第2頁:人狼(2)
空には厚い雲が立ち込め、それを追いやる風もない。月の光は届かず、家の灯りも落ち、町は闇に包まれていた。
「祓魔師殿。」
「おや。これはこれは、ウェンデルガルト分団長。見廻りですかな?」
祓魔師は手に持ったランタンを少し掲げる。分団長は眩しかったのか、眉を顰めた。
「これから出るところだ。貴殿も?」
「ええ。人狼も、そろそろ腹を空かして堪らない頃でしょうから。」
下げたランタンが揺れ、金属同士の擦れる音が、恐ろしく静かな町に響く。
「私も共に行こう。今夜は特に暗い、1人では危険だ。」
「それはありがたい。実のところ、戦うのは苦手で。」
そう言って、祓魔師は階段を降りる。
「心配ないと言っていなかったか?」
軽く笑った分団長も、彼に付いて町中へと向かった。
暗闇をランタンが2つ。静寂を靴音が2つ。
「実は──」
分団長が口を開く。
「──初めて祓魔師殿にお会いした時、貴殿がローブの男なのではと、疑っていたんだ。」
「それも仕方ありません。分団長殿は町を護る御方。このような状況下で余所者、しかも〝流れ〟の祓魔師を名乗る男が現れれば、疑うほかないでしょう。」
「……申し訳ない。」
「はい?」
「先日、貴殿を〝流れ者〟と呼んだことだ。」
「いえいえ!仰る通りでございますから。行く先々でそう思われているでしょうが、特に気にしておりません。自らのするべきことさえできれば、私は満足ですよ。」
「貴殿は本当に、すばらしい祓魔師のようだ。」
ランタンが軋む。不快な音が分団長の手の中で響く。
「!!」
分団長はその場から飛び退った。頭上からのわずかな風切り音、それを捉えたのだ。
衝突音と砂埃の中に、誰かがいる。分団長が立っていた石畳みには、大きな亀裂が入っていた。彼女の手から離れたランタンは、そのすぐ近くで割れている。外気に直接晒され、不規則に揺れ始めた炎が照らしているのは、黒いローブ。手袋をした素肌の見えない手には、その背丈と同じほどの長さをもつ槍。しかし刃は、通常のものより平たく延ばされている。柄との結合部には、突起が刃を摘むように2つ、悪魔の角を思わせる独特の曲線を描いていた。
分団長は、既に手をかけていた剣を抜く。
「貴様が狼男か。」
黒ローブは言葉を発さず、右足を前に出し、槍先をやや上げて構え直す。すると、刃に模様が赤く浮かび上がる。美しく繊細、しかし苛烈。暗闇でそれは、火の如く揺れる。
「いったい何者だ!」
分団長の言葉を無視し、黒ローブは彼女に突撃する。引いていた左半身で槍を大きく突き出し、分団長に対してほぼ正対する形になる。
分団長は姿勢を低く保ち、突かれた槍を右下に避けて、懐に潜り込む。右足を黒ローブの真横まで踏み込み、鳩尾から心臓を狙った一撃。
しかし、刃が裂いたのは布だけだった。
槍による突きを放った直後にも関わらず、黒ローブは左足を大きく引いて半身になり、分団長の剣を躱したのだ。
半身になった反動も乗せ、槍は回すように左下に振られる。体勢の戻らない分団長の首を、槍の柄が捉える。
「っ……ぁ……」
地面に叩きつけられ、視界が回る。こめかみから頬へ血が流れる感覚、徐々に暗くなる視界。浮かぶ赤い刃と目。見上げたフードの中、わずかに見えたのは、白髪と、白い肌。生気を感じさせないその姿に怯えながら、分団長は意識を手放した。
囁きが聞こえる。
『君はこの町を愛している。』
音色が聞こえる。
『この町も君を愛している。』
羽ばたきが聞こえる。
『町を護る、強い君が必要だ。』
唸り声が聞こえる。
『多少の犠牲を払ったとしても。』
意識が急速に浮上する。
「は……!」
覚醒した直後とは思えないほど、心臓は速く脈打ち、呼吸は荒い。視界に入る光が痛いほどに眩しく感じ、目を瞑った。
「おや、お目覚めですかな。」
低く沁みる声に目を細く開け、視線だけを向ける。
「祓魔師殿……」
「ええ、ええ。流れの祓魔師です、ウェンデルガルト分団長。」
〝しばしお待ちを〟と言って、祓魔師は顔だけを扉から外に覗かせた。忙しなく部屋に入って来たのは、分団長の部下たちだ。
「ああ、デラ分団長!良かった、本当に……ありがとうございます、祓魔師殿!」
「いえいえ、これも務めですので。それよりも、お医者様に診ていただかなければ。」
