花櫃の話(「草花」「盗賊」「櫃(ひつ)」)

 昔々あるところに、一人のやせっぽちの少年がおりました。

 少年はそこそこの家柄の出でしたが、元服前に貴族同士のいざこざに巻き込まれ、今は孤児の身となっていました。ボロ小屋の雨漏りのする板敷きに、たった一人で暮らしています。

 ある晩のこと、少年は街道の隅にある薮に隠れて、誰かが通るのを待っていました。出会い頭に襲いかかって、金品を奪って生活の足しにしよう、と。

 真っ暗な細い街道には、人っ子一人の気配もしません。月の光だけが辺りを頼りなく照らしています。少年の耳元で草がこすれてさらさら鳴ります。むずむずする鼻を我慢しながら、彼はじっとしゃがんでいました。


 そんな時、どこからか声が聞こえてきました。

「おうい。そこの少年。足をどけてくれんかい」

 少年はびっくりして思わず身じろぎしました。声は真下から聞こえるようで、少年は自分の足元を注意深く見つめました。草履を履いた足をずらすと、土くれに埋もれた何かがありました。

 掘り返してよく見てみると、それは古びた石碑でした。大きさは少年が両手で持ち上げられるほどと手頃です。昔の文字や記号で何やら刻んでありますが、少年がいくら目を凝らしてもその意味は読み取れません。

 ためつすがめつ眺めていると、一瞬あたりが眩しく光りました。少年は思わず目をつぶります。


 おそるおそる目を開いた時、辺りはなぜか朝になっていました。陽光がやわらかく草地を照らし、涼やかな風が少年の髪を揺らしました。ほのかな霧が野原に漂っています。

 少年はしばらくぼんやりと空を眺めていましたが、やがてはっとして素早く起き上がりました。一体何が起こったのか。ほどなくしてまたあの声が聞こえてきました。

「少年よ。よくぞ私を起こしてくださった」

 声の方へと振り返ると、例の石碑は薮の側にこじんまりと立っていました。まるで誰かがきれいに直して、丁重に奉じたかのように。

 しかしそんなことよりも、少年は奇妙な光景を目にしていました。

 その石碑のわきで、一頭のヤギが草を食っていました。大口を開けては草むらに顔を突っ込み、もしゃもしゃと盛大に咀嚼していました。絶えず顎を動かしてぐもぐもと食らっています。茎や葉のみならず花も根もおかまいなく。

 しかも、先ほどの声は石碑からではなく、そのヤギの方から聞こえたようなのです。少年が怪訝な顔で見つめていると、ヤギは巨大なげっぷを一つしました。そして少年の方にぐりんと顔を向けます。

「そこな善き少年。ここの草は絶品じゃ、まっこと素晴らしい」

 とくにこの花弁のやらかいのが好きなんじゃ。そう言って花々をまるごと齧るヤギを見て、少年は不快そうに顔をしかめました。ヤギは気にせず、久々のご馳走と言わんばかりに食べまくっています。ヤギなので表情はよくわかりませんが、実に満足げでした。

 朝日が照らすうららかな春の草地で、ヤギが植物を食むぱりぱりむしゃむしゃという音が響いていました。その風景にはまったく何の風情もありません。少年はなんだか毒気を抜かれてしまって、ヤギのそばにぺたんと座り込みました。草地は朝露に濡れて、苔のようなしっとりとした香りがしました。

 ようやく頭を上げたヤギが言いました。

「ところで、ここで何をしておったのかな」

 少年は遠くを眺めたまま、ぶっきらぼうに返します。

「盗人」

「ほう、ぬすっと、とな」

 咀嚼を続けながら、ヤギは不思議そうに首をひねりました。

「お主はそんな手合いではなかろうに」

「盗人だよ。そうしなければ生きてゆけん」

 少年は機嫌悪そうにヤギを睨みつけました。しかしヤギはまったく怯む様子がありません。依然草を咀嚼するばかりです。その金色の瞳が鈍く光って、じっと少年を見つめています。

