第2章 異世界?

渡る

 金曜の夜、残業が終わって一人、家に向かって歩いていた実季子は、後ろからずっと付いてくる足音に嫌な汗を滲ませていた。

 チラリと見える黒いコートのパーカーを、頭から被った、いかにも不審者然とした線の細い男。

 この一週間、ずっと付け回されている。

 実季子も最初は、気のせいかと思っていた。

 でも、角を曲がったところで隠れて相手のことを伺ったり、コンビニに駆け込んで、柱の陰からそっと外を覗いたりして見た男は、いつも同じ男のようなのだ。


 お兄ちゃん達に相談しとけば良かった


 どうにか兄離れ、妹離れを果たそうと、この1週間兄達を避けまくっていたのが徒になった。

 恐怖の余り、段々と歩くスピードが速くなり、終いには駆け足で逃げていた。

 走ることには自信がある。

 ところが、気がつけば男は直ぐ後ろまで迫ってきていて、橋の上にさしかかったとき、腕を掴まれてしまった。


 え?足音なんて聞こえなかったのに……


 実季子は、とっさに掴まれた腕を自分の方に引きながら捻った。

 男は、簡単に手が外れ、道端に転がる。護身術だ。

 けれど、日頃鍛えてはいるが、実際に危険な目に合ったことなどない実季子は恐怖で体が硬くなっていた。 

 しかも橋の上という場所も悪い。

 バランスを崩して、欄干から川にむかって大きく体が傾いだ。

 男は、どうにか実季子を掴もうと手を伸ばしてきたが間に合わない。男の口から短い言葉がこぼれる。


「スーロヴタス」

 次の瞬間、実季子の体を青い火のような光が包み込む。


 何? 火?


 考える暇もなく実季子の体は、橋の下の川に落ちていく。

 やっと厚手のコートが要らなくなったとは言え、川の水は冷たい。


 でも、大丈夫。私は泳げる

 中学まで水泳やってたし

 選手だったし

 地区の大会では、優勝もした

 落ち着け、落ち着け……パニックになって慌てると、上と下が分からなくなり溺れてしまう……


 あれ? 上はどっち?

 って言うか、どうして水の中のはずなのに息が出来るの?

 って言うか、ここ何処? 

 川じゃなくて池?

 景色も違うような……森の中?



 実季子の意識はそこで反転して途絶えた。





***


 アルカスは、先の戦争 7年前に勃発した対プレギアース戦 で、狂狼になりかけた。

 狂狼になる条件は、

 噎せ返る血の臭い

 沢山の敵意

 そして、大きなストレスと言い伝えられている。


 狂狼になると、敵味方関係なく目の前のありとあらゆる物を破壊し、暴れ狂う。

 アルカスの血筋には、まれに狂狼になってしまう者がいたため、幼い頃から肉体面でも精神面でも、あらゆる事に耐えられるように鍛えてきた。

 しかし、敵国から射られた毒矢が父の体に刺さったのを見た時、簡単にアルカスの心の均衡が崩れた。

 幸い、弟のエラトスと、軍の腹心であったアピテにより味方への被害は抑えられた。

 が、半狂狼となったアルカスに、敵陣は瞬く間に大打撃を与えられ、それが決定打となり、皮肉にも戦は終結したのだ。


 今は、どうにかプレギアースとの関係も危ういながらも落ち着いており、また狂狼となる条件が揃うような危険は今の所ない。

 が、いつ狂狼となってしまうか分からない自分の中の危うさが、アルカスの不安を煽る。

 誰に打ち明けることも出来ず、日々、悩みはじわりじわりとアルカスの体の中に溜まっていく。

 頭は常に痺れたように重く、頭痛に悩まされ、夜もイヤな夢を見ることが多いため熟睡できない。

 食欲もあったりなかったりだ。

 それでも、周りを心配させまいと、どうにか胃の中に入れているのだ。


 そんな自分の気分を紛らすために、周りには巡回してくると言い訳をして、一人になるため城砦のすぐ南にある森に、定期的に馬を走らせる。

 森の中にある泉に来ると、少しだけ、体の中に居座る重いものが軽くなるような気がするからだ。


 その日も一人、森の近くまで愛馬を走らせた。

 丸い月には、ボンヤリと霞がかかり、鈍い月の光が泉の周りに群生する小さな青い花を浮かび上がらせるように照らしていた。

 淡い青色の花々が、優しい香りを匂い立たせ、まだ冷たさの残る風がアルカスの頬を撫でるようにそよ吹く。

 風が通った方を振り向くと、泉の程近くに何かが淡く発光しているのを見つけた。

 何か小さな塊がうずくまっている。


 人か? 

 夜も更けたこんな時間に、こんな所に?


 近寄ってみると、


 小さな黒髪の女の子?

 カールされた巻き毛が顔を覆っていて良く見えない

 何かから逃げて、力尽きて倒れたのだろうか?


 着ている服が捲れ上がって腰の辺りがぼんやりと金色に光っている。


 念のため、アルカスは帯剣している剣を抜き、用心深く近寄ってその子の体をひっくり返そうと触れた。

 その時だ。

 ボンヤリと光っていた金色の光が、眩く大きな光の輪となって彼女とアルカスを包み込んだ。


 光に温度なんかあるのか?

 

 仄温かい光の球に包まれて、今まで感じたことのないような安心感を感じた。

 今はもう居ない母親の腹の中に居た頃はこんな感じだったのかもしれないと、普段の自分では考えもしないような事を思ってしまう。

 光に包まれること数秒だったのか、数刻だったのか……。

 その間は、日頃の重責や不安、何もかもが蒸発したかのように消え、ただ、ただ、心の中が何やら優しい柔らかいものに満たされる。

 球のようになっていた光が徐々にその明るさを潜め、球の大きさも彼女とアルカス2人を、ようよう内包しているくらいに縮んだとき、光は音もなくスッと、アルカスの足元に仰向けに転がっている彼女の腰の辺りに引き込まれるように消えていった。


 暫く呆けていたアルカスは、我に返るなり足元に転がっていた少女を抱き起こして、抱きしめた。

 なぜそんな事をしたのか、自分でも理由は分からない。

 けれど、我が身から溢れ出てくる柔らかい気持ちが、アルカスにそうさせたのだ。

 間近で見ると、少女は幼くは見えるが、胸の膨らみもあるし、大人の女性のようにも見える。

 アルカスがギュウギュウ抱きしめたからか、眉間にしわを寄せて苦しそうにしている。

 慌てて、そっと横抱きにすると、羽織っていたマントで大切に包み込み、抱いたまま愛馬に跨り城に帰った。


 不思議なことにこの5年で澱のように溜まっていた疲れや心の中の重みが、あの金色の光と共に消えて無くなったように感じられ、体がとても軽くなった。

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