慌てて左右に避ける団員たちの後ろから、医者がベッドに近寄る。分団長の身体を数箇所確認し、顎に手を当てて唸った。
「……奇跡だ。」
驚く医者の後ろで、団員たちに喜びの表情が浮かぶ。
「やはりデラ分団長は天に愛されていらっしゃる!魔物に襲われ、死の淵から生還した時も──」
「静かに、頭に響く。」
分団長は興奮気味の団員を鎮める。
「祓魔師殿、貴殿が助けてくれたのか?」
体を起こそうとした分団長を、団員が止める。
「昨夜、頭から血を流して失神した分団長を、祓魔師殿が運んで来てくださったのです。」
大人しく横たわった分団長を見て、医者が口を開く。
「打ち所が悪く、かなり危険な状態だった。それこそ祈るしかなかったが……祓魔師殿が祈祷をしてくださると言って、我々は部屋の外で待っていたんだ。」
分団長は祓魔師の顔を見る。相変わらず整い過ぎた笑顔で、彼は話す。
「魘されていたので、もしや、と思ったのです。私であれば、命をお救いできるのでは、と。」
「……ありがとう、祓魔師殿。なんとお礼を申し上げれば良いか。」
「お礼などと、そんな。私はするべきことをしたまでです。ですが、ええ、しばらくは安静に。それが私の願いでございます。」
祓魔師は美しく微笑み、金の目を見つめた。
月の光が町を照らす。こんな夜も路地は暗く、魔が潜む。
石畳みを駆ける獣の足音。その先には、女性の姿がある。狼は空腹を堪え、角を曲がる女性を追う。しかし、他の匂いにその足が止まる。
「ウェンデルガルト分団長、まったく、あなたという人は……私からのささやかな願いも、聞き届けてくださらないのですか?」
「祓魔師殿、申し訳ない。じっとしていられない性分でね。」
「快方に向かうことは良いことですがね、いささか早過ぎるのでは?」
「お医者様も驚いていたよ。不思議なこともあるものだ。」
「不思議?あぁ!いえいえ、申し訳ない。言葉が足りませんでしたな。」
男が笑う。
「人間のフリをしているのであれば、早過ぎますな。」
彼女の金の目が揺れる。
「何を言って──」
「1つ、初めてあなたをお見かけした時、その目が気になりました。この辺りでは珍しい金の目をお持ちで。」
「それが何か?」
「それ、いつからですかな?」
「は?」
「生まれ持ったものではないでしょう。あまりにも綺麗過ぎる。」
「……言っていることが理解できないが、人の容姿について言及するのはいただけないな。」
「これは失礼。では2つ。人狼を見た者がいないのに、あなたは頑なに〝狼男〟と呼んでいた。なぜでしょうか?」
「人狼はオスが圧倒的に多いと聞いている。」
「では3つ。被害者に触れた時にあなた、笑っておられましたよ。」
「適当なことを──」
「4つ。あなたとはこの角で鉢合いましたが、直前まで靴音がしませんでした。」
「…………」
「裸足で散歩をするのがご趣味で?」
「……あぁ、そうだ。裸足で石畳みをを駆けるのは、悪くない。」
分団長の骨格が変形する。ところどころで骨の軋む音を立てながら、変わり果てたその姿は、狼だ。
狼は男の首筋に噛み付く。鮮血が毛皮を、司祭服を、石畳みを汚す。
『さっきまで追いかけていた女の方が良かったんだが、まぁ良い。空腹で仕方ないんだ。』
絶命しただろうと一度牙を抜き、喰らうために再び牙を突き立て──
「追いかけていた女は、私かしら?」
『な!?』
首を食いちぎられた男──いや、今は女の容姿をしている。〝それ〟が何事もなかったかのように笑顔で喋り出す。恐怖で狼は後退る。
「はははは!本性現しやがったな、狼女ぁ!」
さらに青年へと姿が変わっていく得体の知れない〝何か〟から、狼は逃げようとした。しかし、退路には別の存在が待ち構えていた。
「ベルも本性現してるけど……」
黒い、ローブの……
『女!?』
白い髪に、白い肌。赤い目をもつ、背の高い女性。
「5つ!」
首についた血を鬱陶しそうに拭いながら、〝ベル〟と呼ばれた青年──先ほどまでは女性だった〝何か〟──は、声を上げた。
「狼男の容疑をシーラに……あぁ、そいつのことな、なすりつけることに必死過ぎて、誰も知らねぇはずの黒いローブの性別を〝男〟と断定したこと。」
「6つ。」
今度は〝シーラ〟と呼ばれた女性が続ける。
