第6頁:黒殀犬(4)
朝、シーラはいつにも増して丁寧に祈りを捧げた。〝そんなに気にするなら俺がやる〟と言ったベルに、シーラは〝絶対にだめ〟と返した。珍しく怒りを含んだシーラの声音に、ベルは黙ってその様子を見守ることにした。
旧道の関所に向かうと、建物の外でクリストファー所長が待っていた。祓魔師を見ると小走りで近づく。
「おはようございます。どうかされたんですか?」
「実は昨晩、バートが現れまして。」
「また被害者が?」
「それが、子どもを助けたらしいのです。」
「助けた?」
「はい。度胸試しで迷子になった子がいたんですが、バートが現れて、旧道まで案内してくれた、と言っていまして。」
「なぜその子は、バートだと?」
「黒い体に赤い片目の犬と言ったらバートだと、この街の人間は思いますよ。」
出会った人間すべてを襲っているわけじゃない?
シーラは疑問に思った。
子どもだったから?たしか所長の話だと、子どもでも近づけば噛まれる、と言っていた。墓地から離れていたから?今までの被害者の死体は、旧道で発見されていた。子どもが道を外れてそこまで遠くに行くとは思えない。
「どういたしますか?ああ、いや……特に調査などはしませんので、今日は私1人がここの担当です。」
「1つお願いがあります。」
シーラの意思とは無関係に、ベルが話し出す。普段はシーラの思ったことをベルが代弁するが、たまに独断で話すことがある。取り繕わなければと焦るので、シーラはあまりしてほしくないのだが。
「今まで殺された人間の持ち物は、まだ保管されていますか?」
「え?ええ、関所の本部に。」
「それ、見せてください。」
重い雲が立ち込める夜。黒い犬は、自らに違和感を覚えていた。冷たい主人に近づく人間を待っている時は、見えない右目が痛むようで、落ち着かない。しかし今日は、ただただ淋しい。まるで、主人がいない夜のようだ。
足音が聞こえ、頭を持ち上げる。人間が3人。黒犬は唸り、赤い目を向ける。人間は怯むことなく主人に近づく。黒犬は1人に飛びかかった。首元に牙を立てる。しかし、当たらなかった。避けられたのではない。体がすり抜けた。人間は意にも介さず、主人のすぐ側で何かをし始める。黒犬は何度も飛びかかったが、一度としてその牙が当たることはなかった。
シーラは墓地へと走る。ベルが、山の方にわずかな灯りを見つけたからだ。旧道を駆け上がり、三叉路で右に曲がる。墓地の奥、オーウェンの墓の前には、3人の男。そして、飛びかかってはすり抜け、地面に落ちる、黒犬がいた。
「やめてください!」
呼吸を整えながら、シーラは叫んだ。3人の男と黒犬がこちらを向く。
「あなたたちの欲するものは、そこにはありません。あったとしても、それは、許されざる行いです。」
男たちは、女の声に顔を見合わせ、馬鹿にするように笑った。
「さっさと修道院に帰んな。それとも、〝お手伝い〟してくれるか?」
男の1人がシーラに近づき、その肩に手をかける。顔を見るために覗き込んだフードの中で、赤い目が睨む。怯んで肩を離した男の手を、今度はシーラが掴む。手袋をした手が、男の手首を握り、締まっていく。男は振り解こうとするが、びくともしない。
「は、離せ!離せよ!」
シーラは手を離す。派手に転んだ男は手首を摩った。
「あったぞ!」
その後ろで、別の男が叫ぶ。オーウェンの墓から取り出したのは、豪勢な装飾がつけられた箱だ。嬉々として男はそれを開ける。
「……あ?」
中身は空だった。男は箱をひっくり返して揺するが、何も出てこない。
「そこに入っていたものは、あなたたちのいう〝宝〟ではありません。」
シーラは包みを取り出し、布を解く。出てきたのは、赤い首輪だ。付けられた下げ札には、〝バート〟を表す文字が彫られている。
唸り続けていた黒犬が、首輪を見て、シーラに飛びつく。しかし、牙が当たることはない。そんな黒犬に、〝少し待ってて〟と心苦しく呟いたシーラは、一転、鋭い目で男たちを見た。
「彼が愛した、彼を愛していた、家族との思い出。彼らにとっての〝宝物〟です。あなたたちがこれを盗むことは許されません。誰であろうと、それを穢すことは許されません。悔い改めるのであれば見逃します。すぐにこの場から立ち去りなさい。」
男たちはシーラに気圧されたが、そのうちの1人が一歩前に出る。
「え、偉そうなこと言いやがって!どこの修道女だかしらねぇが、許しを乞うのはてめぇの方だ、女!」
男はナイフを取り出す。動じないシーラに苛つきを見せ、ナイフを振りかざした。
「だからダメだってんだ、人間は。」
どこからともなく聞こえた声に、男は周りを見回す。その視界の端で、火が揺れる。男たちが持ってきた灯りではない。ナイフを持っていたはずの男の右手そのものが燃えている。
「うわああああ!!」
男は泣き叫びながら右手を必死に振るが、火が消える様子はない。むしろ、全身へと広がっていく。それを見て愉快そうに笑う青年が、男たちの後ろから近づく。
「情けねぇな!魔の憑依に抗ってたシーラの方がよっぽど苦しかったはずだが……うるせぇ!」
