、病気の事を、僕に言うのも嫌だったんだと思うんだ。言わなくても、問題ないと考えてもいいんだから。でも、僕に言ってくれた。僕のことを、真剣に考えてくれたんだと思うんだ」

「僕も考えた。いろんな立場から。綾菜さんが、みんなのマネージャーになって、サポート側に回った時と、同じ気持ちを、僕は、きっと、持てていると思う」

「だから」強い気持ちを持って、手を出した。

 渡瀬綾菜が手を握り返してくれた。


 綾菜の症状は、傍目には全くわからなかった。薬を飲んでいるとは言っていたし、たまに足が痛いとも、たまには言っていた。そのくらいだった。寛解が続いてくれた。細かくは、僕に言わなかっただけなのかも知れないが、僕にはそう思えていた。


 一年がたった。


 高校最後の大会だ。結果を求めて臨む、最後の大会だ。高校時代の集大成だ。

僕たちのチームの雰囲気は、最高潮だった。

 試合に出る選手を、試合に出られない選手が、鼓舞してくれた。試合に出る選手は、それに応えなければならない。

地区予選を勝ち上がり、ブロック戦の決勝まで行った。我が校サッカー部、始まって以来の快挙だった。

ブロック戦の決勝の相手は、武蔵野学園だった。練習試合でも、まだ一度も勝ったことがなかった。

ブロックを勝ち上がると、次の相手は、神津高校と、山王学園の勝者だった。恐らく、神津だろう。

「運がねーな」仲間が言った。陸と高校で試合ができる。運が無かったと思えなかった。


「武蔵野学園の生徒としては、ちょっと複雑な気分」

「いや、みんな、すげー頑張ったよ、勝ったのに、みんな泣いてたからね」

「真斗君さ、あれさ、わざと転んだでしょ?」

「いや、相手の足が引っかかってさ」僕が武蔵野学園からもぎ取ったPKを、隆哉が決めて勝った。


 神津高校には通用しなかった。

隆哉が先制点を挙げたが、よかったのはそこまでだった。結果、四対一で負けた。

陸に二点取られたのは悔しかった。

 武蔵野学園に勝ち、強豪の神津高校と試合ができるまでになった。

武蔵野学園との試合、勝ったのに、みんな泣いていた。

神津高校との試合、負けて悔しかったけど、満足感の方が大きかった。

「泣くな、胸を張れ」監督が泣きながら、最後の言葉を放った。

 僕たちは、エスカレーターで付属に行くメンバーがほとんどだった。大学でも頑張ろうと思っていたが、監督は高校のままだ。

 僕らの学校のマネージャーは泣いていた。二年生なので、まだ卒業ではないのに、大泣きだった。マネージャーは言った。

「監督、先輩たちが二年生の時、神津高校に試合の申し込みに行って、断られているんです。うちが弱いから、神津にはメリットがないって。三回目に行ったら、三軍なら受けられるって言われたって、私たちに言ってたんです。悔しい思いをしてたんです。でも、昨日、相手が神津なら、三軍でも試合しておけばよかったって。少しは、神津の事がわかったかも知れないって。負けたら、俺のせいだなって」

「監督は、あんまりサッカーのことはわからないから、せめてみんなの為にって、試合がいっぱいできるようにって、毎週のように、どっかのチームと試合が組めないかって、一生懸命だったんです。私たちマネージャーも、監督に協力して、スケジュール調整したり、グランド取ったり。武蔵野だって、頭下げて試合して貰ってたんです」

