第3頁:黒殀犬(1)
醜い悲鳴を上げて、男の1人が倒れる。
「あぁ……」
もう1人の男も恐怖に後退り、情けなく尻餅をついた。その横には、悲鳴を上げたきり泡を吹いて動かなくなった、仲間の体があった。
「ひっ……」
死を目の当たりにした男は逃げようとするが、低い唸り声に固まる。暗闇の中へ目を向けると、赤い目が1つ。
「ゆ、許してくれ!頼む……!」
腰を抜かしたまま尚も後退る男に、黒い体が近づく。
「助けてくれ!!誰か!!だ──」
男の叫び声は断末魔に変わることすらなく、牙に殺された。血を滴らせた黒い犬は、重い雲を流し始めた風と共に、姿を消した。
貨物船から降りたシーラは、肩の上でぐったりとした灰色の猫に、意識を集中させる。
(ベル、大丈夫?)
頭の中で話しかけると、同じように、声無く返ってくる。
(きもちわる……あの船乗り、運転が荒いんだよ……)
(荒かったのは海で、船長さんは良い人だったよ。)
(どこが!気色悪ぃ顔で勝手に撫でやがって!俺は船に酔ったんじゃない、あのジジィに悪酔いしたんだ!)
(貨物船に無理言って乗せてもらったんだから、我儘言わないの。)
夕方を迎え、海はひと時の穏やかさを見せる。荷物運びに指示を出す船長は、その合間で、シーラに軽く手を振った。シーラは彼に頭を下げ、町の方へと歩き出す。関所の兵士が、無言で通行料を箱に入れた黒いローブを、訝しげに見る。しかし、肩に乗った美しい灰猫──ぐったりはしている──に見惚れると、慌てて顔を引き締め、運ばれる荷物に視線を移した。
(やっぱり、飛ぶか泳ぐかした方が良かったんじゃないの?)
シーラは、関所の兵士に止められなかったことに安堵しつつも、兵士の数が少ないように思えた。海路での行き来が盛んな街と聞いていたので、海側の関所には多くの兵士がいるだろうと、考えていたからだ。
(お前が船酔いになって、顔がいま以上に白くなるのを見てやるはずが……ピンピンしやがって……)
(ちょっとフラつくけど……って、そんなこと考えてたの?それなら自業自得だね。)
(ゔっ、るせぇ……)
レンガの壁や白い壁、赤茶の屋根が連なる坂の街には、海に面していることもあり、海産物を売る店や、航行者が立ち寄る酒場が多く並ぶ。人々が身につけている服も様々で──上半身裸の男も少なくないが──黒いローブが比較的目立たないことを、シーラは少し喜んだ。海路関で止められなかったのもそのせいだろうかと、彼女は思った。
夜が近づき、急な坂に沿って並ぶ建物を、吹き下ろされた風が冷やす。山上の雲を運び始めたそれに、ベルは鼻をひくつかせた。
(シーラ。)
(なに?)
(臭う、山からだ。)
(……町に泊まった方がいいね。)
ベルの言葉が、魔の存在を示すものだと、シーラは知っていた。
「すみません。」
酒場の前で客引きをしていた女性に、声をかける。
「こんばんは、旦那様。お食事ですか?」
女性はシーラを〝旦那様〟と呼んだ。それもそのはず、女性にかけられた声は、男のものだった。口元を布で隠したシーラは、声を発していない。まさか、肩に乗った灰猫から声がしているとは、誰も思わないだろう。そのため、並の男ほどの背丈をした黒ローブが声の主だと、女性は判断したのだ。
「いえ、宿泊を。」
女性の顔が曇る。
「えーっと……ウチはごめんなさい。今日は埋まっていて。」
「どこか、泊まれるところを教えていただけませんか?」
「……旅のお方ですか?」
「はい、海を渡って。先ほど着いた貨物船に、乗せていただいたのです。」
そう聞くと、女性はわずかに緊張を緩めた。
「そうでしたか。……申し上げ難いのですが、今はどこも、旅人を泊めたがらないのです。」
「なぜですか?」
「実は、山近くの旧道で恐ろしい事件が起きていて。ウチも、宿泊は顔馴染みの方だけにさせていただいてます。」
「それは、憲兵隊の方々がお調べに?」
「いいえ、関所の兵士様方が調べておいでです。」
海路関の兵士が少なかったのは、山の方に人を割いていたからだと、シーラは感づいた。
「どうして、そんなことをお聞きに?」
「私は祓魔師です。お力になりたいと思いまして。」
「まぁ、祓魔師の方でしたのね!そうですね……ここより山側に、友人が経営している宿がございます。それこそ、今は泊まる方が減っているので、部屋が空いているでしょう。そんなところをご紹介するのも、失礼な話ですが……」
