第5頁:黒殀犬(3)
黒いローブが昼食を持って部屋に入る。ベッドに横たわったシーラは、普段の自分の姿になったベルを、複雑な表情で見た。客観的に見ると、やはり不気味な出立ちをしているからだ。
「ひとりで起きるな。」
シーラは少し持ち上げた体を戻す。ベルは今、とても不機嫌だ。こういう時は、黙って言う通りにするのが1番良いと、シーラは知っていた。
ベルはテーブルをベッドの側まで持っていき、その上に食事を置く。シーラの体を起こすと、青年の姿になり、窓に向いた椅子に座った。
「ありがとう、ベル。」
「早く食べろ。」
シーラは祈りを捧げ、食事に口をつける。ベッドに座って食事を取ることは、シーラにとって居心地が悪い。しかし朝食の際に、椅子へ移動しようとしたところ、ベルに怒られた。そのため、ベッドに座って食事することを、彼女は受け入れたのだ。
「足はどうだ。」
ベルはチラリとシーラの右足を見て言った。
「まだ痛むけど、歩けはすると思う。」
「歩くな。」
「うん。」
「血は手に入った。魔を受けてから日数は経っていなさそうだが、人数を殺しているせいか、浸食が速い。まぁ、奴の体は仮初めのもので、生きているわけじゃないからな。殺すもなにも、悩むことはない。」
「……そのことなんだけど──」
ベルの横顔が歪む。ベルには時折、シーラの次の言葉がわかる。念話を利用して彼女の頭の中を覗き見ているわけではない。長らく偶像に入り込み、人間の願いを聞き続けてきた経験と、シーラへの理解度の高さ故である。
「──単に打ち倒しても、きっとバートは、安らかに眠ることはできないと思う。」
「だからなんだ。」
「もう少し、調べてみても良いかな?」
「……好きにしろ。」
「うん、ありがとう。」
不機嫌な時のベルは、毅然としている。こちらが本来の性格なのだろうと、シーラは思っている。なぜ普段は荒くれた物言いをするのか、それは謎だが。
食事が終わり、しばらくすると、シーラはベッドに寝かされた。怪我をしているときは、異様に眠くなる。そして目が覚めると、怪我はほとんど治っているのだ。
「さっさと寝ろ。」
灰猫姿で側に丸まったベルにそう言われ、シーラは眠りに就いた。
シーラに残る古い記憶は、どれも夜の景色だ。月明かりに煌めく海、星々の映る碧い目、遠ざかる明けの空。シーラとその両親は、東からの旅人だ。孤児になった彼女を引き取った修道院で、そう聞いた。なぜ旅をしていたのか、今は知る由もない。
〝────!〟
音のない、断片的な記憶。碧い目の女性が、切羽詰まった表情で口を動かす。男性が女性に何か言い、こちらに手を伸ばす。抱き上げられ、稲光の走る黒い雲から逃げる。周りには得体の知れない靄が湧き出ていた。靄の1つが、こちらに伸びてくる。女性が急に立ち止まり、踠き始める。振り向いた男性に、女性は悲痛の表情で何かを叫ぶ。躊躇いながらも逃げようとした男性の前に、一際大きい靄が立ち塞がる。強く抱きしめられたその腕は、震えていた。
赤い光が見えた。
真っ直ぐこちらに飛んでくるそれは、黒い景色を切り裂き、靄へと刺さる。
その様子にへたり込んだ男性は、それでも、腕の中の少女を護ろうと蹲った。
地鳴りのような音が靄から鳴ると、赤い光が強さを増す。一筋の赤い光は炎となり、辺りを包む。
腕から投げ出される。背を向け、膝をついたまま焼け焦げていく男性が見える。灼熱の空気が、白い肌と喉を焼く。溢れる涙が、流れることなく消えた。
突然、視界が暗くなる。何かに抱えられ、冷たい肌が布越しに伝わる。風が下へと流れ、熱に晒されていた皮膚が冷えていく。炎の中から連れ出され、黒い雲を突き抜ける。
見えたのは、大きな満月だった。
それに見惚れてから、自分を抱く何かを見ようとした。しかし、頭を撫でるように抑えられ、それは叶わない。冷たい温もりが沁みる。意識が、落ちていく。
眠りから浮き上がる。怠さに目を開けられず、寝返りを打つ。手の甲に触れた柔らかい毛が心地よく、指先で撫でる。毛並みがぞわぞわと波打つ感触に、目を開けた。
「……あっ、ごめん。」
「ん、起きたか。」
ベルはどの姿でも、撫でられることがあまり好きではない。しかし寝起きのシーラは、美しい灰猫を撫でてしまうことがある。
「おはよう、ベル。」
「おう、まだ夜だけどな。」
カーテンの隙間から、白んだ空が見える。
「足はどうだ。」
包帯と綿布を取り、傷痕を見る。出血や化膿はなく、既に新しい皮膚が形成されていた。ベルの顔色を窺い、立ち上がる。足に力を入れても、痛みや違和感はない。
「大丈夫そう。」
ぐるるる、と空腹を知らせる音に、シーラは少し顔を赤らめた。ベルはニヤリと笑う。
「丈夫そうで何よりだ。」
「……1日半寝てたのかな?」
「ああ。朝食まで我慢できるか?」
なおもからかうベルに不満気な目を向けると、シーラは黒いローブを羽織り、窓を開けた。その様子を見たベルが、肩に飛び乗る。
2人は窓から外に出ると、屋根へと登る。まだ夜空の山側には、満月が浮かんでいた。海の向こうがわずかに赤いが、まだ街は眠っている。冷たい朝の空気が心地良く、シーラは深呼吸をした。
2人は言葉を交わさず、しばらく屋根の上に座っていた。やがて明るい光が海から溢れ、2人は目を細めた。白い髪と灰色の毛並みを、陽が照らし、風が揺らす。その美しい姿を見た者は、誰ひとりとしていない。