火だるまになっていた男の喉元に、さらに火がつく。黒焦げの男は、黙ってその場に崩れた。
「そりゃ男の方が頑丈にできてるが、男より強い女がいないわけじゃない。強さってのはいろいろあるしな。」
恐怖にへたり込んだ残りの2人を見て、ベルは楽しそうに口角を上げた。
「ベル、その……弄ぶのはダメだよ。」
「お前、悪魔になに言ってんだ。」
「お願い。」
「善処いたします。」
ベルは仰々しくそう言うと、現れた戦闘用馬車に男2人と焦げ1つを放り投げ、火の粉を振り撒きながら厚い雲の中へと消えた。
静寂が戻る。男たちの残したランタンが、オーウェンの墓から出された箱を照らす。黒犬は、視線を向けたシーラに唸り声を上げた。
「ごめんなさい。」
シーラは首輪を箱に入れると、蓋を閉め、墓に戻した。
「バート、あなたの主人は、もう御許へ向かったの。」
黒犬に言葉はわからない。それでも、シーラは語りかける。
「だからあなたも、彼に付いていかないと。きっと、彼もあなたを待ってる。」
黒犬に言葉はわからない。それでも、黒犬は理解する。主人の墓石に寄り添う。冷たいそれは、主人の手の温もりではない。黒犬は知っていた。しかし主人の死に、自らの死に気づいた時には、ここから離れられなくなっていた。既に、〝囁き〟に応えた後だった。だから、主人の肉体だけが残る冷たい石に、身を寄せた。この体では、それを温めることもできないと、知りながら。
「主人と共に御許へ、忠犬バート。あなた方の旅立ちは、祝福されています。」
厚い雲が流されていく。月明かりの下、黒犬は先に昇ったであろう主人を想った。付いていかねば、あの優しい手に。
教会では、オーウェン前市長の追悼式が行われていた。街中の人々が彼を想い、安らかな眠りを願う。教会の鐘に合わせ、どこからか、遠吠えが響いた。
東の新道の道路関を通る。
「シルヴァーノ殿!」
シーラと灰猫姿のベルに声をかけたのは、クリストファー所長だ。
「もう出立ですか?」
「はい。本当にお世話になりました。」
「そんな!お礼を言うのはこちらです。もう少しゆっくりしていかれれば、街をご案内いたしますのに。」
「それは、次の機会に。平穏が訪れて、旅が終われば、また伺います。」
所長に見送られ、シーラとベルは峠に向かう。
「良い人だったね、所長さん。」
ベルは返事をしない。
「次はここから西に向かえば良いんだよね。……ベル、聞いてる?」
「……ああ。」
「どうしたの?」
いつもと様子の違うベルに、シーラは聞く。
「おかしい。」
「何が?」
「今までシーラが祓ってきたのは、〝ムルムル〟という堕天使の〝囁き〟に応えたものたちだ。」
「うん、そう言ってたね。」
「だが、海峡を渡る前に祓った人狼、そして、今回の犬の亡霊。どちらも、ムルムルの仕業にしては無理がある。」
「そうなの?」
「ああ。あいつには、人間を人狼に変えられそうな能力も、犬と会話する能力も無かったはずだ。」
「じゃあ、ムルムルとは別の悪魔の仕業、ってこと?」
「そうなるな。問題は、そいつらとムルムルが手を組んでいるかどうかだ。偶然、他の奴らの企てに遭遇したのか、それとも、なにか関係があるのか。あるとしたら、どれだけ奴の仲間がいるのか……」
「んー……わからない?」
「今はな。」
「じゃあ、目の前のことをやるしかないね。」
シーラの潔い物言いに、ベルは呆れる。
「お前、そういうところあるよな。」
「なに?」
「人間ってのは、ぐちぐちうだうだ、どうしようもないことを考えるものだろ?」
「そうかな?」
「そうだ。俺はお前よりずっと、人間に詳しいんだ。まぁ、まどろっこしく考えられても迷惑だから、お前はそれで良い。」
灰猫は祓魔師の肩で大きなあくびをした。落とすべき
狩人は遠吠えを聞いていた。
「いやぁ、素晴らしいねぇ。犬と人間の友情、美しきかな。あんたもそう思うだろ?」
冠を被った兵士はそれに興味を持たず、別のところに目を向ける。
「あんた、出てくる時は喧しいくせに、全然喋らないのな。死者に喋らせるのに慣れすぎなんじゃ──」
兵士の剣が、狩人の喉元に付く。狩人はため息をつきながら、だらしなく両手を上げた。
「んで?俺はやり直しか、ムルムル公?」
剣を納めた兵士に、狩人は聞く。
「無論。」
「はぁ……あんまり俺、悪さとか得意じゃないんだけど。あんた然りベリアル公然り、元上位天使は碌な奴がいな──」
剣は喉元で止まらず、振り抜かれる。狩人の首が飛び、落ちる。首を失った体は倒れず、落ちた首を拾う。元の位置に首を乗せ、角度を微調整すると、咳き込みながら喉のあたりを摩る。
「あーあー……ふぅ。悪かったって。元中位天使のただの嫉妬なんて聞き流してくださいよ。んじゃ、俺は次のところに行ってくるわ。〝狼〟にもよろしくな。あー、あと、〝梟頭〟に会ったら、もっと顔出せって言っといてくれ。」
どこかへ消えた狩人を見送りもせず、兵士は黒い祓魔師と、肩に乗った灰色の猫を見据えていた。
偶像はファンファーレを轢く 鈴木 千明 @Chiaki_Suzuki
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