「いえ、ありがとうございます。案内していただけますか?」
「もちろんです。」
シーラは、紹介された宿の一室に泊めてもらうことになった。ベルは灰猫姿のままなので、1人分の料金を支払う。シーラは毎度、良心がやや痛むのだが。
「どうぞ、こちらの部屋です。」
宿の主人は食事の乗ったトレイを片手に、部屋の扉を開ける。
「お食事、こちらでよろしいですか?」
主人はトレイを部屋中央のテーブルに乗せる。
「はい、ありがとうございます。無理を言ってすみません。」
本来は共通の食事場でいただくことになっているが、シーラは人前でフードを脱ぐことができない。そのため、部屋で食事を摂れるよう、主人に頼んだのだ。
「いいえ!幼馴染からの紹介ですしね。それに、神父様にはどうか、この街の魔を祓っていただきたい。ただでさえ先代の市長がお亡くなりになって、淋しい雰囲気だというのに。さらにお客が減って、本当に困っているんです。」
「もちろんです。この御恩は、必ずお返しいたします。」
「よろしくお願いいたします。食器は部屋の外に置いていただければ結構ですので。では、失礼いたします。」
主人が部屋を出ると、ベルは灰猫姿まま、扉の前に座った。扉に赤く模様が浮かび、燃え尽きるように消える。ベルが廊下から部屋を〝分断〟したのだ。と言っても、部屋が宿から切り離されて、どこかへ飛んでいったわけではない。術が解けない限り、外から扉は決して開かず、会話を盗み聞きされることもない。
「はぁ……」
その様子を見守り、シーラは安堵に息を吐いた。ローブと手袋を外す。女であることを隠すためのそれらを整え、扉近くの小さなテーブルに置いた。
「良かったな、宿が見つかって。」
いつのまにか青年の姿になっていたベルが、食事として出されたシチューにちぎったパンを付け、口に放り込む。ベルは悪魔であるため、人間と同じような食事は必要としない。味すらほとんど感じないはずだが、シーラの食事をよくつまむ。シーラは胸辺りまである白髪を緩く結び直すと、祈りを捧げてから、スプーンを手に取った。
「やっぱり宿を見つけるのは疲れるね。バレないか緊張する。」
ベッドに寝っ転がったベルは、静かにシチューを口に運ぶ彼女を横目に、軽く畳まれたローブを、ふよふよと浮かせながら広げる。
「ったく、悪魔祓いに女も男も関係ないってのに。そういうところ、人間はホント馬鹿だよな。」
「しょうがないでしょ。祓魔師は男性しかなれないって、決まりがあるんだから。」
「それがダメだってんだ。俺だったら、むさい男になんか絶対祓われたくないね。きれいな女の方が、〝祓われてみようかな〟って気にもなる。」
「気持ちの問題なんだ……」
ベルはローブを空中で畳み直すと、棚の上に戻した。
「ベル、開けても大丈夫?」
食事を終えたシーラがトレイを手に、扉の前でそう聞いた。
「おう、誰もいねぇよ。」
扉に先ほどと同じ模様が現れると、シーラは扉を開け、素早くトレイを廊下に置いた。扉が閉められると、再び模様は燃え尽きるように消えた。
装備品の整備を終えたシーラに、ベルが聞く。
「明日はどうするんだ。」
シーラは手にしていた槍を布の上へ置く。すると、小さな火が柄の端から素早く燃え進み、槍を消した。
「まずは関所だね、山の方の。」
寝支度を始めるシーラを見て、ベルは毛布を1枚、ベッドの片隅に丸めて置き、灰猫姿をとった。シーラは窓際に移動させた椅子に座り、両手を組んで目を閉じる。灰猫は祈りを捧げる祓魔師に背を向け、毛布の上に丸まった。
無数の魔が見つめる。石の祭壇、手足の錠、術師たちの声、粘ついた空気。どれもが異常に冷たい。目に溜まった涙さえも、凍ってしまいそうなほど。少女に近づこうとした魔が、わずかに煙を残して消える。未だ、彼女に辿り着くものはいない。しかし、徐々に現れる魔の格が上がっていると、少女にはわかった。その赤い目は、魔をよく映す。喚び出している術者たちには靄のようにしか見えない弱い魔も、その〝顔〟が彼女には見える。
部屋の温度がさらに下がる。術者たちの喚び声が揺らぐ。彼らにも見えるのだろう、現れた強い魔が。弱い魔が通ろうとすれば、こちらに留まることすらできない、強引で不自然な図形。それを通り抜け、魔が迫る。
「────」
少女は問いかけられた言葉を拒絶する。それを理解してはならない。彼女は直感的にそう思った。
(私の身体は渡さない!)
