森の奥

 一度サボろうと思うともう、学校に行く気がなくなった。


 自転車をUターンさせて、街の南にある森の方へ走る。どうせ今帰っても母にガミガミ言われるだけだから、しばらく森の神社で時間をつぶして早退したことにしようと思った。今月も、河川敷や公園などで既に何度かサボっていたから、特に罪悪感はなかった。


 新築の住宅街を抜けると、緑の木々が見える。近づくにつれて様々な緑がわかる。瑞々みずみずしい薄い緑、大きな葉の深緑。点描てんびょうのように色をこぼして重なり、だんだんとひとつのかたまりをつくる。森はもうすぐそこだ。本当に街の端だから、通る人が少なくて、近づくにつれ道の舗装ほそうが崩れかけてガタガタになる。色あせた白っぽいアスファルトは、示準化石の役割を果たしていた。


 森と街を分ける民家のブロック塀が、昔のまま、ぼろぼろに崩れ落ちていた。


 塀の向こうの背の高い草むらに自転車を停める。駅前と違って鍵をかけるは必要ない。来るのは近所のじいさんばあさんくらい。それどころか、ハクビシンやイノシシ、カモシカばかりで、つまるところ、誰も来ない。


 森の奥、山の崖の下に神社はある。


 境内の外の危険な場所に近づかないよう、鉄柵が囲んでいる。それもつたが絡み、青い塗装ががれて、黒ずんだ壊れかけのものだ。入り口だとすぐわかる、鉄柵の切れたところに大きな黒ずんだ鳥居があって、そこがこちら側から入るときの唯一の空間になる。昔はすんなり入れたのに、今は少し勇気がいった。微かに懐かしい香りがした。


 通り抜ければ、ここは神森、闇の溜まる広大な木陰。


 見たところはまさに田舎の少し立派な神社といった感じで、珍しいといえばおやしろの裏に、たくさん祠が埋め込まれた崖がそびえたっていることくらい。地蔵が至るところに置かれている。とは言え、境内のほとんどは遊具のいくつか設置された小さな公園だ。


 子どもの元気な声はしない。辺りは薄暗くてどこか冷めている。


 大木ばかり集まっている。御神木なんかそれはもうどこかの巨人並みの太さだ。光は細く差してくるというより、刺してくる。針を落とすように鋭い白が地面に揺れる。


 昔は友達とよくここで遊んでいた。小さな僕と友人たちが、たった一瞬だけ、記憶の中から飛び出して目の前の景色と重なり、消えた。枝葉の影が地面の上で小さく揺れた。


 時間潰じかんつぶしにブランコに座って、スマホを取り出してもてあそぶ。ここ最近らそのせいか視力が落ちてきている。わかっていてもいじってしまうのは、何も考えなくて済むからなのか、こうしてしまうのは、僕がもう電子の世界に囚われているからなのか。



 虫が飛んできた。


 最初は気にしないでいたが、だんだん鬱陶うっとうしくなって画面から顔を上げた。どっか行けって、手で払っても払っても周りを飛んでいる。見えなくなっても、音だけはいつまでも続いている。来るんじゃなかったかな、と少し後悔していた。


 突然後ろから大きな虫が飛んできて目の前をかすめた。


 背筋がびくっとして一瞬動けなくなった。


 ああ、僕もこんな人間になってしまったのかとつくづく思う。昔は虫は怖くなかったのに、今は都会に染まってきているのかな、なんて言葉が頭をかすめた。


 いや、僕はどうせ田舎人だけどね。


 急に飽きが来て、スマホを仕舞って、鎖を掴み勢いよくいだ。足をたたんで、伸ばして、たたんで、伸ばして、ひゅぅ、ひゅぅ、と風を切る。


 目の前がぐらんぐらん揺れて、地面と空を行き来する。ただひゅう、ひゅう、という音が耳に当たる。


 靴の裏を地面に擦らせて、一回小さく空を見たあと急停止した。


 ・・・・・・なんだか、むなしい。


 ブランコって、もっと、気持ちいいものじゃなかったっけ。


 気がつけば虫の羽音は消えていた。けれど、記憶と違う変な感覚のもどかしさが今度はまとわり始めていた。

 


