一章 はかなきこひは

「庭師殿」と声を掛けられて振り向くと、初老の女房が立っていた。

「琴音姫様を見ていないか」

「いえ、お見かけしておりません」

 首を振ってみせると女房はそうか、と独りごちて墨彦すみひこに背を向ける。「もし見かけたら、母屋へいらっしゃるようにお伝えせよ」そう命ぜられたので墨彦ははい、と頷いた。女房は一瞬睨むように鋭い視線を寄越し、何を言うこともなく去っていった。

 墨彦はその後ろ姿を見つめたまま「琴」と囁くように呼び掛けた。「行ってしまいましたよ」するとややあって、脇の籠が揺れた。

「全くもう。たおはしつこいのよ」

 そうぶつくさ言いながらひょこん、と顔を出したのは小柄な黒髪の少女だ。花弁のような唇をつんと尖らせている。墨彦が手を貸そうとするよりも早く、彼女は籠の縁に手を掛けて器用にぴょんと飛び出してきた。先程の女房―たおが見たら卒倒しそうなお転婆ぶりである。

「危ないですよ。転んでお顔に怪我をなさったらどうするんです」

「あら、大丈夫よ。貴方がいてくれるもの」

 窘める墨彦をものともせず彼女は―琴音はそんなことをのたまった。墨彦は苦笑するしかない。

「今度は何をやらかしたんですか」

「何もしてないわよ」

「じゃあ隠れる必要ないでしょう」

「だって、最近皆やかましいんだもの。『お年頃なんですから、もっとお淑やかに』とか『お年頃なんですから袖や裾を振らないでください』とか。お年頃お年頃って皆そればっかり。一日で百遍は聞かされてる。それに、後には必ず『お嫁の貰い手がなくなりますよ』って言うのよ!」

「まあ確かに、女房の皆さんのおっしゃることにも頷けますよ。琴も十四ですから」

 墨彦がそう返すと、「貴方までそんなこと言うの?」と琴音は憤慨した。

 もう十四か。墨彦は目の前の少女を見て改めてそう思った。あれから五年も経ったのだ。あどけない可愛らしさはそのままに、ふと翳る黒目がちの目や艶々と手入れされた長い黒髪が、近頃随分と大人びて見える。琴音は一人の女に花開こうとしている。―もう、墨彦の助けなど必要ないくらいに。

「墨彦?」

「はい?」

 慌てて応じると、琴音は急に黙るなんて変なの、とくすくすと笑った。


 ***


 墨彦が仕える北園家は北本家の分家筋である。大小の差こそあれ貴族という家格なのだ。

 将軍・橋本家が国を治めるこの時代、最も力があるとされる貴族家は二つ。一つは南本家。学才に長けた人材を多く輩出しており、諸文官や大臣の座を占めている。また、領地が海に面しているため交易も盛んである。そして、もう一つが北園家が属する北本家。三方を山に囲まれているせいで人の行き来は盛んとは言えないが、文武に秀でた武人に恵まれている。中央の軍事に関係する武人のほとんどが北本家及びその分家筋出身だと言われている。

 両家は―貴族にはよくありがちなことだが―表面上は穏やかだが、その実犬猿の仲もいいところだった。隙を見ては追い落とそうと画策しあっているという状況だ。文官が暗殺されれば南家が騒ぎ、武官が左遷されれば北家が喚く。風雅の欠片もなく陰湿に争う両家にうんざりしたのであろうか、いつの頃からか将軍の妻に南北の姫を迎えるという習わしが出来ていた。

 将軍としては汚い諍いをなくしたかったのだろうが、今やそれすらもいがみ合いの種になっているのだから、貴族というのは本当に手に負えない。


 ***


 北家には輿入れするための姫がいなかった。そう、十四年前までは。そして、分家筋の北園家に生まれたのが琴音である。しかも生まれついての美姫ときた。黒檀のような髪、黒真珠のごとく大きな瞳、白牡丹と見まがうほどの肌と紅梅の唇。そんなわけだから彼女は皆にことのほか大切にされてきた。掌中の珠―あるいは籠の鳥として。

『俺が、貴女をいつかきっと自由にする』

 あの頃は、無邪気に駆け回ることすら出来ない彼女を可哀想がるだけだった。自由に羽ばたいて欲しい。その一心だったのに。

 墨彦はちらりと隣を見る。琴音は朝顔に見とれているところだった。色とりどりのそれらは墨彦が手入れしたものだ。「綺麗ねぇ」とか「何て可愛い」とか、あどけなく感嘆の声を上げながら琴音は花々に夢中になっている。

「ねぇ墨彦」

「え、あ、はい?」

「これも、朝顔よね?」

 そう言って彼女が指したのは一際鮮やかな朝顔だった。紅の地色に細く白や山吹の模様が入っている、錦のようなものだ。

「お目が高いですね、琴」

 錦糸朝っていう珍しい種類なんです、と囁けば琴音は「そうなの?」と興奮気味に身を乗り出してきた。

「青や紫も好きだけど、これは一等華やかね」

「琴のためにずっと探してたんです。こないだやっと手に入りました」

「まあ。…嬉しいわ」

 墨彦は皆と違ってお世辞を言わないから本当に嬉しい。琴音はそう呟いて両手で頬を包んだ。

 墨彦はそろりと手を伸ばす。錦糸朝の茎を少し余した所で折り、花の園からそれを連れ出した。

 彼女の耳の上に朝顔を差してやると、琴音は驚いたように墨彦を見上げた。次いで差された花に手をやり「勿体無いじゃない」と抗議した。

「いいんです。琴にと思って植えたんですから」

「…もう。墨彦はいつもそうやって…」

 むくれたように言いつつも、琴音は満更でもなさそうな顔をする。墨彦は思わずくすりと笑った。黒髪、白肌、赤い花。美女と言って差し支えない姿なのに、時折こんなにもあどけなく見える。

「黒白赤。どこかの貴公子が見初めてくれそうな取り合わせですね」

「貴公子?」

 やだ、やめてよ、と琴音は本気で嫌そうな顔になる。

「あたくしどこかの貴族の妻になるなんてまっぴら御免よ」

「でも、」

「あら、貴方忘れてしまったの?」

 貴方があたくしに言ってくれたのよ。琴音は目を細めて懐かしむように言った。

「俺が、いつかきっと貴女を自由にするって。…あたくしは、ずうっと貴方の花に囲まれて生きていきたいの。あたくしらしく、自由に。あの頃から、あたくしの望むことはその一つだけよ」

 どこかうっとりしたように、でも真っ直ぐに琴音は囁く。昼下がりの光を弾く白い頬の輪郭を見つめたまま墨彦は何も言うことが出来なかった。





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