魔の〝顔〟を睨む。涙が零れ、彼女の白い髪を濡らす。
魔が笑う。
「ああああああああ!!」
邪悪な何かが体に流れ込んでくる。皮が剥がされるような激痛と不快感に、少女は叫んだ。それでも、魔を拒絶し続けた。
(受け入れる、くらいなら……!)
絶叫の中、少女は祈り、自らの舌を噛み切ろうとした。
「そうだ!そんな奴に渡すことはねぇ!」
部屋の温度が上がる。肌がひりつくほど、急激に。
術者たちの喚び声がどよめきに変わる。彼らにも、笑いを含んだその声が聞こえたのだろう。
「馬鹿だな、ホント。強い魔を取り憑かせて操ろうだなんて。身勝手にも程がある。しかも、自分の体は怖くて使えないか!」
目の前まで迫っていた魔が、煙を上げて消えた。代わりに、笑う魔が近寄る。記された円環をものともせず、徐々に形を成していく。少女の側まで来たときには、美しい青年の姿をしていた。手足の錠が燃えたかと思うと、火とともに消えた。体を起こした少女に、魔は聞いた。
「お前、俺の〝杯〟になれ。」
それが、この強大な魔を憑依させることを意味するのだと、少女は悟った。
「い、嫌です。私は、魔を憎んでいます!憑かれるくらいなら、清廉なまま死を選びます!」
「いいね!ますます気に入った!」
魔は屈み、火のように赤い少女の目を見つめる。
「俺は訳あって、馬鹿な
ようやく状況を理解し始めた術者たちが、喜びに声を上げる。ついに強大な魔を喚び寄せることに成功した、と。しかし、その歓声は、彼を苛立たせただけだった。
「うるせぇ!」
術者の1人が、火に包まれる。
「うわぁああああ!」
悲鳴を上げた術者は、しばらく暴れ苦しみ、床に倒れて沈黙した。術者を護るはずの円環を無視し、自在に命を奪ってみせた魔に、他の術者たちは恐怖する。
「どうだ?俺の力を使えば、お前は憎き悪魔どもを祓える。お前の身体を貸せば、俺も目的を果たせる。いい話だろ?」
少女は悩んだ。自分の身体に、異変を感じたからだ。魔を取り込んでしまったのか、邪悪な力を内から感じる。清廉な身は、既に失ってしまった。
「……条件があります。」
「なんだ?」
「身体を貸しても、私の祈りを妨げないでください。」
「祈り?神との繋がりを絶たせるなってことか?」
「そうです。」
「あー……それなら大丈夫だ。ったく、おかしなこともあったもんだ。」
青年はため息混じりにそう呟いた。その様子があまりに人間らしく、少女は呆気に取られた。魔はひとつ咳払いをして立ち上がると、少女に問いかける。
「名を告げよ、剣を向け、杯となる者。」
「……プリシッラ、です。」
見上げた赤い目に、魔は笑う。それは決して、少女を陥れるものではない。心身の苦痛に耐え、勇気をもって応えた者への賞賛だ。
「我が名は
「……え?」
ベリアルは手を差し出す。プリシッラは、彼の言葉の真意を読み取れないまま、その手を取る。纏う空気の熱さとは裏腹に、冷たく心地良い手。誘惑に満ちた言葉ではなかった。怒りさえ含んだ声音であった。触れた手に、命は感じられなかった。それでも、その悪魔の囁きは、彼女の心を動かした。
ベリアルは、プリシッラの手を引いて立たせる。
「良い目だ。」
ベリアルは真っ直ぐに見つめる。不気味な赤い目を褒められるのは初めてのことで、プリシッラはその瞳を震わせた。
「さて、まずは……腹が減った。」
ベリアルの目が、術者たちを舐める。
「不味そうだがな。これだけいれば、腹は膨れそだ。」
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