 コーヒーカップみたいな回転遊具で遊んだことはあるだろうか。


 僕はある。この公園にあるからだ。小さい頃は無性にこの遊具に憧れていて、これがないと公園じゃない、なんて考えていた。


 みんなでここに来るとだいたいこれで遊んだ。乗る人と回す人に分かれて、バカみたいな速さでぐるぐるぐるぐる回す。そんで中の人が気持ち悪くなってぐったりしているのを見て大笑いした。


 ひどいことをしたな。


 ブランコから降りて、隣にあったその遊具に乗る。塗装はやはり剥げていて、灰色と赤茶色が、廃品回収屋の物置き場のものみたいな、鉄のかたまりみをかもしていた。まだ動くかな、と思って、そっと中に座ってハンドルを回すと、キィーコ、キィーコとびた音をたてて回りだした。


 ・・・・・・。


 しばらく無心でゆっくりと、ハンドルを回し続けた。


 ・・・・・・。


 乗ったことを深く後悔した。


 遊具って、基本、一人で遊ぶようにつくられてはいないんだ。


 回っているうちに心がどんよりしてくるし、なんか気持ち悪いし、非常にさみしい気持ちになったので、降りた。あの頃の感覚はたぶん、バカみたいに回しているうちに飛ばされていってしまったんだ。



 ふと、お社を眺める。


 立派な瓦葺かわぶきの屋根の拝殿から本殿までが直列して並んでいるのを、横から見る。


 裏の崖の上は城跡で、今でこそ崩れかけの石垣しかないが、当時は要衝ようしょうとして押さえられていたという。

 そしてその城主の墓なんてものもこの神社にはある。


 崖とお社の間、たくさんの地蔵が立ち並ぶのに混じって、小さな墓石が建てられている。


 そこに刻まれた名前には、見覚えがあった。昔の大河ドラマに登場した人物のものだ。ドラマのなかで、確か、彼はとても優秀な忍者として描かれていた。本人は、ここで静かに眠っている。


 この人にとって、この場所はどんなところだったんだろう。子供の頃、ここで遊んだりしただろうか。歴史の古い神社だから、その頃からこの崖はあったんだろうとは思う。

 

 あなたはいったい、どんな人だったんだろうね。


 歴史の端っこで、あなたのことを見たこともないのに、僕はあなたの墓の前に立っています。


 つむじ風が吹くと、やはり当時と同じものが通り抜けているのが記憶の遠い遠いところからわかった。自分が自分でない気分がする。自然だけはいつまでも生きていることが僕に連続性を与えてくれる。



 そろそろいい頃合いだ。気持ち悪くて早退したことにして、家に帰ろう。


 僕は墓に一礼し、鳥居のところへ歩いて行く。


 緑が吹き上がるように葉が溢れている。


 ただ前だけ見て歩いていた。


 鳥居をくぐり少し来たところで、茂みの中に自転車があるのが見えた。


 は、っと気配を感じ、僕は神社の方を振り向く。


 誰もいない。


 木々が揺れ音を奏で、鳥が鳴き、風が森中を駆け回る。大きな弧を描いてすべての草木も砂も揺らして音を立てて、自然を共鳴させていく。


 だんだんだんだん大きくなって、渦を巻いて、音と風が僕を飲み込もうとしてくる。どこまでも深い森が、奥から僕を呼んでるみたいだ。

  

 僕は光の方を向いた。じっと目を細めて、先を見つめた。足は無意識に動いた。自転車茂みの中から引き出して、股がると、不思議と音は聞こえなくなった。ブロック塀を抜けるころには


 街の中に戻っていく僕を、森は静かに見守っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

短編集【故郷の景色】 桜庭 くじら @sakurabahauru01

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る