「私の顔を見ていないはずのあなたが、私の目を赤だと言ったこと。」
祓魔師が少女を助けた次の日──
〝やはり、ローブの男が怪しいな。あの赤い目は、魔のものだ。〟
「あの時点であんたは、シーラの目を見ていないはずだ。初めて対面した時には、しっかりフードを被らせたからな。助けた女は話せるような状態じゃなかったから、そいつから聞くのは無理だ。それ以外に赤い目を見た奴は、あん時シーラが撃退した人狼だけってことだ。んで、7つ。」
ベルは狼の金の目を指さす。
「あんた、嘘つく時に一度も俺と目を合わせなかった。だから見てやったんだよ、紅茶越しに。」
記憶の中、口をつけずにカップをソーサーに戻した祓魔師の姿が思い返される。
『あの時か!』
「よぉーく見えたぜ、魔物の目がなぁ!ははぁ!イケてるだろ!」
ひとしきり笑ったベルは、狼の視線に合わせて屈んだ。
「さぁて、名推理を披露したところで、質問に応えてもらおうか。なぁ、シーラ。」
「うん。ウェンデルガルト分団長、あなた、ファンファーレを聞きましたね?」
『なぜそれを!?』
「悪魔の囁きに、応えたのではありませんか?」
『悪魔……』
「そうだ、あんた前にも死にかけてるんだよなぁ?そん時にでも唆されたんじゃねぇのか?」
『私は!……私は、この町を愛している。だから、魔物や盗賊からこの町を護るため……そのために!』
「強さを得るため、
狼は項垂れ、鼻先が冷たい石畳みに触れる。
『……私を祓うか、祓魔師殿。』
狼に言葉を向けられたベルは、呆気に取られたような顔をした後、〝あぁ、そうか〟と笑った。
「ありゃ嘘だ、〝分団長殿〟。俺は祓魔師じゃない。祓魔師はそっちだ。」
ベルはシーラを顎で指す。狼の視線に、シーラは応える。
「はい、あなたを祓います。もし魔の浸食が浅ければ、命までは奪わずに済んだかもしれませんが……」
「4人も人間喰っちゃあ、ダメだな。」
『……なぜあのとき殺さなかった?』
彼女を気絶させたときのことだとわかり、シーラは懐から単発式拳銃を取り出す。
「あなたに囁いたのは、強力な悪魔です。あなたをただ殺しても、あなたの魂は彼に囚われたまま。解放するには、特製の道具が必要です。あなたの血液をもとに、5日ほどかけて弾丸を作りました。」
「だから言っただろ、〝しばらくは安静に〟。作り終える前に動かれちゃ、困るんだよ。」
シーラは拳銃を真っ直ぐに構える。狼は美しく座った。
「言い残すことはありますか。」
『……結局、君たちは何者なんだ?』
「私はプリシッラ。悪魔の手を取り、悪魔を祓う者。」
「そして俺はベリアル。馬鹿な
『……はは!これでは、この世も終わりだな。気兼ねなく死ねるというもの。ただ──』
銃身に金の目が写る。
『──最後の時まで、私の愛した町が平穏でありますように。』
銃声がひとつ、月夜に響く。
「どうか、安らかに。」
町近くの森で、シーラはベルを待っていた。
「お待たせいたしました、シーラさん。」
ベルは神父の姿をしていた。
「それ、やめてよね。」
シーラは冷ややかな目で神父を見た。
「お前の頼みだろうが。」
青年の姿になりながら、ベルは口角を上げた。
「良いのかぁ?一応は祓魔の師匠を、そんな邪険に扱って。人間はそういうの、大事にするだろう?」
「それより、ちゃんと伝えてきてくれた?」
「あぁ。」
シーラの頼みで、ベルは〝祓魔師殿〟の姿をとり、自警団の団員たちにこう伝えた。
〝人狼は打ち倒されました。ですが、ウェンデルガルト分団長は、残念ながら……あまりに無惨な姿でしたので、勝手ではございますが、火葬させていただきました。散骨は、町がよく見える場所にしていただければと。〟
「ありがとう。」
「ったく、生きてる奴らは死んだ奴をこねくり回して自己満足か。」
「……ベル嫌い。」
シーラはさっさと森の中を進む。
ベルは舌打ちをした。
「見てんだろ、ムルムル。」
抜けるような青空に、雲が1つ。
「知ってるか?人間の世界には、轢いた肉をこねて焼いた食べ物があるそうだ。」
美しき悪魔は笑う。
「近いうちに、そのハゲワシごと喰ってやるよ。料理人はあいつだ。」
自らが憑いた偶像を手に。
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