三章 ときにざんこくなひみつといふもの・後

 朝陽を跳ね返す、浜木綿の細い花びらの白さが目を刺した。空木に慣れた墨彦には浜木綿は少し頼りなく見える。細くて白い、少女の指先のような…。

「墨彦」

「…琴?」

 ふいに呼ばれて飛び上がる。前を向くと、琴音がこちらを覗き込んでいた。

「どうしたの?」

「…どうもしませんよ」

 無難に返して立ち上がれば、琴音はどことなく不満そうな顔をする。何かしてしまっただろうか、と墨彦は心配になる。

「琴こそ、どうかしたんですか」

「ええ。墨彦に、見せたいものがあるの」

 途端にぱあっと笑顔になる琴音。何だろう、と墨彦が首を傾げる中、琴音は袂から巻子本のようなものを取り出した。

「これよ」

 開けてみて、と琴音はそれを差し出す。漢字は読めない。下男に高等な教育は施されていないから。琴音をがっかりさせたくはないのだが。そんなことをつらつらと考えながら、墨彦は表紙を開く。

 ―目の前に艶やかな色彩が広げられた。

「琴、これは」

「凄いでしょう」

 得意そうな琴音が笑みを深める。墨彦は驚きのあまり何も言えない。

 巻子本の中身は押し花だった。琴音に出会ってから今日に至るまでに、墨彦が彼女にあげてきた花々がそこにあった。

「…一人でつくったんですか」

「ええ。ばれたら『何やってるんです!』って言われてしまうもの」

 琴音は悪戯っぽく笑う。

「でも、ごめんなさい墨彦」

「はい?」

「…貴方がくれたままの姿ではなくなってしまったわ。ちっとも色が綺麗でないもの」

 あたくし、きっと花を育てるのも下手なのかもね。琴音はうち萎れた声音でそう呟いた。

 墨彦はもう一度押し花達を見つめた。

 紅かった椿。白かった梅。薄紅だった芍薬。金色だった菊。青かった朝顔。

 確かに、もとは大きく鮮やかだった花々は今、紙の上で小さくなっている。だが、美しさが損なわれたわけではないのではないか?

 瑞々しく咲き誇っていた頃の彼女らは華やかな色をしていた。まるで広げられた少女の衣のように。しかし、琴音の手によって押し花にされたその姿にはえもいわれぬ艶がある。時を経て『己』というものを見極めた女性の艶だ。

「いいえ、綺麗ですよ」

「お世辞はいいのよ」

「…俺が世辞を言わないと言ったのは、貴女ですが」

「!」

 綺麗です、と墨彦は繰り返す。

「花が、琴のお蔭で大人になれました。落ち着いた色がよく似合う大人に」

 ありがとうございます。

 墨彦はにこりと笑んで頭を下げた。慌てたように琴音は頭を上げて、と言った。

「褒めてくれて嬉しいわ。でも、これは墨彦が育てた花よ。墨彦がくれた花よ。…だからね」

 あたくしからも、ありがとう、と。

 琴音はふわりと微笑んだ。

「独りぼっちの小鳥に、貴方は広い世界を見せてくれる。あたくしどんなに嬉しいか」

 何気なく、それでも万感の思いが込められた彼女の言葉は、思いがけず墨彦に刺さった。

 琴音は『墨彦』が昔も今もこれからもずっとそばにいるのだと思っているのだろう。だから過去形で話さないのだ。

 それでもこの世に永遠なんてないのだ。いつか終わりが来る。空も、花も、約束も。全てを叶えられないままだとしても。

 ―ごめん琴音。俺は、嘘つきだ。

 悔しさのあまり、墨彦はぎり、と唇を噛んだ。

「墨彦?」

 きょとんとこちらを見上げた琴音の瞳は、声は、昔と変わらず優しい。それに気づいてしまえば、もう駄目だった。

「!…墨彦」

 墨彦は琴音の体を抱き寄せていた。両手でその頭と肩を支えて、強く。

 温かい、と思った。温かくて柔らかくて、でも華奢で小さくて。

 離せない。

 離したくない。

 ―でも離さねば。

「…墨彦」

 琴音がもがく。すみませんと謝りながら腕をほどきかけると、「違うわよ」と言われる。腕をほどきかけた中途半端な状態で途方に暮れていると、ふいに背中に腕が回された。そのままぎゅ、と抱き締められる。

「…琴」

「…時が、止まってしまえばいいのに」

 伝わる鼓動が、早い。

 墨彦には、それがどちらのものなのか分からない。

 それでも、彼女の腕の力が、鼓動が、雄弁にその心を示してくれている。初めて、彼女の心に触れられた気がした。紛れもない、彼女の本心…。

 ありがとう。

 ごめん。

 守ってあげたかった。

 そばにいてやりたかった。

 俺は、心から、貴女を―。

 墨彦も万感の思いを込めて、でも気づかれないように、琴音の頭に口づけた。何が起きたのかさっぱり分かっていない風の琴音が墨彦を見上げてくる。「いいんですよ」と墨彦は、自分でも訳が分からないことを言う。しかし、その声に隠しきれない未練が滲んでいて、墨彦は自嘲した。


 ***


 静かだった。

 とても静かだった。

 風もなく星もない、月だけが煌々とした静かな夜。

 月影のもと、人影が動いた。簡素な風呂敷包みを小脇に抱え、道具の詰まったあの大きな籠を背負って、緩慢な足取りで歩いてくる。―墨彦だ。

 母屋の前を通り、白砂で音を立てぬようそっと歩を進める。

 立ち止まったのは、言うまでもなく琴音の部屋の前。白く輝く空木のそばで、墨彦は膝を折った。

 ぱちん。

 墨彦の長い指が一輪の空木を手折る。墨彦はそのままそれを部屋の濡れ縁に置いた。

「…さよなら」

 すくっと立ち上がる。

「…約束を破って、すみません」

 静かな懺悔は、墨彦の口から滑り出て、月の光に溶けてゆく。

 馬鹿だ、と思う。本当に馬鹿だ。

 己の無力を痛感するだけなのに、なぜこんなところへ来た?わざわざ忍んで来る必要がどこにある?未練がましく謝るなんて、誰が得をするんだ?どうして、俺は。

 ―嘘つきにはなりきれないんだ。

 約束を破っても、出ていくことを黙っていても、結局は見つけて欲しいだけ。止めて欲しいだけ。自分勝手で寂しがりで。

 こんなの、琴音には見られたくない。いや、見られてはいけないのだ。例え彼女を想っていようとも、それを貫けば琴音を傷つけてしまう。飼われた小鳥は、野の小鳥よりもずっと弱いのだから。

 震える指を伸べ、墨彦は空木を持ち上げた。そうしてそれを帯に差し込んだ。部屋に向き直り頭を下げて、もと来た道を戻ってゆく。

 ふと、空を見上げた。

 ひんやりと輝く白い月は、何かを咎めるように地上を見下ろしていた。







  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る