二章 ときにざんこくなひみつといふもの・前

 墨彦は孤児だった。父も、母もいない。彼にあるものは、同じく親を亡くした従兄の存在と草花についての知識だけ。

『今月も年貢を出せないのか!』

 大人がいないというのに、役人は理不尽にも幼い墨彦達に詰め寄った。自分達だけでは田んぼは耕せない、と抗議すると、うるさい、と拳骨が飛んできた。

『次に来るまでには用意しておけ』

 どすどすと足音も荒く去っていく役人の姿を、墨彦は恐怖と共に覚えていた。

『逃げよう』

 従兄は―仁弥ひとやは必死の形相で言った。あてはあるの、と問うた墨彦に、ここにいるよりはましだ、と答えにならない答えを返した。二人とも切羽詰まっていた。このままここにいれば何をされるか分からない。だが、逃げたところでどこに行き着くかも知れない。一か八かの賭けだった。

 二人は逃げることを選んだ。行き倒れても構わない、もう何かに縛られて生きるのは御免だった。

 彼らが、十になるかならないかの頃の話だ。


 ***


「何ぼさーっとしてんだ」

 放り投げるような声に墨彦は顔を上げる。見慣れた従兄の顔が、逆さまの状態で目の前にぶら下がっていた。

「うっわ!?」

 ごつん。

「いってぇな!!」

 互いにぶつけた額を押さえてのたうち回っていると、「お前らさぁ、」と怜悧な声を浴びせられた。

「毎回それやってるけど、そろそろ懲りない?毎度毎度石頭ぶつけ合ってて、よく割れないよな」

「「これが俺らの挨拶なんだ!」」

「はた迷惑な挨拶もあったもんだな…」

 俺にはやってくれるなよ、と呆れる彼の名は水瀬みなせ。切れ長の目元とその右下の黒子が色っぽい美丈夫だ。そして何よりの特徴は、そのざんばらの黒髪である。

「で?何しょげてたんだよ」

「いや…」

 問い詰めてくる従兄に曖昧な返事をすると、らしくねぇなぁ、と水瀬が嘆息する。

「何落ち込んでるんだか知らないけど、しけた面すんなって。これでも食って元気出せ」

 そう言って彼が差し出したのは大きな白饅頭。ふっくらふわりとしているが餡はしっかり詰まっている。琴音がこよなく愛する菓子でもある。つまり、滅多に食べられない菓子でもあるということで…。

「どうしたんだよ、こんな高い饅頭」

「うん、まぁな」

「…まさかお前、またどこかでかっぱらってきたんじゃ」

「いや、またって何だよ。まるで俺が日がな一日盗人をやってるかのように…っ」

 ―そう。彼のざんばら髪の理由は、過去の彼の所業にある。

 彼の家族は母親と妹だけで、父親を早くに亡くしていたそうだ。稼ぎ手は彼しかおらず食うにも困るという日が度々あったという。そんな日々の中、流行り病で呆気なく母親を失った彼は、同じ病に罹った妹を助けようと薬屋で派手に盗みを働いて捕まったのだった。

「妹共々お屋形様に助けていただいた恩があるのに、盗みなんか出来るかよ」

「じゃあ思わせ振りなことを言うな」

「お前らの話も一向に進まねぇよな」

 そう、やれやれといった風に口を挟んできたのが従兄の仁弥である。水瀬と二人で北園邸の護衛をやっている。背が高く、ひょろりと痩せている若者だ。

「大主様が土産だとおっしゃったんだ」

「どこの」

「どこってお前…北本家に決まってるだろ」

「本家の?」

 こくりと頷く仁弥と水瀬の前で、墨彦は呆気にとられる。

 大主様―北本家現当主、玄耀。北の家始まって以来の名君と慕われる老公であり、豪胆かつ磊落な御仁だ。琴音にとっては曽祖父にあたる。つまり、孫娘を北園家に下げ渡した立場にある訳だが、何分多忙なため、余程の慶事弔事がない限りは分家に足を運ぶことはない。ということは…。