 僕の視点は、まだまだだなと思った。

監督が相手チームを探し、マネージャーが調整し、試合を組んでくれている事を、少し、当たり前と思い過ぎていた。

 自分たちの試合内容などのミーティングはしたのに、誰のおかげで、その試合ができているのかまで、話す事はできていなかった。

僕たちは、みんなのサポートで成り立っている。忘れてはいけないと思った。

みんなで監督を探しに行った。


 神津高校は、冬の選手権まで残り、決勝で負けた。


陸は、高卒でプロ、とはいかなかったが、強豪大学に入った。真由美さんは、英語の短期大学、綾菜は四年制大学に入った。綾菜は頭がよかった。隆哉も僕も、付属大に入った。


二十歳になった時、僕は言った。

「一応大人の一員だからさ、綾菜のお父さん、お母さんに挨拶とか言った方がいいんじゃないかな?」

「うーん、でも、うちのお父さん、厳しいよ。私、一人っ子だし」

「私、真斗君のこと言ってないし」

「んじゃ、もう少し様子を見ようか」


父が、陸を家に連れて来いと言ってきた。何度も言ってきた。父は、やたらと、陸とお酒を飲みたがった。

「もう二十歳だから、問題ないだろう」

「わかったよ、都合、聞いておくよ」

僕は、そのとき、まだ知らなかった。

陸は練習などが忙しく、なかなか日程が合わなかったが、一か月後に、僕の家に来てくれた。

母親が夕食を作ってくれている間、三人でビールを飲んでいた。

「陸君、大学はどうだね?」

「練習が厳しくて、体力的には参ってます。でも、充実してます」

「勉強は?」

「勉強は、少しずつ、遅れ始めております!」隊長に報告するかのように、敬礼しながら言った。

「ははは、そうか、サッカーも大変だろうけど、勉強も頑張れ」

「プロを目指すのかい?」

「はい。チャレンジしようと思います。でも、サッカー選手の寿命は短いです。その後も考えて、勉強も頑張っておきます」

「頑張って、陸君ならできるだろう」

「それじゃ、もう少しだけな」ビールを陸についだ。

「ありがとうございます、お父さんも、どうぞどうぞ、ぼくが持ってきたビールではありませんが!」また敬礼しながら言った

 父は、うれしそうだった。


就職が決まった時、綾菜のお父さん、お母さんに挨拶に行った。

お母さんは、やさしい人だった。僕と綾菜が、高校から付き合っているのを知っていた。

「綾菜と仲良くしてくれて、ありがとう」僕は恐縮した。

お父さんは、終始ムスッとしたままだった。


「真斗君のこと、お父さんに言ったの、先月なんだよね」

「お母さんがさ、お父さんに言ってるだろうって思ってて、私からは言ってなかったんだよね。そしたらさ、お母さんも、お父さんに言ってないって、わかったのが先月だったんだよ。びっくりだよね」

「お父さんさ、自分だけ何にも知らなかったって、拗ねちゃってさ」

「もう少し早く言っておいて下さい」


僕たちが就職して半年後、陸のデビュー戦を見に行った。陸が、みんなを招待してくれた。

陸の母親、僕の両親、真由美さん、隆哉と早苗さん、綾菜と僕。この頃には、陸と隆哉も友人になっていた。早苗さんの苗字は、河野だ。

満員のスタジアム、陸がウォーミングアップをしていた。感動した。

陸がPKを獲得した。スタジアム中が大声を上げていた。歓声、怒号、これがプロ。圧倒された。この中でサッカーをしている陸。陸のチームが勝った。

「あれは、完全にファールだったね」怪しげな目で僕を見てくる。

「どのプレーと比べてます?」


 陸のデビュー戦を見て半年後、父が亡くなった。がんだった。陸のデビュー戦の時には、もうかなり弱っていたが、そこからが早かった。

僕も、陸と一緒に、僕の家で飲んだ時には、がんだと知らなかった。飲んでから、少しして、母親に言われた。

「お父さん、会社の健康診断でがんが見つかってね」

「陸君と一緒に飲むまでは、真斗にも内緒だって言われてね」

 頭が真っ白になった。

「なんで、言ってくれなかったの?」

「お父さんが、がんって知ってたら、陸君と飲むとき、真斗が楽しめないだろって。それにがんだって、真斗が知っても、がんが治るわけではないからって」


「お父さん」

「真斗、お父さんはがんだ。あまり、長くないらしい。でも、まだ生きてる。諦めたわけではない。頑張るよ」

父の頑張りは、壮絶だった。


父の葬式、陸と、陸の母親も来てくれた。父ががんだとは、陸には言ってなかった。

「なんで、言ってくれなかった?」

「お前には言うなって言われて。おれも、お前と、三人で飲んでから言われたんだ」

「そうか、そりゃそうだよな。おれが一緒の立場でも、息子の友達には言わないわな。お父さん、頑張ったんだろ?」

「壮絶だったよ」

僕が言うと、陸は泣き崩れた。


陸の母親と、僕の母親が話をしていた。

陸の母親が、僕に気付き、僕のところにきてくれた。

「真斗君、いつも、陸と仲良くしてくれて、ありがとう」

「いえ、こちらこそ、いつも助けてもらってます」

「陸はいつも言ってたわ。真斗君と、真斗君のお父さんは凄いって。いっつも頑張ってるって。真斗君が小さい時から富士山登って、もし、途中で、真斗君が諦めてたら、六年生の時も、中学校一年の時も、おれは富士山登ってないって。あの体験と、お父さんの言葉は、大きかったって。やっぱり、父親の存在は大きいわね」

「真斗君のお父さん、登る前にわざわざ、うちにきてね。小学生の頃は、うちの主人にお世話になったって言ってくれて」

陸と僕は、小学校低学年まで、陸のお父さんにサッカーを教えてもらっていた。父はいつも感謝していた。

「陸君を、危険な目には遭わせません、無事に戻りますって。ダメなときは、私の判断で、責任を持って下山させますからって」

「本当は、私が、お願いしますって、頭下げなきゃいけないのに、私に頭下げてくれてね。陸君が来てくれると、真斗も行きやすくなるんでって。二人の成長を見守ってくれてて・・」

