第4頁:黒殀犬(2)
海風が坂を登り始めた朝、シーラとベルは山の関所へと向かった。ちょうど関所の建物から出てきた兵士が、黒いローブを怪訝そうに見る。しかし、肩に乗った美しい灰色の猫に、その表情を和らげる。
「おはようございます。関所の方ですか?」
灰猫姿のベルが、シーラの代わりに男の声で話しかける。
「ああ。峠を越えるなら、東側の関所を通ってくれ。こっちは旧道だからな。」
黒いフードと布に覆われた顔に、兵士はそう応える。
「いいえ、今日はまだ。私、祓魔師のシルヴァーノと申します。」
〝シルヴァーノ〟とは、シーラが祓魔師を名乗るときに用いる偽名だ。彼女がこの旅に出る際、祓魔の師匠である神父が、彼女に与えた名前である。
「昨日この街に到着したのですが、山から魔の気配を感じました。街の女性からも、旧道で恐ろしい事件が起こっていると聞きましたので、お役に立てないかと、こちらに。」
「祓魔師の方でしたか。市長がご依頼を?」
「いいえ、私は旅をしながら祓魔を請け負っていますので、ここを訪れたのは偶然です。」
正確には、偶然ではないのかもしれない。と言うのも、人狼を祓った翌朝、ベルが不機嫌そうに放った〝西の海峡を渡る〟という言葉に従って、この街を訪れたのだ。それが、この街から漂う魔を察知しての言葉かどうか、シーラにはわからない。彼女が〝どうして?〟と聞き返すと、ベルは〝知るか〟と言って、さらに機嫌を悪くし、それっきり話そうとしなかったからだ。
「旅を?それは珍しい。少し待っていてください。」
兵士は建物に一度入ると、しばらくして、初老の男性を連れて戻ってきた。
「ようこそ白壁の島へ、祓魔師殿。私はここの所長を仰せつかっております、クリストファーと申します。」
「祓魔師のシルヴァーノです。」
「この折に祓魔師の方が偶然いらっしゃるとは、まさに御加護。どうか、協力していただきたい。」
灰猫の尻尾が小刻みに震え、シーラの肩を叩く。
「もちろんです。」
「それはありがたい。これから、事件が起こった場所に向かうところです。ご一緒にお願いできますか。」
「ええ。」
兵士が素早く先頭に立ち、山の方へと進む。
道すがら、所長は事件について話し始めた。
「最初の事件が起きたのは、16日前のことです。この先の三叉路で、3人の死体が見つかりました。旅人だと思われます。」
坂の先に兵士たちの姿が見える。側には布のかけられた死体が2つ。周りの血痕から、多量の出血があったことがわかる。三叉路では、奥に登っていく道と、右にやや下る道に分かれており、右の脇道の先には墓地が見えた。
「2件目は2人。同じく、この街の人間ではありませんでした。そして、今回も死体は2人分です。」
「見させてもらってもよろしいですか?」
所長が兵士に頷くと、兵士は布を捲った。シーラは祈りを捧げた後、死体を観察する。首元には噛み傷があり、それが致命傷だとわかる。しかし、それ以外に噛み傷等の大きな外傷は無かった。もう1つの死体の周りには血痕が無く、噛み傷も無かった。
「どうでしょうか?」
所長は心配そうに祓魔師に尋ねる。
「彼らの命を奪ったものが、魔であるかどうかは、まだわかりません。でも、食べるためではなく、殺すために噛みついた、というのはわかります。ただの獣が、そんなことをするとは思えません。訓練されているか、強い意志が働いているか……」
ベルが墓地の方へと目を向ける。シーラはそれに合わせて立ち上がり、同じ方を見た。
「あれは、街の方々の墓地ですか?」
「ええ。あそこは特に、役職に就いていた方や、代々この街に住んでいた方を弔っています。」
墓地に向かっていくベルとシーラを追って、所長も坂を下る。木々の間から、街と、荒くも美しい海がよく見える。
「祓魔師殿、ここだけの話なのですが──」
所長は墓地の奥へと進み、ひときわ大きい墓石の前に立つ。
「──彼らを殺めたものに、心当たりがあるのです。」
「どういうことですか?」
所長は墓石に刻まれた名前を、尊敬の眼差しで見つめる。
「24日前、先代の市長であった、オーウェンさんが亡くなられました。とても偉大なお方でした。聡明でいて親身であり、皆が彼を愛していました。」
所長は、淋しそうに視線を落とした。そして、脇にある小さな十字架を見た。
「遺産のほとんどは街に寄付されました。彼の家族は、1匹の犬だけだったからです。〝バート〟という名前が付けられた赤い隻眼をもつ黒い犬は、とても破天荒でした。オーウェンさんが側にいないと、目に入った人間に吠えかかり、近づけば子どもでも容赦なく噛みつく。彼のせいで犬が怖くなってしまった子も、少なくないでしょう。バートは、オーウェンさんの後を追うように死にました。……私は死体の噛み傷を見たときに、直感的に思ったのです。主人を失い、首輪を外されたバートがやったのでは、と。」
所長は乾いた笑いを吐いた。
「死んだ犬が化けて出ているなんて戯言、部下には言えません。ですから、祓魔師の方に来ていただいて、本当にありがたいのです。」
彼は、黒い布から覗く赤い目を真っ直ぐに見た。
