第1章 プロローグ

プロローグ

 

 濃い緑の葉が生い茂る、木々のほんの少し湿ったような、香ばしいような……。

 複雑で、芳醇な香り。

 草の青い香り。

 そんな、深い森の中にいるような香りがする。

 とても、とても安心する匂い。

 自分の顔の周りが、銀色のカーテンで覆われているようにキラキラ光って見える。

「ミキコ……、

 ミキコ…………ミキコ……」

 誰かに、何度もキスをされる。

 呼ばれる自分の名前が、まるで愛の告白を聞いているかのように、実季子の心拍数を早くする。




「実季子!おい、実季子ぉぉぉ!実季子ってばヨォ!!」

 聞き慣れた声に、何度も呼ばれて、ガバリとベットから体を起こす。

「お前、もう起きないと間に合わないんじゃないの?

 か・い・しゃ」

 目の前の、ぶ厚い筋肉を着た暑苦しい兄が、言い放った言葉に、青くなった。

「……ギャーーーー遅れる!!」

 急いで、会社に向かう支度をしながら、いつまでもドキドキしっぱなしの自分の心臓を、恨めしく思った。

 

 欲求不満なのかな?

 いくら、彼氏が欲しいって思ってるからって、キスされてめっちゃドキドキする夢見ちゃうなんて……


***


 月森 実季子ツキモリ ミキコは、大手IT企業で、パソコンのマザーボード及び周辺ボードの開発をしている28歳のOLだ。


 丸い顔に、大きめの丸くて黒目がちな瞳と、少し上向きの丸い鼻、小さい口が程よいバランスで並んでいる。

 所謂、童顔だ。

 もう28歳だと言うのに、いつも20代前半に見られる。

 下手すると、“何年生?“と聞かれることもある。

 その前に来るのは、もしや高校という言葉ではと怖くて聞けない……。


 背中まであるクルクルの天然パーマを、いつも適当にバレッタで一つに纏めて、カジュアルが基本の会社なので、動きやすいパンツに、シャツかニット。

 と言っても、ウールは着ない。パチパチ静電気が起こると、ボードを動かす際に、誤動作を起こすからだ。

 女子力と言う言葉はあまり好きじゃない……。


 実家は、剣道と合気道の道場を開いている。

 父親が剣道を。

 3人いる一番上の兄が、合気道を教えている。

 下2人の兄も、幼い頃から鍛錬を重ね、2番目の兄は大手企業とスポンサー契約を結んで、テコンドーのオリンピック選手候補。

 3番目の兄は、警察官だ。アホみたいに強いので、力を使う危ない事件にばかり回されていると聞く。

 心配だ……。


 そんな筋肉兄弟の一番下に生まれた唯一の女の子である実季子は、兄達に溺愛されている。

 何かにつけて、ー主に夕飯に釣られて- 実家に呼ばれ、道場に連れ込まれ、練習に付き合わされるのが日常だ。

 剣道も、合気道も好きだし、稽古も楽しい。

 体は締まるし、夜道を歩くのも怖くない。



「おい!実季子。それだけしか食わないのか?お前、ダイエットでもしてんの?」

「え?いや、別に……」

「やめておけ。ダイエットなんかして、ホルモンバランスが崩れると、美しい肉体からは遠ざかるぞ」

「だから別に、ダイエットを……」

「実季子は、そのちょっとお肉がある体が、かわいいんだよなぁ? 」


 いつものことだけれど、三人とも実季子の話を最後まで聞かない。

 自分たちの好き勝手に喋って、結論にもっていくと満足して各々好きな行動に移る。

 今日は、ダイエットをしていると決まってしまった実季子の皿に、三人の兄たちが肉をどんどん乗せていく。

 実季子の取り皿には、あっという間に肉が山盛りになってしまった。


「あああああ! もう、やめてよ。勝手にこんなにお皿に盛らないで。

 別にダイエットなんてしてないし、ご飯は自分の好きな量を食べるからいいの」

 皿に盛られた肉を、三人の兄のお皿に返しながら、実季子は行儀悪く怒鳴った。


「あのね、私は一日の大半をデスクワークで終わるの。

 一日の大半を筋肉を酷使することに費やしてるお兄ちゃんたちと一緒の食事をしてたら、

あっという間に成人病になっちゃうの!」

 箸とお茶碗をテーブルに置いて、お茶をごくごく流し込むとフーっとため息が出る。


「いや、俺だってお月謝の計算くらいするぞ」

「俺だって、座学がある」

「俺も。今日だって始末書書いたし」

 はぁ〜……深い、深いため息がこぼれる。

「おーかあさーん」

「「「ゲッ」」」



 兄達は、母に弱い。

 普段は、口数も少なく、優しく笑っている母だが、一度怒らせると家の中は嵐が来たようになるのだ。

そんな母は昔、父に一目惚れして、父を口説き落としてお嫁に来たそうだ。

 両親も親族もいない天涯孤独な母のことを、最初は同情していた父は、意外と男前の母に惚れ込んでしまい二人は結婚した。

 今でも二人はラブラブだ。実季子もそんな二人のように生涯を共にする相手に出会いたい。


 兄達だって、子供の頃は良かった。愛されている実感も持てるし、3人は中々にイケメンだ。

 実季子にとって、自慢の兄なのだ。

 しかし、愛が深すぎる。鬱陶しいは、とうの昔に通り越している。

 実季子は、知っているのだ。兄達は実家に実季子を呼んでは、男の気配がしないか探りを入れている。

 そして、度々呼び出すことによって、出逢いのチャンスさえも潰すように画策している。


 会社が本当に忙しい時期は兎も角、そうで無いときは、残業だというと会社の前まで迎えに来るし、飲み会だというと、一次会で帰れと言われる。

 逆らわない実季子も悪いのだが、下手に逆らうと、面倒なのだ。

 兄達は、母から貰った体の上に、筋肉という服を着ているが、頭の中まで筋肉というわけでは無い。

 ずる賢く、計画的に、しかも確実に、実季子を自分達の敵 -男- から、遠ざける。


 高校の時に良いなと思っていた彼と、デートに出かけたことがある。

 しかし、デートの途中で彼は実季子を置いて帰ってしまった。

 理由はお腹が痛いからだった。

 それから彼とは話さなくなった。


 次に気になった相手は、初デートをドタキャンされた。

 これも、お腹が痛くなったためだ。


 次の彼は、急に避けられるようになった。

 理由を聞くと、毎度トイレに行きたくなるからだと言われた。

 どうも、実季子が気になる相手は、お腹が弱いらしい。

 おかげで実季子は、すっかり自分には魅力がないのだと勘違いして、以来、積極的に恋愛をしてこなかった。

 

 しかし、そうではないと知ったのは最近の事だ。

 もう時効だろうと、実季子がいないところで、3人の兄達が圧力をかけていたと、友達に教えられたのだ。

 もう、28歳。今年の秋には、29歳になる。

 早く妹離れしてほしい。兄達の執拗な過保護のおかげで、こと男性経験においては、ことごとく経験値が低いのだ。

 あんなことや、こんなことも、ほぼ、ほぼ全て未経験……。


 男性は、30歳を過ぎれば魔法使いになれるそうだが、じゃあ、女性はどうなんだ?

 このままじゃ嫌だ!

 どうにか兄離れ、妹離れを果たして、お酒の席で友達とあんなことや、こんなことの話で盛り上がってみたい!

 雷に打たれたり、突然目の前が色鮮やかに見えたり、コルクを弾き飛ばして想いが溢れたりしてみたいのだ!!

 夢ばっかりじゃ、イヤだーーーーーー!

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