「…何かあったのか?」

 さあね、と仁弥は肩を竦めた。

「俺らみたいな下っ端が知る訳ないだろ」

「あ、でも、お方様がやけに華やいだお顔をなさってたな」

「お方様が?」

「ああ」

 そう言う水瀬にふうん、と相槌を打って、墨彦は受け取った紙包みを懐にしまった。琴音にあげよう、と思いながら。


 ***


 琴音の部屋の垣根。少し時季外れに空木の花が咲いていた。眩しいくらいに白い花びらをゆらゆらと揺蕩わせている。

「琴」

 小さな声で名を呼んだが、琴音はすぐに気付いてくれた。楽器をやっているから耳が良いのかな、と墨彦は思う。琴音は何やら作業していた文机の前から立ち上がり、開け放した濡れ縁の方へとてとてと出てきた。

「なぁに墨彦」

「今、一人ですか?」

「あら、そうよ。珍しく皆出払っていてね」

 お目付け役が誰もいないのよ、と少しはしゃいだように琴音は笑う。つられて墨彦も口元が緩む。こんな風につかの間の自由を楽しむ彼女の笑顔が、墨彦は本当に好きだ。女房がいるときはつんと澄ましているのに、自分といるときは明るく楽しそうに笑ってくれる―自惚れかもしれないが。

「それで、どうかしたの?」

「琴に良いものを持ってきたんです」

 女房の方々がいらっしゃると白い目で見られそうだったので訊いたんです、と言えば、琴音は困ったように笑う。

 墨彦は琴音の女房達に―特にたおによく思われていないようだった。大事な姫様に近づくでない、と言ったところだろうか。一緒にいるのを見られると、何それとなく引き剥がされるのである。

 気を取り直して、墨彦が懐から紙包みを取り出して開くと、琴音は目を見張った。

「白饅頭ね!」

「ええ、頂き物ですけど」

 どうぞ、と差し出せば、「一つしかないの?」と訊かれた。もっと食べたかったのだろうか、と墨彦が考えていると、琴音が不服そうに口を開いた。

「今、食い意地張ってるなぁって思ったでしょう」

「いえ、別に」

「じゃあ、どうして黙り込むの」

「…もっと食べたかったのかなぁ、と」

「思ってるじゃない!」

 墨彦ったら失礼ね、とぽかぽか叩かれる。もっともその手は小さくて柔らかいので痛くも痒くもないのだが。

「はは…すみません」

「全くもう…そういう意味で言ったのではないのに」

「はい?」

「墨彦の分はないのっていう意味よ」

 ああなるほど、と墨彦は合点する。気を遣ってくれたのか。

「良いんですよ、琴の好物でしょう。遠慮しないで食べてください」

 それを聞いた彼女はしばらく口を尖らせた後、あっと声を上げた。どうしたのだろう、と見ていると、琴音は包みから饅頭を取り出してほっくりと二つに割いた。そして、その二つのうち大きい方をはい、と墨彦に手渡してきた。