「なれば、その体のあざは何ゆえに?」

 不意にそんなことを問われ、少年は思わず腕を背に隠しました。

「おおかた、慣れぬ荒事でついた傷じゃろう。そうして手にした少ない乾飯さえ、乞食の子供らに分けてしまったのだから、お前さん相当のお人よしだの」

 昨晩の出来事まで言い当てられ、少年はどきりとしました。このヤギは何なのだ。悪しき物の怪のたぐいではあるまいか。彼がそう危惧していると、

「我は旧くとも立派な神なれば。心を読むなど造作もないことよ」

「……馬鹿らしいことを申すな、ヤギのくせに」

「ほっほ。信ぜずとも良い。ところで、少し頼み事を聞いてくれぬか?」

 少年の動揺を知ってか知らずか、ヤギは平然とこんなことを持ちかけました。

「我は供え物が欲しい。とくにここらの花は美味い、気に入った。少年よ。小箱いっぱいほどでよいから、持ってきてくれんかの」

「断る。そのような義理はない」

「まあそう言わずに。そなたにとっても悪い話ではなかろうに」

「どういう意味だ」

 朝日を浴びて、ヤギのツノは飴色にてらてら光っていました。

「そなたの母君もきっと喜ぶじゃろう」

 それを聞いた瞬間、少年の脳裏にはかつての家の風景が浮かびました。彼の母が床の間に正座し、壺に花を生けています。その白魚のような手、柔らかな眼差し……。

「……っ! 分かったような口を利くな!」

 少年は声を荒げました。その小さな身体は苛立ちに震え、口の端は不安げに引き結ばれています。

「すまんの、戯れが過ぎたわ。だが、年寄りとして一つ言わせてもらうとな」

 ヤギは蹄を鳴らし、朝日の方を仰ぎ見ました。

「この世の愉しみとは、ただ一時のみの輝きなればこそ。そなたもまた、心のままに成せばよいのだ」

 少年はわけのわからないといった顔で、それを聞いていました。

「今は分からずともよい。ただ、それだけを覚えておいておくれ」

 それを最後に、ヤギの姿はふっとかき消えました。

 ふと気がつくと、辺りは元の景色です。街道は夜に沈み、月明かりだけがしんしんと降っていました。少年の足元には食べかけの花が一輪落ちていました。それを拾い上げると、欠けた花弁を指で丁寧になぞりました。いまだ夜は深く、空気は冷たく澄んでいました。


 そして幾年か過ぎたころ。

 少し背の伸びた少年が、例の石碑の前に立ちました。涼やかな風が彼の横髪を揺らします。短くなった着物を紐でたくし上げた、精悍な顔つきの少年は、石碑へと語りかけました。

「ずいぶん遅くなったが、頼まれごとを果たしに来た。受け取れ」

 そう言って差し出したのは、小さな飯櫃でした。普段は握り飯やら山芋やらを入れておくその箱を、少年は恭しく開きます。

 そこには色とりどりの花々が収められていました。その色や置き方には少年の細やかな配慮が見て取れます。花弁は瑞々しく、茎や葉は青々としています。素朴なれど豊かな野山の風景が、一つの箱の中に満ちていました。

「花なぞ飯の足しにもならん。しかし、まあ、愉しくはあったよ」

 かつて少年は生花を造ることが何より好きでした。母が教える隣で、一心不乱に花と向き合っていました。武芸の稽古よりも手習いよりも、その時間が最も安らぎと幸福を感じさせました。いずれもはるか遠い日のことです。

 花でいっぱいの櫃を前に、少年は懐かしそうに目を細めました。そしてそのまま踵を返し、街道の向こうへと歩み去って行きます。

 いつのまにか現れたヤギが、飯櫃の花を前に佇んでいました。少年の後ろ姿を見送りながら、ヤギは満足げに一鳴きすると、草地の向こうへと姿を消しました。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

3センチメートルの物語集 あおきひび @nobelu_hibikito

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