「僕以外はね。」
昼過ぎ、シーラと灰猫姿のベルは、ある屋敷の前に立っていた。美しい彫刻が施された外壁と、手入れが行き届いた庭。しかし、屋敷や庭の規模はさほど大きくない。
「ここがオーウェンさんのお屋敷です。今は、彼のご友人のご子息が住んでおられます。」
クリストファー所長がそう言い、扉脇の紐を引く。しばらくして扉を内から開けたのは、家政婦と思しき女性だ。
「すみません、突然。」
所長は家政婦に、シルヴァーノが祓魔師であり、墓地近くでの事件について調べていると、説明した。
「少々お待ちください。旦那様に確認して参ります。」
家政婦は一度、屋敷に戻る。
「彼女が、オーウェンさんに雇われていた家政婦の方ですか?」
「ええ。彼女はオーウェンさんが亡くなった後も、この屋敷の管理を引き受けてくださいました。」
待ちに待った朝食の後、シーラは黒い犬──バートについて知るため、所長の元を訪れた。彼曰く、オーウェン前市長の屋敷には家政婦が1人だけで、彼女は今もその屋敷で雇われている、と。所長は親切にも、その屋敷まで案内してくれたのだ。
屋敷の中に招き入れられ、今の持ち主である男性に挨拶を済ませると、別の部屋に通された。シーラと所長がテーブルを挟んで座り、家政婦が横に立つ。
「バートが、旅人を?」
シーラと所長の考えを伝えると、彼女はため息をついた。
「生前も乱暴な犬ではありましたが、まさか死んでからも人を襲うなんて……」
「バートの魂が御許に向かえない原因は、おそらく、彼の墓の中にあります。何か、共に埋葬した物はありませんか?」
「いいえ、何も。バートは好きな玩具もありませんでしたし……なぜ、旅人を襲うのでしょうね。もう主人は、御許へ召されたというのに。それに気づいていないのかしら。」
家政婦は自らの右手を摩った。
「私も世話をするときは、よく噛まれました。大人しいのは、旦那様の側だけで……でも、旦那様が亡くなられた日は、私にも噛みつきませんでした。いつもはなかなか外させてくれない首輪も、すんなり取らせてくれて。いま思えば、もう弱りきっていたのでしょうか。その後、すぐに死んでしまいましたから。」
「待て、首輪?」
突然、口調の変わった祓魔師に、市長と家政婦は呆気に取られる。祓魔師は笑って誤魔化すと、家政婦に聞いた。
「その首輪は、今どこに?」
「旦那様と一緒に埋葬いたしました。」
シーラは、肩の上のベルに意識を集中させる。
(魔の臭いがしたのって、どっちからだった?)
(主人の墓と犬の墓がかなり近かったからな。どっちかまではわからなかった。)
(その首輪が〝楔〟かな?)
(だろうな。)
シーラは悩んだ。墓を掘り返すのはあまりに罰当たりだ。何より、彼を慕っていた多くの人を傷つける。しかし、首輪を祓わなければ、バートに安らかな眠りは訪れない。
「その首輪が魔に浸食されていれば、バートをこちらに縛り付けている原因はそれです。祓うには一度、墓から取り出さなければなりません。」
「それは、つまり……」
所長はその先の言葉を言わず、家政婦と顔を見合わせた。
「墓を荒らすことは、死者に対してだけでなく、彼への祝福と、彼を想う全ての人に対する不敬です。わかっています。ですから、もし目を瞑ってくださるのなら、私1人で行います。」
シーラは家政婦と目を合わせた。黒い布から覗く赤い目を彼女は見つめ返すと、仕方がないと言わんばかりに苦笑した。
「本当に、世話の焼ける子です。……バートを、どうか送ってやってください。」
「はい、必ず。」
シーラの返事を聞いた所長は、わざとらしく咳払いをした。
「……最近は、海路関の方が疎かになってしまっていたな。港街としてよろしくない。明日は、そうだ、取り締まり強化日だ。旧道の道路関の方は、まぁ、私1人いれば大丈夫だろう。」
所長は灰猫にウィンクをすると、〝いやぁ、独り言が出てしまった〟と笑った。
泣き声が聞こえ、黒い犬はその体を起こした。冷たい主人の元を離れ、泣き声のする方へと進む。硬い地面を渡り、木々の間を進む。徐々に泣き声は大きくなり、光が仄かに見える。草の中で光る物の近くで、小さい人間が泣いていた。黒犬は、その人間を殺そうとは思わなかった。主人に害を与える存在には思えなかったからだ。
泣き続ける小さい人間を陰で見ながら、黒犬は、その光る物を思い出した。主人を初めて見た時に手にしていた。主人が眠る前に、自分を呼び、何かを言いながら頭を撫で、その光を消していた。
黒犬が姿を現すと、小さい人間は泣き叫んだ。しかし、黒犬が光る物の細い部分を咥えると、その姿をジッと見た。
「────?」
小さい人間は、黒犬を呼ぶ音を口にした。主人の声でないそれに、黒犬は従う気はない。光る物を咥え、硬い地面の方に数歩進んで、振り返る。小さい人間は、恐る恐る黒犬に付いていく。
黒犬は不思議な気分で、出会った時の主人を思い出していた。躊躇いながら付いてくる黒犬に振り返った主人は、優しい目をしていた。時折、噛みつかれて血の出た手を、黒犬に差し出しながら。
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