「どうぞ」

「え、いいんですか?」

 当たり前じゃない、と琴音は微笑んだ。「あたくしよりも墨彦の方が大きいもの。そっちを食べて頂戴」

 ね、一緒に食べましょう。そう言って琴音はぽんぽんと自分の隣の床を叩いた。

「たお様に見られたらどうするんです」

「別に気にしないわよ。悪いことはしてないもの」

「はあ」

「それに、美味しいものは誰かと一緒じゃなくちゃ」

 独りで食べても味がしないのよ、と琴音が呟いた。

「…そういうものですか」

「ええ。いくら豪華でも一人っきりで食べると味が全然分からないもの」

 琴音の孤独を、ふいに突きつけられた気がした。あの頃からずっと、そうだったのだろうか。部屋の奥、小さな机いっぱいの食事を前にぽつんと座る少女の姿が脳裏に浮かんだ。

 何を言うことも出来ずに、墨彦は受け取った饅頭を頬張る。琴音も無言で饅頭をかじっている。何か言った方が良いか、と思っていると、琴音の方からねぇ、と話し掛けてきた。

「お父様ってまめな方だと思わない?お出かけなさる度に何かしら買ってきてくださるもの」

「…ああ。これを下さったのはお屋形様じゃないですよ」

「え?」

 大主様です、と言うとあら、と琴音はびっくりしたように手を口元に当てた。

「ひいお祖父様が?」

「水瀬と仁弥からそう聞きました」

「珍しいこともあるものね。こちらに直接おいでになるなんて」

「俺も、同じことを思いましたよ」

「たお達どころか、お父様やお母様もそんなことおっしゃってなかったわ。…あ、そうか、だから誰もいないのね」

 ご挨拶してないと無礼だって思われるわ、と琴音が慌てるので「俺もまだお会いしてないです」とおどけて返した。

「じゃあ、後で一緒にご挨拶しに行きましょう」

「一緒に?」

 流石にそれはまずいのでは、と思う。誰に何と言われるやら…。

「それには及びませんよ、姫様」

 すぐ後ろから低い声がして、二人は揃って飛び上がる。振り返ると年嵩の女房が立っていた。

「た、たお」

「大主様はお屋形様方とお話し合いをなさっています。何やらご内密のお話だとか」

「そうなの」

「私共も部屋を出るようにと仰せつかりまして」

「あら、じゃあ誰もご挨拶出来てないのね。良かった、あたくし達だけじゃなくて」

「ただ」

 たおは言葉を切り、墨彦をちらりと見やった。「庭師殿を呼んでくるようにとのお達しでございます」

「俺ですか」

「墨彦、貴方何をやらかしたの?」

 琴音がからかうように問うてくる。既視感のあるその台詞にはっと彼女を見ると、琴音はちょっと笑って口ぱくで「仕返しよ」と言った。思わず笑うと「急ぎ参るようにと、お屋形様が」とたおが急かしてくる。墨彦が大事な姫様と親しくしているのが相当に気に食わないらしい。

