かがやき
桐生甘太郎
かがやき
僕は母さんのためにお茶を淹れた。でもそれはどうせ「美味しくないわ」、「熱いわ」、「ぬるいわ」のどれか、もしくは「もっと静かにテーブルに置けないの」なんて言われて、僕は怒鳴られるだろう。母さんのルールは多すぎるから、僕には全部守る事は出来ない。でも、妹だけは守らなくちゃ。
「ママ、大丈夫そうかな」
隣で不安そうに、5歳の妹が僕の顔を下から覗く。
「大丈夫。何か聴こえてもこっちに来ない方がいいよ。里美はベッドの部屋に居な」
里美はそこでちょっと後ろめたそうな顔をして僕を見てから、「うん」とだけ言って、台所の隣にある襖を開け、ベッドに向かいそれを閉めた。
その時の理由は覚えていなかったけど、僕は結局1時間怒鳴られて、母さんが投げつけたから床にこぼれたお茶を、雑巾で拭いていた。母さんは僕に向かって、「呆れたわ、こんな事も出来ないなんて」と吐き捨てて、自室にこもってしまった。それで僕も里美のところに戻る。里美は布団を頭からかぶり、震えていた。
「大丈夫、里美、大丈夫」
僕がそう言って布団をぽすぽすと叩くと、里美は頭を出した。その泣き顔はとても苦しそうだったから、僕はもう一度「大丈夫」と言った。
「おにいちゃん…殺されちゃう…」
不意に、里美がそう言った。その目は僕が殺される事が決まった事のように恐怖に見開かれていた。
僕はその時、「兄への虐待がエスカレートしていつか殺されてしまうのではないか」なんてことを、5歳の心で感じてしまった里美に、胸が痛くて堪らなかった。知らないでいて欲しかった。
「なに、まさか殺しやしないよ。大人になるまでの我慢だし、こんなのなんでもない」
里美はなかなかそれを信じてくれなかったけど、「怒鳴ってるだけなんかじゃ、人は死なないよ」と、僕は初めて、里美に嘘を吐いた。
「僕は里美の光になりたかった」。あの荒んだ暗闇で、里美にとっての光になりたかった。
今は、里美とは会うことはない。
僕がほとんど無意識に図ってしまった自殺未遂によって、虐待は僕の父に発見された。
僕はベランダに出た瞬間意識が途切れ、そして目を開けると、病院のベッドの上に居た。その時、母と離婚したはずの父が、僕が目を覚ました事を泣いて喜び、いつまでも父は謝っていた。母はその場には居なかった。
僕と里美は父親が違うから、里美はもう、別の家で暮らしていた。「母さんはどうなるの」と父に聞いたけど、「もう、そんな事は忘れなさい」と言われて、父の弟である叔父さんが、「今は入院しているよ、長くなるだろう」とだけ教えてくれた。
成長した里美に一度会ったけど、今でも酷く怯える瞳は変わらずに、そしてそれはもう別の誰かを頼りにしていると、里美は口にした。
僕達は当時の事は一言も話さなかった。今がどんなにあの頃と比べものにならないかを、喜びあった。それでも里美は一度泣いて、僕はそれをあの頃のように慰めた。
「あの人、最近帰りが遅いの。私の事なんかもうなんとも思ってないのかも…」
「そんな事ない。里美はいい子だもの。それに、まだ何も確かめていない内からそんな事を考えるのは早いよ。話ができたら、聞いてみな。里美が寂しい思いをしてると知ったら、きっと早く帰ってきてくれる」
「…うん、そうね…そうかもしれないけど…」
僕達はその話が済んだ直後に席を立って、僕が会計をして店を出た。最後まで里美は、店での会計を僕だけが済ませたことを、「ごめんね」と言っていた。
「じゃあ、また。元気で」
「お兄ちゃんもね、じゃあ…」
僕は今でも、精神科のクリニックでカウンセリングを受けている。おそらく里美も同じだと思う。
僕達が初めて出会った人は、僕達が邪魔で仕方なかったんだろう。その事が、今でも僕達をゆすぶり続けている。でも、里美は今22歳、僕は31歳だ。かがやきが訪れるまで、僕達は生きるだけだ。
忘れないで、里美。君は誰にも愛されてなかったわけじゃない。だからきっと、今の人の事で、そんなに不安になる必要も無いんだ。
僕は、里美が成長して、とても美しくなった事に、泣いた。
End.
かがやき 桐生甘太郎 @lesucre
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