「もしバートの仕業でしたら、できれば優しく祓ってやってください。あいつは、人気者ではありませんでしたが、主人思いの犬でした。失った右目も、夜中にオーウェンさんの屋敷に忍び込んだ盗賊に立ち向かって負ったものなのです。きっと市長がいなくなって、淋しかったに違いない。」
「はい、最善を尽くします。」
シーラの返事を聞き、所長は〝お願いします〟と穏やかに言った。
昼を過ぎ、街に戻ったシーラとベルに、女性が声をかける。
「祓魔師様!」
昨日、宿を紹介してくれた酒場の女性だ。
「昨日はありがとうございました。」
「いいえ!それで──」
女性は声を潜め、シーラに近づく。
「──もしかして、また事件が起こったのかしら。」
「……はい。」
「やっぱり、盗賊の仕業?」
「盗賊?」
「ちょっと前にね、ウチに来た旅人が噂してたのよ。亡くなった市長の宝物が墓に眠ってる、って。だから、悪い輩がこの街に潜んでるんじゃないかと思ってる人もいるのよ。」
「……それはまだ、わかりません。もう少し調べてみないと。」
「そうよね!ごめんなさい、急かすように聞いちゃって!」
急に近くで大きな声を出され、灰猫姿のベルは跳び上がって肩から落ちる。シーラは受け止めると、早く返答するようベルに目配せをする。
「いっ……いえ。情報ありがとうございます。」
動じていない黒ローブとうわずった声に、女性は首を傾げた。シーラは足早に宿へと戻った。
遅めの昼食を宿の部屋で取りながら、シーラは情報を整理していた。
死体の傷は、獣の噛み傷だった。クリストファー所長の言う通り、オーウェン前市長の犬が魔物になって旅人を襲ってる?盗賊の話も気になるけど……盗賊が飼い犬に旅人を襲わせてるとか。でも、前市長の宝が目当てなら、それはおかしい。
「やっぱり、その〝バート〟って犬の仕業なのかな。ベルは墓地で何か感じた?……ベル?」
灰猫姿のベルは、窓枠に座っていた。いた。陽に当てられた毛皮が、銀に輝く。
「まだ機嫌が悪いの?」
「ん?」
ベルは、酒場の女性がいきなり大声を出したことに、〝これだから人間は〟と、いつもの調子で文句を言っていた。
「ちげぇよ!ただ……いや、なんでもない。その犬がやったんじゃねぇのか?」
「真面目に考えてよ。」
「考えてるよ。墓から魔の臭いがした。犬を魔物にしてる〝楔〟が埋まってるんだろ。それを祓ってやるのが手っ取り早いな。」
「でも、墓を掘り返すのはちょっと……」
「とりあえず今夜、その犬に会いに行くぞ。話してわかれば良いな。」
「ベルは犬の言葉がわかるの?」
「皮肉だ、馬鹿。わかるわけねぇだろ。」
むっとした祓魔師の顔を見て、灰猫は満足気に尻尾を揺らした。
厚い雲が月を隠す。暗い三叉路に佇む黒いローブに、同じく黒い毛皮の犬が近づく。燃えるような赤い片目を見ても動じない人間に、黒犬は身構えた。同じく赤い目を持った人間は、何かを言った。黒犬には人間の言葉はわからないが、その響きが、自分を呼ぶ時に使われる音だと言うことは知っていた。主人の口から数え切れないほど聞いた、愛しい音。だが、あれは主人ではない。夜、主人に近づくものは、黒犬にとって敵なのだ。
黒犬は人間に向かって駆ける。首に噛みついてやろうと跳ぶが、突然、火と共に現れた硬い棒で防がれる。
地面に降り、すぐに足を狙う。それを避けて飛び退った人間を、さらに追う。正面から振られた棒を避け、足に噛みつくと、頭上で呻き声が聞こえた。
人間が何かを言っている。叩くでもなく、蹴るでもなく、ただ呻き声混じりに、黒犬に話しかける。黒犬は、いつかの主人の姿を思い出した。ずっと昔、主人が主人になった時のことを。
黒犬の後ろ足に痛みが走る。人間の足を離し、後ろ足を蹴り上げるが、黒犬に噛みついたであろう何かに当たりはしなかった。黒犬が後ろを見ると、口に血がついた1匹の灰色の猫がいた。
人間が立ち上がり、足を引きずりながら街の方へと進む。黒犬は後ろから噛みつこうとしたが、灰猫に飛びつかれ、睨み合いになった。人間が見えなくなると、灰猫も街の方へと姿を消した。
暗い三叉路には、黒犬が1匹。噛みつかれた後ろ足からは、まだ血が出ているが、明日の夜には塞がっているだろう。
〝あんたは忠犬だな。〟
あの人間の言葉はわからなかったが、黒犬は一度だけ、言葉を理解したことがあった。その日から、不思議な体になった。
〝でも今のあんたじゃ、主人を護ることはできない。〟
黒犬と話したそれは、狩りに出る主人と似たような姿をしていた。
〝その牙、主人のために振るってやれ。〟
主人に近づくそれに、黒犬は噛みついた。しかし、それに牙は当たらない。その頃はずっとそうだった。飛びかかっても、誰にも噛み付けない。
黒犬は何かを感じた。人間に目を潰された時と似たような、何か。
未だ主人に近いそれに、もう一度、黒犬は噛みついた。牙が肉を裂き、血が口の中に流れ込む。黒犬は驚いて牙を抜く。
〝はは。良かったな、忠犬くん。〟
呻き声すら上げず、それは森へと消えていった。それからというもの、夜になると噛み付けるようになった。怪我をしても痛みは少なく、次の夜には治っている。主人を護れることに黒犬は喜んだが、彼を撫でる手の温もりは、久しく感じていなかった。
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