「申し訳ありません。…では、失礼します」

「行ってらっしゃい墨彦。ひいお祖父様によろしく申し上げておいてくださる?」

「ええ」

 一礼して、墨彦はその場を後にする。「このように陽射しの強い日に縁側にお出になるなんて。日焼けなさいますよ」というたおの小言が聞こえ、障子を閉める音が耳を突いた。


 ***


 墨彦ただ今参りました、と告げると入れ、と鷹揚な声が掛けられた。

「失礼します」

 室内に入ると涼しさが肌を包む。上座に琴秀ことひで、下座に音乃おとのが座っていた。大主―玄耀げんようはいないようである。

「大主様は、もうお帰りですか」

「うむ。いつにもましてお忙しいようであられた」

「そうでしたか。…姫様がよろしく言ってくれとおっしゃっていたのですが」

 何気なく墨彦がそう言うと、当主夫妻はそっと顔を見合わせた。おほん、と咳払いした後、琴秀は「急ですまぬが、そなたに話がある」と切り出した。

「は…」

「こちらへ、墨彦」

 あまり大きな声を出すわけにはゆかぬのだ、と琴秀は言う。墨彦は障子をすらりと閉めて、言われた通りに上座へ近づいた。

「先程大主様より、琴音を養女にとのお申し入れがあった」

「姫様を?」

 あまりに突然ではないかと思って問うと、琴秀は苦い顔をする。

「どうもまた、南家とぶつかっているらしい。北出身の武官が投獄されたとか、」

 そこまで言って、言うべきではなかったと思ったのか彼は不自然に言葉を切る。音乃が少し呆れたような表情をしていた。

「ごほん。…とにかく、中央における北家の力をいますこし強めたいとのことであった」

 派閥の権力を高めるために輿入れを図る。確かに貴族として一般的な考えであろう。だが。

「…どうしてそれを俺に」

 わたくしからお話ししましょう、と口火を切ったのは、それまで黙っていた音乃である。

「端的に申します。そなた、あの娘をどう思っているのです」

「どう、とは」

「わたくしが質問しているのです。質問で返さないで頂戴。無礼ですよ」

「申し訳ございません」

 音乃に眉をひそめられ、墨彦は謝る。次いで、そうですね、と口を開く。

「お守りせねばならない御方だと存じております」

 声が震えた。墨彦はそっと唇を噛み締めた。この二人に本当の思いを悟られてはならない。―初めて会ったときから、琴音のことを想わぬ日などなかったなんて。

 墨彦や、と再び琴秀に呼ばれた。

「はい」

「…あの娘に恋慕しておる訳ではないのだな、そなたは」

 墨彦は絶句する。ばれてしまった。しかし、そんな墨彦の態度をどう取ったか、琴秀は安堵したような案じるような、深いため息をついて呟いた。

「…あれは、そなたほどものの分別がついておらぬのよ」

「分別」

「あれは、そなたに恋をし掛かっておる」

 琴秀が告げた事実に、墨彦はただただ呆然とした。恋?琴音が?童女のように無邪気で天真爛漫な彼女が?

「…それは、」

「あれは我らの愛しい一人娘だ。私も音乃も、出来るのならあの娘の願いをかなえてやりたい。…だがここは北園家だ」

 ―そしてあれは北唯一の姫だ。

 顎髭を撫でて視線を落とした琴秀は、墨彦を見ることのないまま、吐息のようにそう呟いた。

「…私はそなたが善良な人間だというのも分かっているつもりだ。幼い頃から真面目に勤めてくれている。我が娘のこともたいそう気に掛けてくれている…先程のようにな。だからこそなのだ」

「だからこそ…?」

「庭師を慕う姫と、姫を一番に考える庭師。普通の者が見れば幸せな二人でも、政の中にある者の目にはそうは映らぬ」

 そなたらの姿様子が北家の隙となる。そう絞り出した琴秀は、苦しそうだった。

「…将軍の妻となる姫が、下男と親しくしているのか。もしや不義密通を働いておるのか。そうした陰口を叩かれよう。…そうなれば、そなたらの問題だけではなくなる。北の威信に関わる事態となり得るのだ」

「…」

 墨彦は何も言えなかった。

 意図せずして想い人の心の内を知った。知らぬ間に想いは通じていた。それだけで嬉しかった。幼い頃から守りたい、自由をあげたいと、そればかり思っていた。それが琴音のためだと。

 それなのに。

 それなのに、今は琴音のためを思えば彼女の壁たる北家が崩れ得るという状況になっている。

「そなたが身を引けば、今はそれがあの娘のためになります。あの娘を守る術となります」

 音乃が強い口調で言った。「何をすれば良いか、分かりますね」

 墨彦は血がにじむほど、皮が千切れるほど唇を噛み締めた。二人の視線が、痛い。

「俺は、…」

「すまぬが、しばらくこちらに顔を出さんで欲しい。里へ下がってくれ」

「…」

「勝手を言っている自覚はある。勤勉に仕えてくれていたそなたにこんな扱いをすべきではないとも思っている。あの娘にも多分泣かれる。だが、ここはどうか、聞き分けて欲しい」

 出仕しない間の給金は弾むから、と琴秀はやはり苦しそうに言う。音乃も異論なかろう、という顔をする。

 違うのだ。

 墨彦はそう叫びたかった。許されるのならば。お家がどうとか、金がどうとか、そういうことではないのだ。違う、自分が求めているのはそんなものではない。

 しかし、そんな自分勝手が許されるはずもない。何故なら墨彦は一介の庭師でしかなく、琴音は主家の姫だから。

 ―籠の鳥に本当の花を見せてやることは、最早出来ぬ。

「…詳しいことは、追って沙汰する」

 下がれ、と琴秀は告げる。

 墨彦は手を揃えてゆっくりと頭を垂れた。そうして無言の承知を示す間、墨彦の目には己の爪の隙間に入り込んだ庭土が寂しげに映っていた。









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