陸の母親も、僕も、涙で言葉を発することができなくなった。


陸は、父の言葉を思ってくれいてた。でも、自分でその言葉を理解し、昇華させ、自分を成長させたのは、陸なのだ。やはり、すごいのは陸なのだと、改めて思った。


一年後、陸と真由美さんに、子供が生まれた。男の子の双子だった。


更に一年後年後、双子の誕生日に、陸の家に遊びに行った。

どたどたと家を走り回り、物を投げ、騒いでいた。

疲労困憊の陸が言った。

「二人は大変。こっちが昼寝してるとか、全く関係なく飛んでくるからね」

「やめてって、言ってるんだけどね」真由美さんが言った。

「いいじゃーん、かわいいじゃーん、うらやましー」綾菜が言った。

 あんなに騒いでいた二人が、電池が切れたように寝た。充電タイムのようだ。

「起きたらまた騒ぎ出すんだぜ。まじ勘弁」


真由美さんと、綾菜がキッチンに立っているとき、陸が小声で言った。

「お前らも早く結婚しろよ。んで、早く子供作って、サッカーやらせようぜ」

酔っぱらいながら言った。陸は、綾菜の病気のことは知らないのだ。恐らく、真由美さんも。

「おれ、実はさ、中三の時、渡瀬に告白してんだよね。」初耳だった。綾菜からも聞いたことがなかった。

「まあ、振られたけど。確か、誰か、気になるやつがいるって言ってたんだっけな。よく覚えてないけど」

「んで、高校で、真由美と付き合ったらさ、真由美と渡瀬が、友達だって聞いてさ、びびったね。でも、まあ、ただ振られただけだから、なんも問題無いんだけどさ」

かなり酔っている。サッカー選手なので、あまり飲まないのだ。たまに飲むと、すぐ酔っぱらってしまう。

「渡瀬には、言わないでって、頼んどいたんだ」

「そんなこと、おれに言っていいのか?」

「ああ、ダメか、んじゃ、やっぱり、俺と、渡瀬の秘密にしておこう」

明日には忘れているだろう。


 子供を作るかは決めていなかったが、結婚したいとは思っていた。仲の良い、陸と真由美さんを羨ましいと思っていたし、このまま、綾菜と一緒にいたいと思っていた。

 

 僕は、綾菜にプロポーズをした。

これからも、お互いにサポートしていこうと。

「私は、お父さんの機嫌を教えるね」

「それ重要」


 綾菜の症状は安定しているように見えた。薬がうまく作用していた。

 綾菜は子供を欲しがった。医師と相談し、症状をコントロールできれば、出産が可能な病気であることも、わかっていた。

僕も、子供は欲しかったが、僕には懸念があった。妊娠を引き金に、症状が悪化してしまう場合があると知っていたからだ。

 僕は悩んでいた。

 綾菜の病状、僕の父のがん。

 綾菜の病状が悪化するのではないか?

父のがんが、子供に遺伝するのではないか?

 僕も、がんになってしまうのではないか?

一方で、遺伝ではないということも知っていた。

 僕は悩んでいた。

 

話し合った時、綾菜が軽い口調で言った。

「お父さん、孫が見たいって」

優秀なマネージャーに敵わなかった。

綾菜が、本気でお父さんの事を言っているのではないとわかっていた。

言葉を変えて、自分の決意を僕に伝えているだけだ。

綾菜は、自分の決意を伝えると同時に、僕の背中を押してくれているのだ。


二年後、綾菜と、僕の子供が生まれた。女の子の双子だった。


陸、真由美さん、隆哉、早苗さんがお祝いに来てくれた。


みんな、お酒が入っていて、陸はまた酔っぱらっていた

「女の子の双子は大変だぞ、男の子でも、大変だけど。でも、どんなに、大切に育てても、お嫁に以行っちゃうんだぞ、くーっ、真斗、頑張れよ」

「そんなに先の事、考えてないよ」僕は言ったが、陸は聞いていなかった。

「まあ、大変だとわかってるけど、やるんだからな」

「去年を超えたな」

 親友の言葉、励ましがうれしかった。


帰宅途中、雨が降り始めた。予想外の雨で、傘を持っていなかった。

玄関で水滴を払い、リビングに入ろうとしたその時、綾菜が、若葉と双葉に話している声が聞こえた。

「お父さんは、やさしい人なの」

 子供たちには、まだ理解できないだろうと思ったが、ドアを開けるのを躊躇った。

「雨の日、傘を貸してくれるやさしい人」

「本当は、家は近くないのに、近いって言ってくれる人」

「人が嫌がることを、やってくれる人」

「自分が頑張ってても、それが当たり前って思っていて、自分ではあまり理解してない人」

「走る姿がかっこいい人」

「すっごい鈍感な人」

 照れくさく、また、これ以上、変なことを言われても困るので、ドアを開けた。

「ただいま」

「あら、おかえりなさい。今、ちょうど、お父さんの事を話していたのよ」

「なんとなく、わかったよ」

「あら、敏感になったんですねー」

若葉と双葉に話すように、綾菜が笑顔で言った。

 傘立てには、古ぼけたビニール傘がささっていた。


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